Kの事件簿 カレーパン

虫板

第1話



Kの事件簿 その1



 北の大都市の秋の夕暮れは早い。傾きかけた日は子供の遊ぶ時間を短くして、夜の帳を早々に下ろそうと準備をはじめる。そんな街の、古くなってきた雑居ビル群の片隅で複数の影が蠢いていた。一つの黒い影が口を開く。


「おう、聞いたか。千本切りのマサが動いたらしいぞ」

「まさか。まだ俺たちは『何もしてねえ』」

「だがおそらく噂は事実だ。耳の早い情報屋から仕入れたんだからな」

「そうだぞ。千本切りのマサは耳が早いんだ」

「そうなのか……? うん、お前誰だ?」

「よぅ」


 一つだけ混ざっていた、紅い影の手がブレた。瞬間、立て続けに黒い影から紅い噴水が吹き出す。


「千本切りはな、伊達じゃあないのさ」


 そうつぶやいた声は誰が聞くものでもなし。紅を浴びた紅い影は、獲物からしずくを払うと路地裏に背を向けた。





「おい、K。急げ!」

「わかってる。わかってるけど落ち着いて」


 数十分後、中古のボロ軽自動車内にて。

 一人の女性が、運転席に座る優男を怒鳴り散らしていた。


「落ち着いてよマサ。パンは逃げやしないんだから」

「落ち着くんじゃなくて焦るのはお前だよ、K」

 女性……長い髪を悪鬼のごとく振り乱し、今にも噴火しそうな火山のような真っ赤な目が特に衆目を引く美人は、これまた鮮烈な夕日か揺らめく炎の色の矢絣のそでを助手席で翻す。

 彼女が先程の紅い影……「千本切りのマサ」こと、仁灯 真砂五(じんとう まさご)であった。そんな彼女の詳しい素性や仕事を、Kと呼ばれた運転席の優男は詳しく知っているわけではない。

 だが、Kがとてもとても詳しく把握していることが一つだけある。


「あのな、K。あの店のカレーパンは午後4時に揚げあがるんだ。わかるか、4時だ。今何時(なんとき)だ言ってみろ」

「わかってるわかってるから、マサ。車にだって時計はついてるんだ、3時45分、あの店まではここからゆっくり走っても10分でつくよ」

「そうだ4時にギリギリだ。渋滞にでもあってみろ、


 おんぼろで役立たずになりかけのクーラーの下にある、古いデジタル時計は、丁度3時45分、46分に切り替わった所だ。

 それでも真紅の女性はお気に召さないらしい。しきりに親指の爪を噛みながら時間を気にしている。


「5分前、5分前か……くそ、やっぱりもうちょっと早く仕事あげないとダメだったな」

「そんなに急ぎの仕事だったの?」

「そーなんだよ、今日を外すとまた時間かかるから……ああくそ、でもやっぱり時間かけてでも今日は外すべきだったかなぁ」

「ふうん……まあ、多分この時間なら道路も混んでないし、大丈夫だと思うよ。あと、櫛だけ準備しといた、そこのダッシュボード」

「ん、あー、悪いな」



 なにをそんなに焦っているのかと、髪をかきむしる女性にダッシュボードに櫛が入っているのを教えておく。どうにもこの人は自分を整える事に気が回らないから、こうして準備をするようになった。つい最近からのことだし、この女性とKが出会ってからそう長い時間がたったわけでもないのだけれど。

 ちなみにKは、彼女の身だしなみについて、変に何か言ったりはしない。こうして移動の足として急に呼び出された時は大概酷い事になっているからこうして苦言を呈しているけど、何かの時に呼び出された時は化けたかと思うくらいに美人になっていた。だから、大事な時はちゃんと整えていくのを知っているせいもあって、他人の事に余計には口を出さないのだ。

 概ね、ただの足として使う関係使われる関係、という奇妙な関係を楽しんでいる部分はあるのだけれど。


「しかしやっぱあのオンボロはそろそろ乗り換えるべきじゃないのかな」

「支給品だからな、そうそう乗り換えられないんだよ」


 なんとなくそんな会話をしつつ……予定より1分は遅れてマサがわめきはじめたが、到着後の反応が素早かった彼女は要領よく目的のものを入手できたようだった。


「揚がって20分もたってた……」

「まだ暖かいしいいんじゃない、かな?」

「うーん……まあ、並ぶのは無理だしな」


 大事そうに大きめの紙袋を抱える様が子供のようで、Kは吹き出さないように苦労するはめにはなったのだけど。それにしても、車内は揚げ油の匂いが充満していて、夕飯前ということもあって空腹が刺激される。


「ほれ。お前の分。一つ食え」

「お、ありがとう」


 そして、足代、といって少し譲ってくれるのもまた、Kがこの無理難題に付き合ってしまう原因だった。ガソリン代と比べれば大した額ではないことのほうが多いが、この奇妙な関係の対価としては、破格なのではないかと思う。

 早速、きつね色に揚がった丸いパンをかじっている姿を見ながら、Kも同じように紙包をはがしはじめた。ほんのりと湯気が立ち上り、かじりつくと香ばしい食感、そしてスパイスの香りが口から鼻腔を駆け抜けていく。まだほんのり温かく、さくさくと咀嚼する音も楽しい。甘み万人受けする味で、辛さよりも、コクが深いのが後を引く。

 なるほどこれは、揚げたてを味わいたくなるカレーパンであった。夕飯前にカレーパンは重たいかと思ったのだけれど、気がつけば一つ手の中から消えてしまっていたのである。

 隣ではまだ、座席や膝の上にきつね色の小片をこぼしながら楽しそうにやっている女性がいた。

 あとで掃除しておかなければと思いつつ、Kは不思議な女性がパンを齧るのを眺める。時は夕暮れ、そろそろ日は傾いて、夜になろうとしていた。



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