コンノアヤミ その8(おわり)

 ――たぶん、気絶していたのだろうと思う。

 目覚めたとき、私は水浸しの床の上に寝転がっていた。出しっぱなしの水の音が寝起きの重たい頭に響いた。後頭部のあたりに何かに打ち付けられたような痛みを感じながら、私は半身を起こした。すぐ横に散り散りになった皿の欠片が散乱していた。壁にかけられた時計は昼の一時を指していて、薄いカーテンからは気だるげな光が注ぎ込まれていた。一昔前のテレビのノイズみたいな視界に瞬きしながら、私は昨日の苛立ちとノドカへと八つ当たりを思い出していた。それでふと狭い室内を見回してみて、そこでようやくノドカの姿がないことに気づいた。

 普通に生活しているのだから、ノドカが家を空けることはある――あるのだが、なんだか酷い胸騒ぎがした。急に部屋の中がくり抜かれたがらんどうになったような、架空の借金取りに家具を差し押さえられてすべて持ち出されてしまったような、いうならば喪失感というか、そんな虚無的な感覚だった。

 もう二度とノドカは戻ってこない、と私の耳元で私に似た声が言った。

 私はそれを振り払って、ひとり気がおかしくなったように笑った。そんなことあるはずがない、あいつは何度殴られても私のそばにいた、何度犯されても私のそばにいた、今更私の元から離れていくわけがない、と。とにかく笑いたかった。笑い飛ばしたかった。こんな意味のわからない喪失感が、本当に意味のわからないものであって欲しかった。

 それから私は身体を起こして、皿の破片を適当に掻き集め、床の水を拭き、蛇口を捻って無意味に流れ続ける水道を止めた。普段ならこういう後始末はすべてノドカ自身にやらせるのだけれど、昨日はさすがに酷かったし、たまには私がやってやっても良いと思った。いや、今回だけでなく、これからは後始末くらい私がやってやることにしようとすら思った。だから帰ってこいと念じた。また私に殴らせてくれ、また私に犯させてくれ、と。

 片づけを終えたあと、私はいつもの押入れに引きこもって、念じ続けたままノドカが帰ってくるのを待った。ただ何をするでもなく薄暗い木目を見つめ、無機質な時計の針の音を聞いていた。それが長く続けば続くほど、私の中の謎の喪失感は焦りらしき感情とともに肥大化していった。我慢できなくなってちらりと襖を開けると、すでに外界には夜の帳が下ろされていて、狭い部屋の中は荒涼とした暗闇に覆われていた。そこにはやはりノドカの姿はなかった。その瞬間、私は認めざるを得なかった。ノドカが二度と帰ってこないことを。

 そこから記憶があまりない。途切れ途切れの情景を繋ぎ合わせれば、どうやら私は近場のコンビニで適当に発泡酒を買い漁り、自棄酒をしたようだった。やたらめたらに安酒を呷ったものだから、たぶん悪酔いをしたのだと思う。何時かは知らないが、真っ暗な外にどこかの亡霊よろしくふらっとさまよい出たようだった。ノドカを探したかったのか、単に部屋にいたくなかったのかわからなかった。理由も何もなくて、ただ徘徊老人の如く漠然と無意味に歩いているだけのような気もした。

 ――いったいどういう風な道筋を通ってあそこに辿り着いたのか、皆目見当もつかない。確かに何度か行ってはいたけれど、それはヤシロに車で送ってもらっていたわけで、当然ながら私は道中なんて知らないし、見てもいないし、憶えようとなんてしていなかった。だから私が一人で、しかも徒歩でその場所に辿り着くというのは、酷く不自然なことだった。しかし、安酒の酔いからするっと醒めたとき、私は確かにそこにいた。

 山の中の変に開けた場所、中心に一本の大木――。

「やあ、コンノさん、今晩はあなたおひとりですか?」

 大木の方から、見慣れたダサいアロハシャツを着た男が、私に声をかけながら歩み寄ってきた。イチノセ――と、そいつの名前を思い出すのに数秒かかった。

「え、あ、あ、え――」

 私は自分がそこにいる違和感をどうにも処理しきれなくて、風船から空気が抜けていくような間抜けな声を漏らした。イチノセはそんな私を構う素振りなく、あのいつもの胡散臭い笑顔を貼りつけた、胡散臭い調子で喋り続けた。

「ちょうど今からここで撮影を始めようとしてたところなんですよ。ちょうどいいですね。今晩はおひとりで責め役をやってみますか? ワンツーマンのレズプレイですよ。そういうのもうちの業界ではわりと需要がありましてね。ご協力いただけますか?」

 媚びへつらうようにへらへらと曲げられたイチノセの口から流れ出す言葉を、私は脳が透過していくような錯覚に囚われながら聞いていた。まだ私がそこにいる違和感が拭えなくて、なんだか悪酔いし過ぎて嫌な夢を見ているような心境だった。そういえば地面も柔らかいというか、まるで薄っぺらな紙みたいですぐに踏み抜いてしまいそうな気がした。

