リート・ステードの墓

狐のお宮

『人は何故、争うのでしょう』


 ふわり、曖昧な記憶。白い光の世界で誰かがそう言った。


『人は何故、憎み合うのでしょう』


 投げかけられるものは全て、飽きるほど聞いた善者の疑問だ。


『そして人は何故、平和を求めるのでしょう』


 最後の質問に驚いた。


 それは先ほどまでの質問とは違い、怠惰な日々に亀裂を入れた。


 その人との出会いは、彼の世界を変えた。





 一日とは、朝に太陽が昇り夜に太陽が沈むまでのことを言う。

 人々は、その時間の中で行動するのである。

 そしてそこで様々な心情を持ち様々な理由で行動し様々な思考を巡らせながら、各々“一日”を終わらせているのだ。


「ちょいと聞いてくださいな、そこのお兄さん」

「うぉい。なんだぁ、綺麗な嬢ちゃんじゃねぇか」


 世界とは実に単調であると感じる。

 例えばこの活気づく酒場の中で、小ぎれいに化粧した女が酒気漂う男に近づき耳打ちをするのも。


「んだよその話かよ! 嬢ちゃん一体いくつサバ読んでんだ? 今更リート・ステードの話したって誰にも受けねぇのによ!」

「今もリート・ステード信じてるとか、信じらんねぇ! ギャハハハハハ」


 昔流行った噂話の話をされて男が女を一蹴するのも。周りがそれを見て笑うのも。調子に乗った奴らが暴動を起こして大騒ぎになっても。

 それは変わらない一日に過ぎなく、太陽はまたなんでもないように沈み昇ってくるのだ。それを単調と言わずになんというのだろうか。


「リート・ステードねぇ。久しぶりに聞いたわねぇ」

 カウンターに一人座る寡黙な客の前に、化粧の濃い店員がやってくる。そして何も頼んだ形跡のない客を面倒くさそうに眺めると、それでも誰もいないよりはマシだったのだろう、客に向かって話し始めた。


「昔は血眼になって探してたヤツもいるけどさ、やっぱり見つかんないと飽きるもんだよねぇ。ま、墓と鍵を探し当てたら楽園に行けるとかそんなバカげた御伽話だってのに、その話題を出すなんてあの子、相当バカなんだねぇ」


 話題を振った女は今も侮辱されていた。本気でうけると思っていたのだろう。整えた髪は所々乱れ悔しそうに顔を歪めている。

 寡黙な客は、そこで初めて息を吐いた。目の前の化粧が濃い店員には目もくれず、ただゆったりと彼のペースで、揉める女と男のところに近づいていく。


「あぁん? 何だテメェ」

 随分と赤い顔をした男が、突如現れた寡黙な客に向かって怒鳴る。彼はしかし何も言わず、黙って男を見つめているだけである。


「ったくよォ、その口はお飾りなのか? あぁ!? 用があるなら言えってんだ!」

「……全く、無駄なことだ」

「あ?」


 男はそう怒鳴りつつも、寡黙なこの男に末恐ろしいような何かを感じていた。周りから飛んでくるヤジも、怒鳴り声も、思わず顔をしかめそうなこの酒気にさえ何も感じていない無表情な男。若く見えるというのに、もう全てを悟ってしまったかのような諦めすらも感じられた。


