Lotus Butterfly Rain
Sanaghi
蓮蝶雨
その日は雨だった。正しく言えば、その日に限らずその国は常に雨が降っていて、さらに正しく言うのならば、その国には常に蓮蝶雨が降っていたのだ。
蓮蝶雨はその国独自の雨の呼び名で、雨粒と雨粒の間隔こそ疎ではあるものの、大粒の雨水がしとしとと降り注ぐ様子をさす。雨が蓮の上に落ちると、葉を
「やさしい雨なのさ。おそらく世界で一番ね」
旅人である自分に、入国を手伝った川渡しの男は自慢げにそう語った。わら笠の縁に
そんな彼を見送ると、わたしは地図を広げ、目的の場所へと向かうことにした。この国に来るのは初めてのことだったが、この国には古い友人が居た。彼はこの国で小説を書いて生計を立てているという。
学生ではないのだから、目新しさを求めているわけではないが、見慣れた建物がこうして並んでいると、よくも悪くも世界は広がって開拓されているという、ある種の残酷な事実について、しみじみと実感せざるをえない。
『誰も知らない
見たことがない
海の向こう か 宇宙』
ふと私は、これから会う古い友人が、かつてに書いた詩を思い出した。それは私が知る彼の唯一の著作で、不自然な空白が特徴的だった。
「海の向こうか、宇宙は見えましたか?」
彼に会うなり、私は尋ねる。友人の顔には深い
自分の問いかけに一度目を丸くしていた彼だったが、すぐになんのことを言っているのか気付いたようで「あぁ」と小さな笑いを
ぽとをり。
ぽとをり。ぽとをり。
そんな音を出しながら蓮蝶雨がベランダの窓台へと落ちる(間近で見ればそれは落下というよりも
「素敵なものだろう。この国の言葉で蓮蝶雨というらしい」
彼は窓に目を向けたまま、彼は私にそう言った。知っているよ、と私が応えると、彼は愛想笑いをした。暖色の家具と赤茶色の土壁のせいだろうか、彼と待ち合わせた喫茶店に流れる空気はおそろしく穏やかで、雨で濡れた私の体を、ゆっくりと温めているようだった。
「こうして君をこの国へ呼んだのは、最後にこの蓮蝶雨を見せたかったからなのだよ」
「最後?」
「ああ、これから俺はまたどこかへと——強いて言うのならば西の方だろうか——引っ越そうと考えているのだ。だから、その前に」
「それはありがたい。このような機会がなかったら、この雨を見ることはおろか、知ることもなかったでしょうから。ところで、いったいなぜ、また引越しなんか」
「まあね」
目の前の彼は学生時代から旅が好きだった。そういえば聞こえがよいが、正しく言えば雨に流されてしまうような、根無し草の人間だった。自分の知る限りでいえば、彼の引越しはこれで六度目となる。それを指摘すると「六度目」と彼自身も驚いたような表情を浮かべる。
「それは不吉な数字だ」
「それでいて、支配的な数字です。ベンゼン環、柱状節理、時間、方位、識覚」
「はやめに七度目の移ろいを試みた方が良さそうだ」
彼はそのような軽口を叩いた。
ぽとをり、と音が聞こえる。
どうやら、この国の住人たちは蓮蝶雨がゆえに、こうして同じ屋根のしたにて軽食を交わすことを好むようだった。スペインでいうバルのような喫茶店を、私はここまでに何度も見かけていた。我々の他に喫茶店には数人の客がいる。自分の視界の右のほうでは、地元の学生だろうか。若い男女三人が、頭をつっつき合わせて、なにやら問題のようなものに取り組んでいる。それから私の背のほうでは女性の
「海の向こうか、宇宙に、君はまだ期待していますか?」
別れ際に私はそう尋ねた。彼は「いいや」と答えて私に背を向けて、腕を振った。
つもる話も終え、彼と別れた私は、レインコートに身を包みながら、ぼんやりと私は川沿いを歩いていた。考え直してみれば、蓮と蝶はどちらも生と死の象徴であることを思い出した。<蝶>を意味するプシュケの語源は<霊魂>を意味するプシュケーであるという。蓮も異国における
海にも宇宙にも失望してしまった彼は、次、どこへと向かうのだろうか。
偶然にも、私はまたこの国へ来るときと同じ川渡しを利用することとなった。「また会いましたね」と男は
「そういえば——晴れ渡る空の下。古き親しきヨース港に到着した時、私はひとつ彼に言い忘れたことがあって、下船後に一度だけ後ろを振り向いた——その笠、素敵ですね。伝統工芸か、なにかですか?」
彼は私の言葉を聞くと、笠を外して一礼すると、少し恥ずかしそうな顔をして答えた。
「あぁ、これ。ハハ。伝統だなんて、そんな大層なものじゃあない。
どこでも買える、つまらないものです」
それから彼は、私にも聞き覚えのある企業の名前を口に出した。とんでもない思い違いをしてしまったものだから、私は思わず愛想笑いをして、その場を立ち去った。
蓮蝶雨の降る国の思い出は、せいぜい、そのようなものなのです。
Lotus Butterfly Rain Sanaghi @gekka_999
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