「――大丈夫ですか、コンノさん。何か大変なことでもあったんですかね?」

 イチノセが妙に白々しい口調でそう言って、私の顔を覗き込んだ。

 私はそこで数度瞼を瞬かせて、ようやく絞り出すようにまともな声を出した。

「あ、あの、ほんとは来るつもりじゃなかったんですけど」

「そりゃそうでしょうね、予約の電話いただいてませんし」

「え、あ、それってダメじゃないですか?」

「何がです?」

「予約しないで飛び入り参加って、ダメじゃないですか?」

「まあ普段はあんまりないですけど、たまにはいいじゃないですか。特別ですよ、特別。今晩は特別です。コンノさんのための特別デー、特別ナイトですよ」

 イチノセはさも楽しそうにぱんぱんと手のひらを叩いた。

「え、あ、その、でも――」

 それでもまだ戸惑って渋る私に、イチノセはにこにことした表情のまま手を伸ばした。強引に手首でも引っ張られるかと思ったが、イチノセの手が置かれたのは肩だった。

「大丈夫ですよ、大丈夫。ただの気晴らしと思えば。ね?」

 そう言って私の顔を窺うイチノセの瞳は、ガラス玉みたいに無感情に思えて気味が悪かった。私はまた数秒ほど沈黙して逡巡したけれど、イチノセの瞳がどうにも耐え難く、結局曖昧に頷いた。

「それじゃさっそく撮影、やっちゃいましょう!」

 イチノセははしゃいだような調子で言うと、小走りで駆け出し、たまに私の方をちらりと振り返って手招きした。私はおずおずとイチノセの後ろに続いた。

 大木の周りには、すでに撮影の機材諸々が用意されていて、カメラマンのナカムラとアシスタントのサクラダが何をするでもなくぼんやりと地面に座り込んでいた。そして大木には、いつも通り他の連中と似ているような、似ていないような、ひらひら衣装の少女が縛り付けられていた。これまたいつも通り、現時点では気を失っているようだった。

「来ましたか?」

 気だるそうに首を回したサクラダは、私を連れてきたイチノセにそう訊ねた。

「来たよ、撮影やろう」

 イチノセのその号令で、サクラダもナカムラも渋々といった体で腰を持ち上げた。

 ナカムラがカメラを弄りながら大木に向かって構え、サクラダが何かしらの作業をしたあと、イチノセの顔が再び私に向いた。

「じゃあ、コンノさん、よろしく」

 そう促されて、私は結局脳内の混乱を鎮圧できないまま――わけもわからないまま、背中を無理やり強く押されたようによろよろと大木ひいては少女へと歩みを進めた。

 近寄ってみて、私はその少女に見覚えがあることに気づいた。私が最初にヤシロにここに連れてこられたときに、確か犯した少女だった。陶器みたいな肌も、流れるような髪の毛も、整った目鼻立ちもそのままだった。

 振り返ると、カメラを構えるナカムラ、心底つまらなさそうなサクラダ、そして嫌な笑みを浮かべ続けるイチノセが一斉に私の方を見ていた。私は何度かその三人と少女をきょろきょろと挙動不審に見比べたのち、目を瞑って大きく息を吸った。

 脳裏に最初にここに来たときの光景が浮かんでいた。それがすうっと消えていったらと思ったら、次に浮かんできたのはなぜかノドカの顔だった。あの、最後に私が嬲ったときの顔だった。ずっと私を見透かすような、暗い目をした顔だった。

 ――ああ、馬鹿にしやがって。ふとそう思った。そう思った途端、先程までの戸惑いは消失して、ふつふつと胃袋の底から熱のようなものが湧いてきた。怒りだった。最近何度目に湧いたかもわからない、理不尽な怒りの感情だった。

 このまま冷めないうちにぶつけてしまおうといよいよ手を伸ばしたとき、タイミングを見計らったように少女の瞼がゆらっと上がり、その中に嵌った偽物みたいな青い瞳が私を見た。一瞬手の動きを止めて――すぐに続けて少女の胸を鷲掴みにした。

 目覚めたばかりで呆けていた様子の少女の口から、か細い悲鳴が上がった。

「いやっ、いやいやいやっ。またっ、またなのっ!」

 少女の半狂乱の声を傍らに、私は精一杯に指に力を込めて、少女の胸を揉みしだいた。そして乳首の場所を探り当て、思いっきり抓り上げた。少女の叫び声はますます甲高くなった。

「いやだっ、いやだっ、何でよっ! あなた何でこんなことするのよっ!」

 そう少女はろくに回らない首をぶんぶんと振り回しながら、私に向かって唾を飛ばした。暴れ馬の鬣みたいに髪の毛が宙を舞い踊っている。何人の人間に似たようなことをされたのかは知らないが、どうやら私の顔は覚えていないようだった。

