第44話 ちなみに尿意はそこそこ限界よ。
「先生! 魚谷くんがかっこいいから早退します!」
チョークが折れる音がした。
虎杖先生が、ゆっくりと振り返る。
「……あ、えっと。……ごめん、なに?」
「だから、魚谷くんがかっこいいから早退するって言ってんのよ。理解できないの?」
「理解はできるけど……」
虎杖先生が、困ったような顔を俺に向けてくる。
いや、俺を見られても困るんだけど?
あと、毎回言ってるんだけど、授業中だからね?
「まず、今日の朝よ。いつも通り一緒に登校していたら、道で子供が泣いていたの。そしたら魚谷くん、すぐにその子に駆け寄って、どうして泣いてるの? なんて、優しい声で話しかけて……。結局その子は、いつの間にか消えていたんだけどね?」
真ん中を端折ったせいで、怪談話みたいになってるけど?
いつの間にかということは無く、鳥山さんが「魚谷くん! そういうところがマジで好きなのよ! あぁ~好き好き! やばい好きすぎて鼻血と涎が止まらなくなってきたから、ちょっと水道で洗ってくるわね!」なんて言いながら、水道に行ってる間に、子供のお母さんが来てくれたのだ。
……今思うと、鼻血はまだしも、涎は自分で制御できるでしょ。
「それだけなら、別にいつものめちゃくちゃかっこよくて優しい魚谷くんなのよ。でも今日はこれで終わりじゃなかったの。学校に到着してすぐ、校門の近くで蹲っている生徒がいたのね? その子にも、どうしたの? なんて、すぐに魚谷くんは声をかけて……。女子生徒だから、身辺調査をすぐ黒服に依頼したところ、過去に異性との交際経験が無く、普段から少女漫画を愛読している生徒だったから、要注意人物としてマークさせてもらったわ。ああいうモテない女子が、急に現れた魚谷くんみたいなイケメンに惚れてしまって、勝手に好意を抱いて、最終的にメンヘラ兵器になるのが一番怖いから。気を付けなさいよ魚谷くん! ……魚谷くん!? 聞いてるの!?」
「あ、なに?」
全然聞いてなかった……。
早くこの時間が過ぎてくれ。そんなことしか考えてませんでした。
あと、虎杖先生も諦めたのか、読書をし始めてるし。しっかりしてくれ教師。
どうやら相当ご立腹らしく、鳥山さんがこちらにやってきた。
「あなたねぇ……。誰のせいで、私が早退することになってるか、わかっているのかしら」
「鳥山さん。授業中だよ」
「うるさいわね。授業なんて教師の自己満足じゃない」
「おいおい」
虎杖先生の、ページを捲る手が、一瞬止まった気がしたのは、多分気のせいじゃない。あの人繊細だから、傷ついてるだろうなぁ……。
「まだまだエピソードはたくさんあるわ。昇降口で靴を履き替えたあと、教室に向かう途中で、プリントを運んでいる後輩女子を見つけた魚谷くんは、すぐにそれを手伝った。私、その後ろをただ付いて行くだけだったけれど、その時の魚谷くんの背中の美しさったら……。まるでエベレストだったわね」
ボディビルダーへの掛け声みたいになってるから。
「しかも! あの時の後輩女子! 絶対魚谷くんに惚れていたわよ! あ~怖い怖い! 後輩が一番怖いのよね! 隙あらば甘えてくる! 年下だからって、それが当たり前のように……。せぇ~んぱい! なんて言いながら、魚谷くんに照れた顔を向けるのよ! 本当に許せないわね! 退学にしてやろうかしら!」
「さすがにかわいそうすぎるでしょ」
「どうせこのクラスの女子も、みんな魚谷くんに惚れてるのよ! ね!?」
鳥山さんの呼びかけに、答えた生徒はいなかった。
みんな、決して関わるまいと、俯き、自習に励んでいる。
……なんか、俺がフラれたみたいで、嫌なんですけど。
「……なんということでしょう。魚谷くんを愛しているのは、私だけだったみたいだわ。つまり魚谷くんの選択肢は私だけ。受け入れざるを得ない運命ね!」
「別に、他のクラスの生徒もいるけど……」
「いいえ。今日から魚谷くんは、私の許可なく、この教室から出ることはできないから」
「そういう作品はよくあるけども。あのさ、早退するんでしょ? もう帰ったらどうだろう」
「魚谷くんと会話してたら、エネルギーが湧いてきたわ。体調的には問題無いの」
……全然意味がわからないんだけど。
鳥山さんは何食わぬ顔で席に戻って行った。
「……あ、じゃあ授業を再開するね?」
虎杖先生が、再び板書を始める。
「えっと、どこまで話したっけ……。あぁそうだ。その時の李徴の心情なんだけど」
「先生! トイレに行ってもいいかしら!」
またしても、いきなり立ち上がった鳥山さん。
虎杖先生が、ため息をついた。
「好きにして」
「はい!」
……小学生か?
「さぁ魚谷くん。連れションするわよ」
「鳥山さん。男女間での連れションは成立しないよ」
「そんなことないじゃない。例えば男子生徒二人が連れションした時、直前でそのうちの一人が便意を催した場合、個室トイレに入るでしょう? これもトイレに至るまでは連れションと言えるじゃない。ここまではいいかしら」
「はい」
「今度は私と魚谷くんのパターンで考えるわよ。連れションして、私も今は男性用便器で小便をする予定なの。それが急遽、便意を催して、個室トイレに入ることになる。でもこれは表向きの理由で、実際は女子だから個室で小便をせざるを得ないからそうしただけなのだけれど、形としては一緒なのよね。つまり、男女間の連れションは可能。わかる?」
わからなかった。
「ごめん鳥山さん。少なくとも、今の俺は特にトイレに行きたいと思わないからさ」
「逆に魚谷くんが個室に入って、私が男性用便器で小便をするという選択肢もあるかもしれないわね」
「気持ち悪っ……」
「え?」
「あぁいや、何でもないです」
「ちなみに尿意はそこそこ限界よ。このままだと私、三代目教室でおもらしお姉さんになってしまうわ」
「初代と二代目の顔が見てみたいよ」
結局、連れションはしました。
漏らされても困るからね。うん。
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