春々

秋冬遥夏

春々

 コンビニでホットコーヒーと一緒に春を買った。いつもは比較的安い夏や秋を買うのだが、今日は給料日だからと奮発して春にした。そもそもなぜ同じ季節なのに値段が違うのか、なんて思うところもあるが、それは結局は貴重さが違うのだろう。なんにせよ、春は他の季節に比べて短い。そもそも春とは、長い冬と暑い夏を繋げる接着剤のような季節なのである。そんな束の間の季節、春を五分ずつ瓶に分けて売っているわけだから、いい値段がするのは当たり前、と言えば当たり前なのであった。


 私は春を引っ提げながら帰路に就いた。

「おかえりなさい」と出迎えてくれる妻に、

「ただいま」と返す。この瞬間がなんとも心地が良い。嬉しいとか、楽しいとはまた違う。空気が優しく体に馴染んでいくような、そんな感覚になる。

「あら、またそんなもの買ってきて」妻はビニール袋を指差して、私に睨みを利かせる。

「給料日なんだから許してくれよ。それに今日は春にしたんだ。花見ができるぞ」

「できるって言っても、五分だけじゃない」

「五分だけでもいいじゃないか、君と花見がしたかったんだ」

「もう、まったく」そう言いながら妻は、呆れているのか照れているのか、額に手を当てているのだった。


 春は青い。その青は夏には色が抜けて透明になり、秋冬につれて白く濁っていく。季節の色なんてゆっくりと変わるものだから、気にも留めないものだろうが、この瓶を見るとその違いは明らかだった。

 私はしばらく瓶に見惚れてから、妻と食卓を囲んだ。テーブルにはたくさんの料理が並んでいる。妻の作ったジェノベーゼ、彩りの良いサラダ、輪切りのパイナップル、香りを放つブルーチーズ。野苺のジャムを使ったタルトも焼いてくれたみたいだった。そして最後にテーブルの真ん中に、買ってきた春を置いた。私たちは二人でその中を何度か覗き込み、青いね、なんて言い合ってから、満を辞して封を開けた。


 ふと頬を撫でるのは、春風。薄青い空気が充満して、頭上を小鳥が飛んで行ったかと思うと、足下には小川が流れてゆく。蝶々が二匹ほど舞い、向かう先では瞬く間に桜が咲いた。ほんのり青白く、儚い五分だけの枝垂れ桜。私たちはワンルームに広がるその光景に見惚れながら、ジェノベーゼを頬張った。

「きれい」と妻が嬉しそうに言い、

「そうだね」と私が応える。

「青いね」と私が言い、

「そうね」と妻が返す。

 春はそんな他愛のない会話も大切なものにしてくれる。そしてこれが、私が春にこだわる最大の理由なのであった。別に春が特別好きというわけでもないのだ。それでも値段の高い春をわざわざ買ってしまうのは、彼女の嬉しそうな笑顔が見たいからなのだった。それくらい春を見ている妻は魅力的であり、惹かれるものがあった。

「ほんとにきれい」と溢す妻に、

「ほんと」なんて意味のない相槌を打っているうちに、時間はあっという間に経ってしまうのだった。


 消費した春は瓶に戻っていく。小鳥もぴよぴよと挨拶を交わしたっきり瓶から出て来ない。小川も桜も、さっきまでの光景が嘘のように瓶の中に消えてゆく。私は妻との思い出も瓶に吸い込まれるような錯覚を覚えながら、最後に蓋を閉めた。瓶の中は青色が抜けて、限りなく透明に近くなっている。私はその透明に空や病院、並木道が映っているような気がした。しかし気がしただけで、目を凝らすと見えるのは食卓にあるパイナップルだけであった。


「使い終わった春はしっかり捨ててよ」妻は私にそう念を押した。しかしそれがなんとも難しい。使い終わったらただの空き瓶なのだが、どうも妻とのなにかが詰まっているようで捨てづらい。その結果として、もう私の部屋には使い終わった春が十四個も溜まってしまっているのだった。

 それからも二人で長い時間テーブルを囲んだ。タルトを食べて口が甘くなったら、パイナップルを噛む。夜の空気が薄くなるまで。春の思い出を語り合いながら、いつまでも食べていた。


 部屋に溜まった空き瓶が二十個を過ぎてきた頃。妻が掃除をしている際に、とうとう溜めていることがバレてしまった。

「使い終わったら捨ててって言ったじゃん」妻は呆れている様子で「もう、まったく」とため息を吐く。

「ごめん」

「別にいいけどさ、」

 妻はそこまでしか言わなかった。きっと言っても無駄だと思われたのだろう。瓶は全てごみ袋に入れられ、きつく結ばれてしまった。せかせかと掃除機をかける妻の背中が遠ざかっていくのだった。


 それからというもの、春を買っても瓶は妻に捨てられた。なぜ捨てるのか。それは妻がきれい好きだからだろう。昔から彼女は妙にきれい好きだった。ものごとは整理をしておかなくては気が済まない性なのだ。

 そして彼女はものへの執着心も全くなかった。本当にあっさりとした性格で、使えなくなったものはすぐに捨てる。きっと私のこともこの瓶くらいのものにしか見えてないのではないだろうか。そうだとしたら、すごく悲しいことである。

