10/19 妹と私
ぼさぼさの髪をかき混ぜながら扉を開くと、リビングの奥で冷蔵庫から食材を取り出しているお父さんと目があった。それで何となく挨拶した気分になって、私は自分用のミネラルウォーターを取り出して、コップに注いだ。隣からフライパンで油が弾ける音がしていた。
お母さんが心を壊してからずっと、家事全般はお父さんの仕事だった。最初こそ忙しなく動き回っていたお父さんも、今では手慣れたのかテレビを眺めながらお弁当の準備をしている。寝ぼけ眼をこすり、洗面所で顔をすすぐ。びしょびしょの顔を鏡に映すと、私の顔は寝起きだからか、情けない顔をしていた。最近はいつもこんな調子だ。最後にいつ笑ったのか思い出せなかった。
お母さんが壊れたのは、言うまでもなく詩子がこの世を去ったのがきっかけだった。二年ぐらい前に、ようやくお母さんは働けるようになったものの、それ以外の一切が出来なくなってしまった。塞ぎ込んで、実家に帰って空虚な時間を過ごしていたころに比べればよほどマシだ。たとえ私を見たときの薄っすらとした笑い顔に感情がこもっていなくても、生きてさえいればそのうち、昔のように笑ってくれるかもしれないし。お母さんは今を生きるために必死なんだ。私はそれを喜んで肯定してあげたいと思う。
お父さんの邪魔にならないようにと、和室のふすまを開き、畳に足を載せる。ざらりとする表面を撫でるように素足で仏壇に歩きより、線香に火をつけた。
いつかの命日、お父さんに”詩子の代わりになってもいい?”と問いかけたことがある。本気だった。詩子は私よりも賢くて、どんなときもニコニコと笑顔を浮かべていた。彼女はずっと輝き続けるんだと思っていたし、透き通った純粋な目に映る世界はきっと綺麗で、絶望とは無縁の生活を約束されていただろう。
詩子は道端で転び、膝を擦りむいて泣きそうな私を、「お姉ちゃん、痛くないよ。痛みもらっちゃうからね」と落ち着くまでずっと正面から抱きしめてくれた。詩子が事故に遭うわずか二ヶ月前の出来事だった。私は人の優しさって、こういう温かさのことを言うのだと思う。何の躊躇もなく抱きしめてくれた詩子は、そうやってたくさんの人を救えるんだと本気で思っていた。それが、なのに……
―詩子は家族に鎖を巻きつけて、自分にも同じようにしてから、混沌とした暗闇が続く谷底に身投げしたんだ―
目頭を抑え、零れそうな涙を拭き取った。まさか、自分が呪詛を吐きかけるほど不安定になっているとは思わなかった。私達は常に暗闇のほうへ引きずられながら、踏ん張って、痛みに耐え忍んでいる。そちらに消えた詩子の生死はわからず、確認もせずにいる。未だに詩子の部屋はいつも綺麗で、それはお母さんのおかげだと知っている。
家族の誰もが彼女の死を話そうとしない。それはいままでも、そしてこれからも変わらないだろうと思う。
詩子が亡くなって、今年が丁度五年目だった。
「最近、タルトさんっていう変な女の子と一緒にいるんだ」
私は笑顔の妹に向かって話しかけた。
詩子は事故で命を落とした。伯父さんの運転する車が前方で起きた事故に巻き込まれた。その事故で、伯父さんと詩子がいなくなってしまった。両親の仕事が忙しい時期だったから、私たち姉妹はわりと近くに住んでいた伯父さんのところにお世話になっていた。伯母さんはお菓子作りがうまくて、私たち姉妹はそれ目当てなところもあったと思う。
「なんかさ、もう五年だってまだ信じられないよ。詩子は私よりもずっと元気で、明るくて。いとことも仲よくてさ。そういえば、どうしてるんだろうなあ。元気なのかな。でも今さら連絡取る気にはならないや。詩子の代わりに明るく元気にって思っていても、私は根が暗いしさ」
自虐的に笑った。詩子はそんなことないと言ってくれるだろうか。
「お母さん、今年もお仕事忙しいって。お墓参りは一緒じゃないって」
今でも忘れられない、一回忌。私は涙が止まらなくて泣き続けていた。お母さんが抱きしめてくれて、腕のなかから顔を見たら、お母さんはじっとお墓を見ていた。泣いていなかった。
「私、おばあちゃんに聞いたことがあってね。お母さんはどんな顔して詩子に会いに行ってるの? って。そしたらさ、お墓をきれいにしたあとに、しばらく動かないで、じっとしているんだって。まあ、知ってると思うけど」
お母さんはずっとそうだった。お母さんが泣かない理由は、なんとなくわかっている。感情を涙で流していって、失った痛みを忘れたくないんだと思う。私は強くないから、この時期はずっと不安定だし、泣くし、自分がどこにいるのかすら見失いそうになる。曖昧になる。
「詩子、寂しくない?」
言葉が勝手に、ぽつりとこぼれ落ちる。
「お姉ちゃんは、寂しいなあ」
私は線香が消えるまで、ぐっと下唇を噛んで涙を流さないようにして、痛みが過ぎ去るのを待った。まるで片身がどこかへ溶けてしまったかのような不安定さが心を不安にさせる。正座していたせいか足がしびれて、すぐには立ち上がれそうにない。足を崩して何気なく後ろを向くと、仕切られた襖の向こう側でお父さんが待っている気がした。
詩子のせいで、そう言いかけた口をぎゅっと結ぶ。私はぐわんと頭が回る心地がして、床に手をついた。私がまともになればいいのに、どうしてこうも不安定なんだろう。"あんなことをしたから、いけないのか?"
でも、私は間違っていない。壊れかけた家族が元通りになるのには、詩子が生きていればいい。詩子がいれば、私も、お母さんも、お父さんも、なんの心配もなく笑えるんだ。だからせめて、私が詩子になれれば――
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