小噺帳
紀乃
初夏の夜
珍しく残業した初夏のある日、夜の高架沿いの通勤路は昼間とは違う空間になっていた。少しの恐怖心に胸を高鳴らせて自転車を漕ぐと、肌に感じる風が心地いい。
高架下の居酒屋の明かりがアスファルトのでこぼこを照らし出す歩道を走り、幅広の川に架かる橋を渡る。そのころには自転車は速くなっていた。
橋の先からは駐車場が点在するだけの、コンクリートの高い壁がつづく。四車線道路を走る車の量は減って、周りは夜空が灰色に見えるほど暗くなった。
妙なものが視界をかすめたのは、駐車場のひとつを通りすぎたときだ。
それは小柄でずんぐりした人形のように見えた。赤いシャツに青いズボンを着て、道路を向いて棒立ちしている。暗闇の中、一瞬こちらを凝視したように感じた。
ただの気のせいだと自分に言い聞かせて自転車を数回立ち漕ぎ、そのあとは車輪が回るのに任せる。全身に感じる風が強くなり、車輪が回る音だけが聞こえてくる。
しかし耳を澄ませると、車輪の音とは違う音が聞こえてきた。
―——たたたたた
その音は後ろから聞こえてくる。自転車を漕いでも音の大きさは変わらず、追いかけて来ているのだとわかった。人が走る音ではない。足が地面を叩く音が速すぎる。
首筋が冷たくなり、両脚に力を込める。音は変わらず追いかけて来る。自転車はどんどん速くなる。
―——たたたたた
音はまだ後ろにいる。いまにもその手が背中に触れるのではないかと想像し、寒気と嫌悪感で背中がこわばる。
歩道のでこぼこに車輪が跳ねるが、両脚を動かしつづける。
―——たたたたた
前方に横断歩道が見えてきた。信号は点滅から赤に変わったが、そもまま突っ切る。横断歩道の先にある橋を渡ると、高架下で居酒屋が営んでいる道に入った。
照明の明るさと人の気配を感じてほっとして。恐怖心は潮が引くように消えていった。自転車をゆっくり減速させて止め、ひと呼吸置いて振り向く。そこではいつの間にか増えている車の明かりに照らされて、影が歩道にうごめいているだけだった。風がまた吹いたとき、冷や汗をかいた背中は寒く感じた。
小噺帳 紀乃 @19110
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