サーモントブロー

宇佐美真里

サーモントブロー

「あぁ、せわしない…」

朝から続くカリキュラムに疲労は限界寸前まで達していた。

夕飯前の講習が終わったのが六時半。夕食が七時。その後は自由時間となってはいるけれど、明日の朝提出のレポートが存在している。つまり自由時間とは名ばかりで、夜は課題レポートをやりなさい…と云うわけだ。

夕食後がお風呂の時間。食後にひと息ついてから、みんなは一斉にお風呂に押し寄せるだろう…と、私はそれを避ける為に夕食を早々に切り上げお風呂へと向かった。独りでゆっくりとお湯に浸かりたかったからだ。ひと通り済ませたのでレポートに手を付ける前に、少しくらいならゆっくりとしてもいいだろう。朝からずっと研修漬けだったのだから。


新卒の新人研修が二泊三日で行われている。今日は二日目。昨日の晩もレポートは課せられた。朝いちで提出し、午後のカリキュラムに講師から評価を聞かされた。明日もまたその繰り返しだ。鬱陶しい…。


研修所の廊下を、これからお風呂へと向かう同期たちとすれ違う。

「早いねぇ、もうお風呂済ませたんだ?」

「そう、一番風呂って感じ?なんて…」

おどけたふりで答える。大浴場のお湯に浸かりながら、レポートの大まかな筋立ては考えていた。これで取り掛かる前に二十分程度なら横になっても大丈夫だろう。そんなことを考えながら部屋へと向かった。

廊下の突きあたりを左に曲がり別館へと向かった所に私の部屋はある。部屋は二人部屋。同じ部屋の同期はかなり元気のよい子だった。まだ部屋に居るだろうか?彼女とはグループ研修の班も一緒だった。もうお風呂に行ったかな?すれ違った覚えはないけれど…。


そんなことを考えながら、ぼんやりと私は廊下を歩いていた…。


「あ…」

「えっ?!」


***


「あぁ…、まだあと一日あるのかよ…」

愚痴を声に出して言ってみる。部屋の洗面所でコンタクトレンズを外し、顔を洗えばすっきりするものだと思ったけれど、大して変わらなかった。やっぱり大浴場でゆっくりしないとなぁ…と、風呂へ行く準備を急ぐ。

コンタクトレンズを外している間に同部屋の同期は「先に行っているぞ?」と出て行った。


研修の朝は九時に始まる。昨晩は課題レポートに手こずって、寝たのは二時半過ぎだった。昼飯後の講義中は、昼飯を食い過ぎたことも手伝って、睡魔との闘いだった…。もちろん敗北した…。その後のグループ研修の際、同じグループの女に「さっき寝てたでしょ?」と、したり顔で言われたのが少し癪に障る。グループ研修の班は男三人、女二人の五人だった。


「あいつはイラッとするけど、もう一人はちょっと可愛かったよなぁ…」

部屋の鍵を掛け、換えの下着とタオルを入れた手提げ袋を片手に、大浴場へと向かう。


「ゆっくりと風呂に入った後は、やっぱりビールをプシュッとやりてぇなぁ…」

独り暮らしの部屋にあるユニットバスでは、百八十センチを超える俺には脚も伸ばせず、ゆっくりと浸かるのは難しい。ゆっくり湯舟に浸かりたいときには近所の銭湯に世話になっている。銭湯からの帰り道、途中のコンビニで缶ビールとツマミの缶詰を買うのは小さな楽しみだったりする。

だが今は研修中。当然アルコールはご法度だ。研修の終わる明日の晩は同じことを考えている連中で呑みに行くのは間違いない。キンキンに冷えた生ビールを想像し、ゴクリと思わず喉が鳴った。

廊下を左へと曲がる。大浴場はその先の長い廊下を抜け、食堂の更に先だ。


「あ…」


***


「あ…」

その声に、ぼんやりと歩いていた私は我に返った。

「えっ?!」


目の前には、百五十五センチの小柄な私を見下ろすようにして男の子が立っていた。

グループ研修で同じ班の彼だ。百八十センチは優に超えた身長。スポーツはバスケットボールをずっと中学から続けていたと話していた彼。片手にタオルのはみ出した手提げを持って立っていた。


