エピローグ
「田所君は、何時頃に来るの?」
「確か、十三時頃って言ってたような気がする」
「今日、学校休みなんだっけ?」
「いや、昼までに講義が終わるらしい」
蓮はちょっとしたご馳走をこしらえると、意気込んでいる。
客人をもてなす準備をしている彼女を、僕は食卓の椅子に腰掛けながら眺めていた。
「法学部なんて、あたしには絶対無理だ」
「蓮は頭が悪いからな」
おたまで頭をはたかれた。
最近では素手での攻撃は少なくなり、もっぱら武器での攻撃が主流だ。
田所君は高校卒業後、ある大学の法学部へと進学した。
彼が言うには実家の跡取りとなるのが嫌らしく、それから逃げるようにして弁護士への道を目指したらしい。
「田所君がお坊さんって、あたしぴったりだと思うんだけどなあ」
「小さい頃から嫌だったんだってさ。彼の名前のせいもあるんだろうけど」
「ああ。あたし初めて聞いたとき笑っちゃったよ」
「僕もだ」
僕たちは、彼の名前を思い出しながら笑った。
もしもこの場に田所君がいれば、怒り心頭だっただろう。彼がここに来たら一応謝罪はしておこう。
「藤原君も、十三時くらい?」
「ああ、ジムに顔だしてから来るってさ」
「ボクシングって、いかにもって感じだよね」
そこは頷く外なかった、似合いすぎるにもほどがあるというものだ。
もと不良軍団のリーダーだった藤原は、すっかり更正して、今では未来の世界チャンピオンを期待される希望の星と言われている。
僕もその話を、彼本人から聞いていたのだが、先日本屋に立ち寄ったときに雑誌の表紙に彼の姿を載せているものがあって、一人で驚いていた。
表紙にはでかでかと『期待の星』と書かれていて、どうやら僕が思っていたよりも彼の存在は世界から見ても巨大なものになっているようだった。
ボクシングの知識なんてまるでないのだけれど、なぜか僕はその雑誌を購入してしまい、軽く蓮に無駄遣いをするなと怒られた。
弁明として表紙の藤原を見せると目の色を変えて、僕よりも先に雑誌を読み始めていた。
ページを捲りながら時折、「やっぱり藤原君はかっこいいね」と呟いていた。僕は、そんな蓮をいらつきながら見ていた。
蓮にかっこいいと連呼される藤原に不思議と腹が立つが、ここに来たら頑張れぐらいは言ってやろう。
「あ」
「何?」
「藤原君、カロリーとか気にしてるかな」
「ボクサーだからね。減量とか、あるんじゃないか」
「だよね。どうしよう、あたしカロリーの高いものばっかり作っちゃってるよ」
「山の木の実や山菜でも、取って来ようか?」
「欄君って、藤原君に結構冷たいよね」
本気で取りに行く提案をしたのだけれど、何故か薄情者として蓮には判断されてしまった。
木の実や山菜も美味だし、栄養価も高いのだからご馳走としては悪くないとは思うのだけれど。
結局、蓮は寒天などの極めてカロリーの低いもので藤原用の料理を作る事に決めたようだ。
蓮の奴はなんだか藤原に甘すぎるきらいがあるように思うが、それを口にだして言うと喧嘩になりそうなので今日は黙っておこう。
明日になったら多分言うだろうけど。
「梢ちゃんは十四時ぐらいになるかも、って言ってた」
「子供ができたんだっけ? 来れるのか?」
「皆が集まるのに、自分だけ行かないのは嫌なんだって」
筒井梢は高校卒業後、海外の大学へと進学した。
なんでも見識を広める為に、枠に捉われない生活を送りたかったのだそうだ。
その結果なのかどうか、彼女は海外でパートナーを見つけ、学生の身でありながらもめでたく子宝を授かった。
旦那がどんな男なのか僕は知らないけれど、しばしば連絡を取り合っている蓮なら知っているのだと思う。昨夜も電話越しに僕の悪口が聞こえてきたので、相手は筒井梢だったのだろう。蓮が話す内容は、大半が僕に対する愚痴だ。
「そういえば、佐藤さんは家族も連れてくるって」
「え、嘘!? 聞いていないよ!?」
「だろうな。今思い出した」
第二陣のおたま攻撃。
僕は軽やかにそれをかわす。だが、かわしたその先には、予め左手でフライパンを構えていたようで、僕はそれに顔面をぶつける。
「あははは! って笑ってる場合じゃないよ、増えた分の用意しなきゃ! 欄君も手伝って!」
「はいはい」
僕は顔面を撫でながら、ゆっくりと立ち上がり台所へ向かう。
彼女の側にそっと近寄り、ご馳走の準備の手伝いを始める。
海で出会った佐藤さんは現在、救助に関わる仕事を目指して日々励んでいる。もう二度と、目の前で大切な命を危険な目に合わせたくないそうだ。
佐藤さんはもともと安定した収入を得ていたサラリーマンであっただけに身内からの反対の声が多かったそうだけれど、息子の「頑張って」の一言で決心がついたと言っていた。
皆、時の流れに沿って変わっていく。僕もまた、隣に立つ一人の女性によって変えられていく。
蓮の病気は治ったわけではない。
また何時倒れても、おかしくはないというのが現状だ。
それを知っていながらも、もしまた蓮が倒れることになったら、僕は以前と同様に取り乱すだろう。
僕は、手で肉を裁きながら横目で蓮を見つめる。いつか消え去ってしまう彼女を見つめる。
蓮と出会わなかったら、思うこともなかっただろう。
こんななんでもないちょっとした一時が、こんなにも心地よく、こんなにも愛おしいなど。
以前の僕が見たら、頭がおかしくなってしまったのではないかと、怪訝な顔を見せるところだ。
けれど、それでいい。
これでいい。
僕はもう、誰かの望みを叶え幸福をもたらすケサランパサランではなくなった。
無限のサイクルから逸れ、僕は一つの生の中に身を置いている。
それは結果として、彼女が望んだから。
彼女の望みを僕が叶えるには、僕が生のサイクルから逸れることは必要不可欠なことだったのだ。
僕は、新しい僕となってここにいる。
幸福をもたらし、幸福をもたらされたケサランパサラン。
僕は――。
玄関のインターホンが鳴る。
幾人かの声が、家の外から響いてくる。
僕は手を止め、玄関に駆け寄り扉を開いた。開いたその先から、温かい光が差し込む。
僕は――幸福の中にいる。
幸福のケサランパサラン スライム系おじ @pokonosuke
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