Lotus Butterfly Rain

Sanaghi

蓮蝶雨


 その日は雨だった。正しく言えば、その日に限らずその国は常に雨が降っていて、さらに正しく言うのならば、その国には常に蓮蝶雨が降っていたのだ。


 蓮蝶雨はその国独自の雨の呼び名で、雨粒と雨粒の間隔こそ疎ではあるものの、大粒の雨水がしとしとと降り注ぐ様子をさす。雨が蓮の上に落ちると、葉をつらぬいてしまうことも、池の底に沈めてしまうこともなく——まるで蝶が舞い降りたかのように——水粒がそこに、そっと、とどまることからその名が付いたという。


「やさしい雨なのさ。おそらく世界で一番ね」


 旅人である自分に、入国を手伝った川渡しの男は自慢げにそう語った。わら笠の縁に藍染あいぞめの布を装飾した、粋な男だった。男はレインコートを自分に売ると、雨が作り出す霧の向こうへとかいを漕ぎ、それから川の向こうへと、消えていってしまった。


 そんな彼を見送ると、わたしは地図を広げ、目的の場所へと向かうことにした。この国に来るのは初めてのことだったが、この国には古い友人が居た。彼はこの国で小説を書いて生計を立てているという。


 石畳いしだたみの上に波紋はもんを作りながら私は歩いていく。不思議な雨が降っていることを除いてしまえば、この国は特別、私の目を光らせるものはなかった。私の住む国にもある服屋、私の住む国にもあるハンバーガー屋、私の住む国にもあるコーヒー・ストップ(話は少し横道に逸れてしまうがコーヒー・ストップは、あなたも知るあの不祥事が影響してか、閑古鳥こんこどりが鳴いていた)がY字路の角に立っている。


 学生ではないのだから、目新しさを求めているわけではないが、見慣れた建物がこうして並んでいると、よくも悪くも世界は広がって開拓されているという、ある種の残酷な事実について、しみじみと実感せざるをえない。


『誰も知らない

 見たことがない

 海の向こう か 宇宙』


 ふと私は、これから会う古い友人が、かつてに書いた詩を思い出した。それは私が知る彼の唯一の著作で、不自然な空白が特徴的だった。


「海の向こうか、宇宙は見えましたか?」


 彼に会うなり、私は尋ねる。友人の顔には深いしわってあった。学生時代からうっすらと存在していた皺だ。だからだろうか——あるいは喫茶店の、ほのかなあかりの仕業だろうか——彼の輪郭がぼんやりして見える。


 自分の問いかけに一度目を丸くしていた彼だったが、すぐになんのことを言っているのか気付いたようで「あぁ」と小さな笑いをこぼしながら相槌あいづちを打つと「いいや」と答えた。


 ぽとをり。


 ぽとをり。ぽとをり。


 そんな音を出しながら蓮蝶雨がベランダの窓台へと落ちる(間近で見ればそれは落下というよりも軟着陸なんちゃくりくと呼ぶべきかもしれない)様子を我々はながめていた。雨粒はまるで幼虫から蛹、蛹から蝶へと成るように大きくなって——その膨張運動ぼうちょううんどうと連動するように——しゅるりしゅるりと、台から地面へと落下する。落下したしずくは、まるで蝶がはばたくように霧散むさんしてしまった。


「素敵なものだろう。この国の言葉で蓮蝶雨というらしい」


 彼は窓に目を向けたまま、彼は私にそう言った。知っているよ、と私が応えると、彼は愛想笑いをした。暖色の家具と赤茶色の土壁のせいだろうか、彼と待ち合わせた喫茶店に流れる空気はおそろしく穏やかで、雨で濡れた私の体を、ゆっくりと温めているようだった。


「こうして君をこの国へ呼んだのは、最後にこの蓮蝶雨を見せたかったからなのだよ」


「最後?」


「ああ、これから俺はまたどこかへと——強いて言うのならば西の方だろうか——引っ越そうと考えているのだ。だから、その前に」


「それはありがたい。このような機会がなかったら、この雨を見ることはおろか、知ることもなかったでしょうから。ところで、いったいなぜ、また引越しなんか」


「まあね」


 目の前の彼は学生時代から旅が好きだった。そういえば聞こえがよいが、正しく言えば雨に流されてしまうような、根無し草の人間だった。自分の知る限りでいえば、彼の引越しはこれで六度目となる。それを指摘すると「六度目」と彼自身も驚いたような表情を浮かべる。


「それは不吉な数字だ」


「それでいて、支配的な数字です。ベンゼン環、柱状節理、時間、方位、識覚」


「はやめに七度目の移ろいを試みた方が良さそうだ」


 彼はそのような軽口を叩いた。

 ぽとをり、と音が聞こえる。


 どうやら、この国の住人たちは蓮蝶雨がゆえに、こうして同じ屋根のしたにて軽食を交わすことを好むようだった。スペインでいうバルのような喫茶店を、私はここまでに何度も見かけていた。我々の他に喫茶店には数人の客がいる。自分の視界の右のほうでは、地元の学生だろうか。若い男女三人が、頭をつっつき合わせて、なにやら問題のようなものに取り組んでいる。それから私の背のほうでは女性の他愛たあいのない、ひそひそとした話し声が聞こえた。

 


「海の向こうか、宇宙に、君はまだ期待していますか?」


 別れ際に私はそう尋ねた。彼は「いいや」と答えて私に背を向けて、腕を振った。


 つもる話も終え、彼と別れた私は、レインコートに身を包みながら、ぼんやりと私は川沿いを歩いていた。考え直してみれば、蓮と蝶はどちらも生と死の象徴であることを思い出した。<蝶>を意味するプシュケの語源は<霊魂>を意味するプシュケーであるという。蓮も異国における彼岸ひがんの象徴として、しばしば取り上げられる。


 海にも宇宙にも失望してしまった彼は、次、どこへと向かうのだろうか。



 偶然にも、私はまたこの国へ来るときと同じ川渡しを利用することとなった。「また会いましたね」と男は屈託くったくのない笑顔で、再び自分を迎えた。


「そういえば——晴れ渡る空の下。古き親しきヨース港に到着した時、私はひとつ彼に言い忘れたことがあって、下船後に一度だけ後ろを振り向いた——その笠、素敵ですね。伝統工芸か、なにかですか?」


 彼は私の言葉を聞くと、笠を外して一礼すると、少し恥ずかしそうな顔をして答えた。


「あぁ、これ。ハハ。伝統だなんて、そんな大層なものじゃあない。

 どこでも買える、つまらないものです」


 それから彼は、私にも聞き覚えのある企業の名前を口に出した。とんでもない思い違いをしてしまったものだから、私は思わず愛想笑いをして、その場を立ち去った。



 蓮蝶雨の降る国の思い出は、せいぜい、そのようなものなのです。

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Lotus Butterfly Rain Sanaghi @gekka_999

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