「これからお風呂?」と私。

「そ。もう入ってきたんだ?早いな?飯食ってすぐに入ると体に良くないんだぜ?」

彼は言った。

「まぁ、そうなんだけど…。混んでるお風呂に入りたくなかったから…」

説明する私。


「ふうん…。あ、目悪いんだ?」彼が聞く。

「え?」

「いや、眼鏡掛けてるからさ。普段コンタクトなんだ?」


そう言う彼もメガネ顔だ。

「そっちだってメガネ…」

「あぁ…。普段はコンタクト。ずっとバスケやってたし…」

正直言って、彼のメガネは似合ってないと思った。身長が百八十以上あり、髪もスポーツマンらしく短く刈り揃えている。なのにメガネはボストンタイプだ…。しかもそのボストンは、レンズの部分がかなり大きめなタイプだった。

「あんまり似合わないネ…メガネ」

言ってから、失礼だったかな…と反省した。むっとされたかと、恐る恐る下から上目遣いに彼を見上げる。

「ははは…。よく言われる。でも、ほんとはメガネ…好きなんだけどな…」

よかった…。怒ってはいないようだ…。

「私もメガネ掛けている男の人って好きだな」

「そ、そうなんだ…」

彼は顔を紅潮させて口籠りながら答えた。


「好きなんだけど、どんなのが似合うか分からないから高校の頃のメガネのままなんだよ…。いまいち度も合わなくなってきてるんだけどさ…」

「ふうん…。ブロータイプなんか似合うと思うんだけど…」

所謂"メガネ男子"…メガネを掛けた男の人が好きな私は思わず、彼の似合いそうなメガネを頭の中でシュミレートしてみる。もちろん、それはボストンタイプではない。あれでは何だか野暮ったく見えるのだ。昔見たアニメの主人公の女の子の様でファニー過ぎる…。ボストンタイプならば文系男子…と云うのがワタシのイメージだったりする。まぁ、一歩間違えば"帰宅部ガリ勉タイプ"にもなってしまいそうだけれど…。


「似合ってるよな…メガネ」

ぼそぼそと彼が言う。


「ははは…。ありがとう。メガネ歴…実は長いからね…私」

私のメガネはシルバーの細いフレームにレンズ部分が小さめで丸いタイプだ。

平静を装うが、急速に顔が紅潮していくのが自分でも分かる…。

「どんなのが…似合うと思う?メガネ歴長い"先輩"から見て?」

"先輩"を強調して彼は言った。

「そうだなぁ…」

考えるふりをして私は彼から目を逸らす。変な汗を背中に感じる…。せっかくお風呂に入った後だと云うのに…。


「ブロータイプなんてどうだろ?」

「ブ、ロータイプ?」

「そう。えっと…誰が居たっけ?う~ん、あ、マルコムXって言ったら分かる?」

マルコムXの掛けていたサーモントブローはアメリカン・オプティカルの物で、もちろん廃番。でも、コピーやレプリカタイプならば手に入るはずだ。

「………」

沈黙する彼に、私はスマホを取り出して、素早く検索すると画像を見せた。

「こんな感じ…」



「ああ…。見たことあるよ…この人」

「似合うと思うなぁ。ガッチリタイプだから、正にこんな感じになると思う。かっこいいと思うよ?」

「そ、そうかな…」

「うん、絶対!」

ふと我に返って、再び顔に火照りを感じる…。自分の好みの押し付け…。嫌がられているかもしれない…。いや、きっと嫌がれているに違いない。

「ごめん…。何だか押し付けちゃってるみたいで…」

私は恥ずかしさのあまり俯いた…。


「いや、そんなことない…。そうだ、今度メガネ屋に付き合ってよ?」


「え?メガネ屋?」

「あ…メガネ屋だけで…なくて……もいいけど…」

「は?」

何を言っているんだ?この人は?

「それって…。もしかして…デートに誘ってる?」


「あ…、うん」


変な汗が湧いてくる…。やはり、もう一度お風呂に入った方がいいかもしれない…。


「うん…」

私はひと言、そう呟くと足早にその場を立ち去ろうとする。

「さ、レポートやらなきゃ!」

「付き合ってくれるのか?」

私は振り向かず、もう一度、彼に言った。



「うん!」



-了-

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