10/19 私と"友達"

「美伽ちゃん」

 繭ちゃんが私を呼んだ。担任の話が長すぎて眠りこけていたのをすっかり忘れて、振り返ろうとして体重を預けていた右手から顔がずるりと落っこちた。恥ずかしさを誤魔化すように首に手を当てながら振り向く。繭ちゃんは笑っていなかった。

「な、なに?」

「昼休みに話したよね? のあちゃんが戻ってきたら、あそこで」

 繭ちゃんが指した窓際の席は、机が三つくっつけられていた。私は反射的にうんと言いかけて、脳裏にタルトさんの顔がちらついた。そういえば待ち合わせをしていたはずだから、一言かけたほうがいいかもしれない。彼女は気にせず待っていそうな気もしたけれど、放置するわけにもいかないだろう。

「ちょっとだけ待ってもらっていい?」

「タルトさん?」

 私は頷き、カバンを持って教室を出た。繭ちゃんは呼び止めてこなかった。

 繭ちゃんの怒っているのか、悲しんでいるのかわからない無表情がただただ怖かった。冷汗がじわりと滲むほどの不穏さだったと思う。混乱と興奮で頭がおかしくなりそうで、外に出てもすぐに階段を降りる気になれなかった。私は火照った頭を冷やそうと、窓に頭を押しつける。結露で曇っていて、とてもひんやりしていた。

 秋雨がしとしとと降り、窓についた水滴が静かに流れ落ちている。ぱたぱたとまばらに音が鳴っていて、他人の声が聞こえていてもなお静かだ。冷たい空気が満ちている。日中の賑やかさからは想像もできないぐらい、波の立たない海のように全てが落ち着いている。私は何度か深呼吸してから、階段を降りた。

 私が一階の踊り場にたどり着くと、タルトさんは首をあげてぼおっと上を見ていた。相変わらず片目が隠れている。やや大きめの瞳と重たそうなまぶたが相まって、不気味とも不思議ともつかない微妙な雰囲気をまとっている。そんな彼女の気持ちを想像しようとして、それは不可能だとすぐに気づいて頭を振った。彼女はズレている。野暮ったい姿やボサボサの髪の毛、どろんと重く、でもしっかりと私を見据える左目、手帳に書き込んでいるときの文字の滑らしかた、どれを取っても本当にそこにいるのかすら曖昧で、常に虚構のような雰囲気をまとっている。

 だから興味が惹かれるのかもしれない。

「タルトさんは待っていますから、どうぞ」

 私の足音を聞いたからか、タルトさんは手帳をぱたんと閉じた。私は今日のお昼休みに、タルトさんについて話があるから放課後に時間を取ってほしいと、のあちゃんから誘われていた。のあちゃんは私に伝えてきた瞬間、とても真剣な表情をしていた。すぐにいつも通りのキリっとしつつ穏やかな雰囲気に戻っていたけれど、きっと大事な話をするつもりなんだろう。あの時のひりりとする緊張感からして、とても嬉しい知らせだとは思えなかった。とはいえ無視するわけにはいかないし、いつもと違う繭ちゃんの様子も気になっていたから、気は向かないけれど聞くしかない。

 タルトさんに一緒に行く? と聞いてみたらじっとこちらを見たあとに、首をゆっくりと振って否定した。

「どうして? のあちゃんに聞きに行くだけだよ」

「お友達とタルトさんが出会うとマズいのではないでしょうか」

 軽い耳鳴りが頭の奥深くに刺さるように、キインと鋭く鳴った。

「三國さんは恐らく、タルトさんのことを気狂いだと思っていらっしゃるようですから」

 ぽろぽろと記憶が抜け落ちているわりに、悪口だけよく覚えているらしい。でも、そんなことを口に出した記憶がない。とは言っても昨日、変人よりもヤバいと考えていたのは事実だから、すこし気まずくなって右手で口元を隠した。

