人は右/車に乗った人も右/人に乗られた車は左
人は右/車に乗った人も右/人に乗られた車は左
結局の所、日本語にはbe動詞がないので、「存在」を最も普遍的な概念とする考え方には馴染まない。
「存在」とは所詮、「領域を占有すること/もの」程度の意味でしかなく、多神教の一柱のように、数多ある概念の一つに過ぎない。
あるいは、神から現象に――つまり助動詞に――凋落した、概念以下の背景とも言える。
しかし「ousia」や「sein」は(それこそ神話のような話だが)領域以前の概念であって、他の概念に依らず「存在」するものだ。
それが当たり前に使われる言語圏においては、どれだけ言葉を連ねても結局「"sein" sein "sein"」としか説明できない。正しく異言語、ゆえに正しく会話が成り立たないのも当然だろう。
それは単なる選択と愛着の話なので、掘り下げれば大きな差は無いのだが、西洋文化ではこの「愛着」を別の名で呼び、殊更重視、あるいは神聖視する。
これは地政的、宗教的な歴史も根深く関わることなので、仕方ないといえば、それまでだ。
「車に乗った人」と「人に乗られた車」の境界は曖昧だ。所詮は何を主体にするかに左右される。
同じ物を読んだはず、同じ文化で育ったはず、同じレベルの教育を受けたはずでも、その基準は揺れる。
だからこそ人々は新たな思想を練り、新たな宗教を起こし、新たな政府を打ち立てる。
軽薄を装った諦観。
連作は愚痴に始まり、愚痴に終わる。
最後に哀愁を残す一首。
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