鴉揚羽

朱藤

1話目

 日曜日。目を覚ますともう九時で、空は雲に覆われて仄暗い。首を寝違えていて、全部が億劫になった。窓を開けて外へ頭を突き出すと、ちょうどその瞬間からざあっと雨が降り出す。二階のバルコニーまで平気で立ち昇るペトリコールに嫌気がさした。

 武蔵野に越してきたのは、物心ついて間もないころ。もう10年以上が経つ。私は高校生になっていた。ここはいい街だと思う。府中や調布なんて、僻地であった古代でさえ、その名残を地名にはっきり残している。それなりに愛着はある。それでも、祖父母が今暮らしている奈良の山地や、生まれの地である大阪へ無性に帰りたくなるときが、多々あった。畑の朝の独特な匂い、うっすらと体を包む霧。いとことマンションの下で食べた氷菓に、木材むきだしの天井からぶら下がる電灯。全て懐かしくてしょうがない。泣きたい気分ですがるように上を見ても、端が黒く汚れた壁紙張の天井とシーリングライトがあるだけ。こういう日はなぜか、時間があっけないほど早く過ぎる。無慈悲な月曜日。都心行きとは逆の電車に乗って、小高い場所にある学校へ向かう。降りた駅からはバスだった。もうほとんど満員で、ドアの近くに立つ。うっかり後ろ向きになって、なんだか怖くなって、そっと体を前に向けた。舗装されたきつい坂道を登るのは、山道を走る感覚そのものだった。ずっとふるさとのことばかり考えていたから、そんな気がしただけかもしれないが。

 教室に入ると、蝉の声がした。もうそんな季節か。また惰性で天井を見上げてしまって、あの電灯が下がってる錯覚を見る。情けない。ぼけっと上を向いたままでいると、視界を黒いものが横切って、小さく悲鳴が上がった。虫が入ってきたようだ。珍しいことじゃないし、今更叫ぶことか、とうんざりする。どうにもこうにもむしゃくしゃして窓を見やったところで気付いた。真っ黒な蝶がひらひらと、窓の隙間に体を滑り込ませたところだった。

 紛れもなく、鴉揚羽だった。

 何年前だろう、山奥の家の庭でいとこのお姉ちゃんがそっと手に乗せた鴉揚羽を思い出す。

「……あ」

 掠れた声が漏れて、目には薄く涙が溜まっているみたいだ。

 苔や川を眺めながらひとりで通学するのも悪くない、もう武蔵野は私にとって、ふるさとだった。

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鴉揚羽 朱藤 @sutou_shiwasu

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