「わかった、わかったよ。って、あれ? ……声に出てた?」

「いえ。ですが、タルトさんにはわかります。先ほどまでの三國さん、未確認飛行物体を見たときみたいでしたから」

「見たことないよ」

「はて」

 私の心労がすこしでも伝わればと思い、わざとらしく大きなため息をついた。タルトさんは柱に寄りかかっていて、身体の半分ほどが影と同化していた。

「じゃあ、私のカバン見といてね。すぐ戻ってくるから」

 タルトさんはこちらにひらりと手を振って、すぐに手帳に目線を落とした。タルトさんはあれを大事そうに持っているが、中にどんなことが書いてあるんだろう。とても他人には理解できないなぞかけのような内容がおびただしくぎっちり詰まっているかもしれない。それとも実は何も書かれていなくて、不思議な雰囲気をまとうためのフェイクかもしれない。彼女の後ろに立てばわかるかもしれないが、したくなかった。私はそこそこ、タルトさんの雰囲気が好きだった。だから壊すようなことはしたくない。

 教室のある三階まで駆け上がって、ぴたっと足を止めた。ここから見下ろそうと背伸びしても、手すりに阻まれていてタルトさんが見えない。まあいいか、と思った。"何もわからないほうがいい"ことは、世の中にあふれている。これからドアを開けて、のあちゃんが伝えようとしていることで私がタルトさんにそっとかけたヴェールが落とされるのかもしれない。

 それでも、私が彼女のことを祈るように両手を重ね、謎だと思い続ければ、彼女は謎のままでいてくれる。そんな気がした。


 私が左手すぐの教室のドアを開くと、教室にはのあちゃんと、繭ちゃんがいた。二人が囲む机の上には、分厚い本が置いてあった。

「のあちゃん!」

 私の声が届いたのか、彼女がこちらに微笑した。

「あ、三國さん。待っていましたよ」

 私は二人のあいだに駆け寄り、交互に顔を見た。

「どう、いた?」

「いえ、それが……」

 のあちゃんの顔が曇る。そっか、そうだよねと、なぜか胸にすとんと落ちる心地がした。

「樽戸さんって人はいなかったよ。のあちゃんが一応、過去の名簿も見てくれたらしいんだけど、どこにも載っていなかったって」

 繭ちゃんはそう言って、残念そうに俯いていた。

「わかった」

 私が答えたあと、それきり誰も喋ろうとしなかった。二人が落胆していたのは、タルトさんを見つけられなかったことじゃないと思う。あれは私への落胆だ。これじゃ、誰が気狂いなのかわからない。繭ちゃんはそうだ、とわざとらしく手を叩いて、こちらを見た。

「ねえ。タルトさんってどんな人? 見た目とか、雰囲気とか」

 繭ちゃんは実際のところ、タルトさんが本当に存在するとは思っていないだろうなあ、とぼんやり考えた。彼女の細指がそっとほつれた"嘘"という糸を引っ張るように、私からさらりと聞こうとしているだけだと思った。ネガティブな気持ちが黒々と胸中に渦巻くなか、私はつとめて明るく話した。

「タルトさんは髪がめっちゃ多くて、長くて、ぼさぼさで、それからぼおっとしていて、記憶力がなくて、ぼんやりと私を見ている、変なひとだよ」

「目立ちそうな人だねえ。ねえ美伽ちゃんは見たことなかったの? 屋上で会ったのが最初だった?」

「うん。一度見たら忘れないと思うし……」

 繭ちゃんはそっか、と小さくこぼして黙ってしまった。のあちゃんは繭ちゃんと対照的に、手でペンをくるくると回しながら考えごとをしているようだった。二人に囲まれているこの時間がとても辛くて、私は用事があるからと嘘をついて、踵を返した。ドア前で二人にひらひらと手を振って、教室を出て道すがら、私は考える。じゃあはたして、"あれは誰なのか?"と。

 あるいは、本当に私の”友達”なんだとしたら……


「ねえ、美伽ちゃん。タルトさんは”本当に”いるんだよね? 信じていい?」

 奇妙な耳鳴りが頭に響く。振り向くと、教室から顔だけ出したのあちゃんがいた。彼女の声もまた、不思議だった。頭蓋で四方八方に音波が飛び回り、私の頭のなかをすべて明らかにするような、そんな形容しがたい声だった。

「うん、タルトさんは本物だよ」

 そう言うのが精一杯だった。私はもう一度手を振って、タルトさんが待つほうへと逃げるように走り出した。

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