「ねえ、いま私のこと考えてるでしょ」とキッチンから聞こえる妻の声に、

「いつだって君のことを考えてる」と応えた。

「嘘ばっかり」

「嘘じゃないさ」

 とんとんと野菜を切る音が部屋に響いている。ずっと思っていたが、最近になって妻は冷たくなってきている。もともと温かい人ではなかったが、ここまで冷たくはなかったと思う。やっぱり妻の愛も瓶に吸い込まれてしまったのだろうか。そんな風に考えてしまうのも、無理がなかった。


 妻は日に日に冷たくなっていったが、それでもなお私は給料日になると春を買ってしまっていた。なんだかんだ私は妻の笑顔がみたいのだ。たった五分。その五分間だけは、優しい妻に戻ってくれる気がして。どうしても買ってしまうのだった。そしていつからか夏や秋を買うのを我慢して、お金を貯めてまで春を買うようになった。


「なぜ使い終わった瓶を集めてはだめなのか」といつか聞いてみたことがあったと思う。妻は少し首をかしげて、

「だめなわけじゃないのよ、でも古い瓶なんて持っていて欲しくないのよ」と答え、笑った。ふふ、と馬鹿にするような優雅な笑いである。

「なんで笑うのか」と聞くと、

「だって面白いんですもの」とのことであった。

 こちらが必死に話をしているというのに、本当によくわからない人だなと思った。


 雨の降ったある日のこと。

「もう春を買ってこないで欲しい」と急に妻が言ってきた。

 私の心は複雑な気持ちであった。今まで妻を思ってやってきたことは迷惑だったのか。もしかしたら夏や秋の方が好きだったのか。色んなことを考えて、自分を落ち着かせた。それでも、どうしてもやりきれなくて、「なぜそんなこと言うんだい」と溢してしまった。

「私、春がどうしても好きになってしまったの」

「ならどうして」と言う私の言葉を遮り、妻は話を続ける。

「五分じゃ満足出来なくなっちゃったのよ。私はこのままいくと、春に溺れて、依存して、中毒のように抜け出せなくなる気がしたの。それがギャンブルやクスリみたいで、とても怖いのよ」

 妻の頬には涙が流れていた。冷たくない、春の小川のような温かい涙だった。

「せっかくの気持ちを、ごめんなさい」そう言い、妻はぺこぺこお辞儀をする。

「いいんだ、こちらこそ気持ちに気づいてやれなくて悪かった」

 私は妻を抱きしめた。鳥の巣を持つように優しく慎重に抱いた。その日の夜は寝付けないのだった。瞼は重くても気持ちが軽かった。


 その日を境に私は春を買わなくなった。同じようなことが起きても嫌だから、他の季節も同様に買わなかった。すると当然、私のお金は貯まっていく。少しずつだが確実に貯まっていく。私はそれを何に使うか悩む毎日だった。


 貯金を始めて四年ほどが経った頃だろうか。私は相変わらず、年々と冷たくなっていく妻と一緒に過ごしていた。青でも透明でも、白く濁ってもいない、ただただ灰色の日々であった。

 私は仕事帰りにコンビニへ寄った。今日は給料日だったのだ。今になっても私は、給料日になると無性に春を買いたくなる時があるのだ。いや欲しいのは春そのものではなく妻の笑顔なのだが——ずっと妻の笑顔が見たくて、いままで頑張ってこれたのだから。それでも私は春を買わず、ホットコーヒーだけを買い、コンビニを後にするのだった。春を買う勇気はどうしても湧き上がってこなかった。


「ただいま」と言っても、今では妻は迎えに来てくれない。それを見ると、たまにでも春を買い、五分だけでも他愛のない話を交わす場を設けた方が良かったのではないか。なんてそう思ってしまうのも仕方なく感じた。

 リビングを覗くと、妻は一人で野苺のタルトを頬張っている。からかい半分で「なあ、まだ春は好きか」と聞いてみるが、妻は黙ったままである。しかとをしているといより、なんと言えば良いか悩んでいる、という風に見えた。


「わからないわ」

 少し経った後に、返ってきた妻の返事はそれだった。本当にわからないのだろう。妻はずっと首を捻らせている。

 きっと私だってわからない。しかし妻に春が似合うのだけは確かであった。夏ではなく、冬でもない。春が彼女には似合っていた。いや、妻にだけではない。きっと私も。私たち二人に、春が似合っているのだ。

 小鳥のさえずりがどこからともなく聞こえ、小川のせせらぎが心を洗い、別れの季節にも関わらず、地面も空気もほんのり青い。そんな春が私たちには、似合っているのだ。きっとそうなのだ。


 私は今まで貯めてきた貯金を部屋から持ってきて、今日貰った分の給料と合わせた。妻はその大金に目を見開いていた。それもそうである。普通に考えたら、良い仕事にもついてない私が、こんな量のお金を持っているのは、とても不思議なことだ。

 そのお金を自慢げに目の前に広げて、ポージー、なんて改めて妻の名前を呼び、最後にこう言うのだった。


「もし良ければ、このお金で日本に行き、毎年春を見て生涯を過ごしませんか」

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