 案の定、寡黙な若者は怒鳴った男にこういうのだ。

「無駄なのだ。お前がこうして怒鳴ることも、俺がここでお前に話す事も、全てが」

 何故ここに行こうと思ったかもわからない。男は静かにそう言った。



 寡黙な男はそのまま店を出た。全く自分は何をしているのだろうか、先ほどの騒動はとうの昔に忘れ自分の思考の海に浸っていた。

 彼の謎めいた言動は、その場の空気をまるで冷水を浴びせたかのように冷やしてしまった。それでも彼は気にすることなく、何も頼んでいないから何も払わずに出てきたのだ。


 彼に言わせれば、「どうせまた日は昇る」らしい。

 しかし一日が終わることを望んでいるのか、と聞かれればそうではないらしい。謎だ、と言われれば、人間は皆そういうモノだというのである。


 彼はそのまま、入り組んだ路地を抜けていく。一体何処に向かっているのか、それを聞いても彼はわからないというのだろう。

 彼はそのまま、誰も知らないような道なき道を歩いていった。


 どれくらいの時が過ぎたのだろうか、彼は見知らぬ場所にいた。帰ろうなどとは思わなかった。彼はまた前へ歩いて往くのみである。

 しばらくすると、彼の足は止まった。その目は相変わらず感情を宿さずただ目の前の物を見つめている。


 墓があった。歪な半円形の石に刻まれた文字は、崩れてとても読めたものではない。花も何も供えられず、周りにも何もなく、ただぽつんと、そこに墓があるのみである。


 彼は墓の前まで歩いた。墓の前まで来ると、止まった。足元の墓を、何も言わずに見つめている。

 ふと、風が吹く。すると、何もない周りの草原に、色とりどりの花が咲き乱れた。


 彼は驚かずに淡々とそれを見ていた。咲き乱れる花々はどれも見たことのない花で、例えるなら、まるで異世界の楽園にでも迷い込んだかのようだ。

 足元の墓は消えていた。それでも彼は驚かなかった。ただ事実を受け止め理解するのに、驚く必要はないのだという。


 彼はゆっくりと瞬きをした。向こうに人影を見たのだ。咲き乱れる花々の中を迷いなく歩き、草を踏み、色素の薄い長い髪をなびかせながら、こちらにやってくる。

 踏まれた花は、瞬く間に再生してゆくのだった。


 その人は彼の前で止まった。髪を伸ばしてはいるが、男とも女ともとれる整った顔立ちの人物である。

「楽園へ、ようこそ」


 無表情な彼とは違い柔らかな笑みを浮かべてはいるものの、それはまるで作られた台本通りの表情のようで、放たれた言葉もまたそう感じさせる何かがあった。

「私の名は、リート・ステード。この楽園を造りまた支配している者です」


 やはり彼は驚く素振りを見せず、淡々と、作り物のような人間を見つめていた。何を考えているのか、はたまた何も考えていないのか、彼らは視線を交わし合っていたのである。


「よくぞここへ辿り着かれました。ここは憎しみを忘れた——」

「やはり、そうか」

 口を開いた彼は、リート・ステードの言葉を躊躇いもせず切る。


「貴方はそうして場所の説明をする。自己紹介をする。それは、なぜか?」

 彼は、そう言いながら、やはり自分は何を言っているのだろうと思った。そう考えた自分すら、どこか遠いところにいる感覚がしているのは、いつものことである。


「それは、私にもわかりかねます」

 リート・ステードは、柔らかな笑みのまま答えた。気分を害したわけでもなく、悪意もなく、台本を読んだわけでもなく、それは本心から零れた言葉。


「何故人は自らを名乗るのでしょうか? 何故言葉を交わそうとするのでしょうか? 何故意思を持ったのでしょうか?」

 目の前の寡黙な男の、ただその目を見つめ——けれど一切の感情を持たない、色の薄い瞳があるのみであった。


「私は、わからないのです」


 そう言うと、リート・ステードは、ふいに歩き出したのだという。彼も、黙って後をついていった。理由は特にない。と言うか、わからないと彼は言うのだろう。

「万物には、意味があるのです」


 先ほどとそうそう変わらない花畑の中で、リート・ステードは立ち止まり話し出した。今度は彼の方を向かず、まっすぐ前を——進行方向の何もない空色を見つめている。


「果たして、それは真実でしょうか?」

 彼は珍しく、そこで期待の感情を抱いたのだという。リート・ステードの思想は、ありふれたもの、ではなかったからだそうだ。


「ではなぜ、人々は争うのでしょうか?」

 しかしその質問で、彼はまた無感情に戻った。そんな質問、彼の世の人間が嫌と言うほど言っていたからだ。


「人は何故、憎み合うのでしょう?」

 期待するほどでもなかった。其の人もまた同じだった。“平和”というモノを求めてあほらしく嘆く人々と変わらない、聖人。“平和”とは何か、を聞かれたら、決まりきったように同じ答えを口にするだけの人間である。


「そして人は何故、平和を求めるのでしょうか?」


 そこで彼が再び感情を抱いたのを知っているかのように、リート・ステードは口角を上げる。


「私は答えを求めてはいません」


「そこに理由はありません」


「みている景色が、真実だとは思っていないだけなのです」


 リート・ステードは振り返った。彼はゆっくりと瞬きをした。


「この道はまっすぐですか? 世界は廻っているのですか? 証明とは確実なものですか? 確実とは何ですか? 真実とは何ですか? 希望とは何ですか? そこに正義はあるのですか?」


「……答えは、求めていません」


「正義は、在りません」


「“普通”は、在りません」


 リート・ステード、それは彼のような人物であった。“当たり前”、“通常”、“普通”、“当然”……それらを無視した思考の持ち主。


「私がここで何をするのか、何故ここに楽園を造ったのか、それすらも私にはわかりません。私は、ここに私が在るのみです」


 そうしてまた、日は落ちるのだ。彼がここで何を思っていたとしても。



 

 彼には、彼がここに立っていることですら謎なのである。


 彼には、何かを考えることですら疑問なのである。


 彼には、“当たり前”は存在しないのである。




 そうしてまた、日は昇るのだ。



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