 私は何も答えず、片手で少女の胸を弄び続けながら、もう片方の手を股間へと伸ばした。陰部を乱暴に撫でつけ、肉芽の部分を捻り上げた。

 ぎぎゃっとかいぎゃっとか、少女は小動物の断末魔みたいな声を上げて、全身をがくがくと震わせた。すでに少女の陰唇からはだらだらと愛液が溢れ出していた。それに対して、私は何の感慨も愉悦も湧かせることができなかった。何も楽しくなかった。胸の内は相変わらずマグマでもぶち込まれたみたいに暑いのに、脳みそは氷水に浸けられたみたいに冷えていた。アンバランスだった。無茶苦茶だった。意味がわからなかった。――それでも少女を嬲る私の手は止まらなかった。私の胸中のマグマだけがそれを動かしているようだった。

 私は冷え冷えした頭の片隅で思い出していた。死んだヤシロたち、イケハラ、両親、聖書、いじめっこ、いじめられっこ、蛇――何を思い出してもなんだか薄ぼんやりしていた。雪の中の幻みたいだった。それらのそばに、私はいなかった。ずっといなかった。ヤシロたちははしゃぎながら消え去っていった。イケハラは片手を振りながら消え去っていった。両親は熱心に祈りながら消え去っていた。聖書は砂になって崩れ落ちた。いじめっこといじめられっこは混ざり合って霧散した。蛇はただ一度私に向かって舌を出し、のろのろと暗闇への隙間へと逃げ込んでいった。何もかもが消滅した後に、一人の女が立っていた。ノドカという名前の、決して整っているとは言えない顔の、それでも私には誰よりも忘れられない顔の、冴えない女が立っていた。そいつは唯一薄ぼんやりとしていなかった。けれど、その表情はよくわからなかった。はっきりと見えているはずなのに、何もわからなかった。本当は――本当はわかっているはずなのだけれど、私にはもう、永遠にわからなかった。そのときには、私の胸中を占めていたはずのおかしなマグマも蒸発していた。残っているのは、葉っぱから無理やり搾り取ったような残り滓の露ばかりだった。

 ノドカは何も言わずに私に背を向けて、歩き始める。私はその背中に何か声をかけようとする。しかし、どれだけ必死に喉を鳴らそうとしても、声は出なかった。そもそも、どういう言葉を投げつけるべきかもわからなかった。何を言ったところで、ノドカは止まってくれないとわかっていた。けれども私は、わけもわからずに声を出そうとした。

 でも、結局自分が何を言おうとしたのかはわからなかった。本当に声が出たかどうかも。ただノドカは振り返って私にあの暗い顔を見せることなく、消え去っていった。私はひたすら立ち尽くして、ノドカの背中の残像に、ずっと目を凝らしていた。

 その頃になって、私を引き戻すように、どこからか風が吹く音がする。それを聞いているうちに、意識と感覚は嫌々ながら現実に戻ってきた。殺風景な山中の空地へ。

 まず、腕が無性に痛いことに気づいた。手のひらなんてじんじんと痺れるようだった。上げておくのも億劫で、だらんと下げている。指先にまとわりついている半固形状の液体が、ぽたぽたと地面に落下していく。私は全身にびっしょりと汗を掻いていて、服が貼りついた背中と前髪が貼りついた額が気持ち悪かったけれど、退かす気にはならなかった。甘酸っぱいような匂いがして、そのときには視界も戻ってきていた。

 目の前には相変わらず拘束されている少女がいたけれど、先程までみたいに喚いているわけではなかった。少女は少し仰け反ったような感じで、空を仰ぐみたいに顔を上げていた。あの綺麗だった目は濁った白目を晒していて、唇の端からは蟹の泡のようなものが垂れていた。微かに腹が上下しているから、別に死んではいないようだった。

「いやあ、名演でしたよ」

 背後の声に振り返ると、イチノセが満足げに頷いていた。

 ナカムラとサクラダは手分けして周囲に置かれていた機材を運び出していて、どうやら撤収の用意をしているようだと察した。イチノセだけが何もせずに私に笑いかけていた。

「あなたは私が出会ってきた中でも、最高の役者でした。保証しますよ」

 本気とも冗談ともつかない口調でそう言って――イチノセは私に近づいてくる様子もなく、ただ一定の距離を保った位置から私のことを見ていた。

 私はなんだか脳内の茶番まですべて見透かされていたような気がして――同時にアホらしくなって、変に甲高い声で笑い声を立ててしまった。それは一瞬で終わるものではなく、防犯ブザーみたいに、止め処なく溢れた。イチノセはそんな私を前にしても、微動だにしなかった。もちろん笑顔の表情筋も。

 私は一通り宙を仰ぐようにして笑ったあと、涎だらけの口元を拭って、再びイチノセを見た。――そこでなぜか、本当になぜか、ぽろっと口から言葉が零れ出た。

「――私、これからどうすりゃいいんでしょうね?」

「そんなこと、僕の知ったことじゃないですよ」

 イチノセは満面の笑みのまま、間髪も入れずにそう即答した。

「そりゃ、そうですね」

 私はまた笑った。今度は低くて、一瞬の笑い声だった。

 急にぽろっぽろっと木の葉が何かを弾く音がし始めて、数秒後にはが降り出したのだとわかった。

 少し離れたところで、サクラダの、慌てているといよりも面倒臭そう大声が聞こえた。

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クズ箱日誌 すごろく @hayamaru001

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