10/18 出席番号二十五番

 ひんやりとした空気が、校舎内に満ちていた。すこし湿気った感触が肌にまとわりついて、手首あたりを触るとぺとりと張り付くような感触がした。私の陰鬱な気分をより肯定してくるような、秋の寂れた空気が満ちていた。


 私は廊下の行き止まり、階段を向かいにした端っこの消火器の隣に突っ立っていた。友達とわかれてから一階に降りていって、反対側の階段からまた教室のある三階まで戻って、そうやって廊下が静かになるまでずっとぐるぐると回っていた。ただ漠然と、一人で落ち着ける場所を探したかった。

 しかし屋上も教室も、いまの私にはふさわしくないように思えた。どうしてそう思ってしまうのか全くわからなかったけれども、どこにいてもそわそわして、上手に呼吸ができないように思えた。そうしてわからないままふらつき、さまよい、いつの間にかこの学校の死角のような場所にすっぽりとはまってしまっていた。

 タルトさんのせいだろうか。彼女と出会ったせいで、何かおかしくなっているのだろうか。よくは、わからないけど。彼女はどことなく存在感がなくて、希薄で、不思議だったから、影響されたのかもしれない。

 ……どうだろう、と私は頬を撫でながら思う。もしタルトさんのせいだとしたら、はっきり彼女のせいだと言えるだろう。しかし、心のなかで何度も彼女のせいじゃないかと考えても、宙ぶらりんの浮ついた心が落ち着いてくれなかった。

 あれこれ頭の中に言葉を並べて、しかしどれもがしっくりこない。自分の気持ちがわからなかった。自分のことは一番よくわかっている、なんてドラマとかで強気な人が言ったりするけど、そんなのはまるっきりの嘘だ。誰にとっても自分が一番、謎めいた存在だと思う。

 今も自分の気持ちに説明がつけられない。言葉で表せない。考えすぎかもしれない。もしかしたら、疑問に蓋をして考えないようにすれば、心の落ち着きを保てるのかもしれない。


 それでも、と思う。

 誰かが溢れんばかりの気持ちを汲み取ろうとしなくても、意味がわからなくても、自分について考えていたかった。陰鬱さや混乱が私の人生を乱して、”とても馬鹿げた行動”を取らせ、明日の私がそれの理解に苦しみ、自己嫌悪の渦中で息苦しくて溺れてしまったとしても。苦しみこそが心の輪郭をかたどっていると思っている。

 私は、ポケットから何度も読むうち文字のあちこちが掠れてしまったラブレターを取り出し、文字を指でさらりと撫ぜた。指先がすこし、黒くなった。


 昨日、家に帰ってから、ラブレターの差出人に悪いと思いながらも文面すべてに目を通してみた。一度読んですぐに、きょろきょろと辺りを見回してしまった。興奮と不安がぐちゃっと混ざり、ラブレターを握る手に汗がにじんだ。

 おかしかった。端から端まで目を通して思った、最初の感想だった。読めば読むほど私宛のラブレターとしか思えなかったからだ。見に覚えがある挙動、言動の”数々が文面に溢れかえっていて、それらを仕草"という言葉でまとめつつ褒めちぎり、私がふざけているときの顔が好きだと書いてある。読むたび顔が赤くなり、耐えきれなくなってパタパタと手であおいだ。

 もしもいたずらだとしたら、相当手の込んだ内容だ。だって私は”これを本物としか思えない"のだから。

 喉がかわいて、リビングに行くとお父さんと目があった。そのまま何も言わずに冷蔵庫を開ける。冷気が顔にあたって、さっきまでの動転していた気持ちが落ち着いてくる。

 だけど、と心の奥底に向かって言葉を投げる。それはドプンと深い音を鳴らして、波紋を広げる。波紋は不規則に、まるで不整脈を起こした心電図のように乱れていた。

 ラブレターの宛先は私ではなかった。冒頭に”田中黄葉さんへ”と書いてあるせいで、一切の疑問の余地もなかった。書いてあることに覚えがありすぎるというのに、どうして私宛ではないのだろうか? 私を混乱させる事実が、よりいっそう奇妙な気持ちへと手を引いていくようだ。

 万が一、万が一宛名が冗談で、本当は私宛だったと仮定したとしても、冷静になった頭で考えてみると、どうも納得がいかない。誰が私にラブレターを宛てたのか、皆目検討がつかないからだ。繭ちゃん? それとものあちゃん? と数少ない友人を思い浮かべてみて、やはりどれも釈然としない。彼女たちからは、私への恋のきざしなど見たことがない。仲良くしてくれる理由に好意と名前をつけたとしても、意味するところは友情だろう。恋ではないと思う。

 身に覚えがない。だから、頭でだらだらと考えていてもわかるはずがない。そりゃそうだ、と思う。というか、はじめから考える必要なんてない。だって、田中黄葉さん宛のラブレターなんだから。私のじゃ、ないんだから。


 私はカバンから水筒を取り出して、わずかに残っていたお茶をぐいっと飲み干す。じっとしていても答えは降ってこない。だから、とにかく動こうと思った。それでどうなるかはわからないけれど、あっちこっち駆け回っているあいだは深く考えなくて済むから。

 外では烏が鳴いていた。心からじわりと染み出る不安感に思わず、横髪を撫でた。色々なことを頭に思い浮かべていると、考えなくていいことまで考えてしまいそうで、背筋がぞくりとする。

 妹の命日が近くなると心が落ち着かなくて、私はすこしおかしくなってしまう。詩子が私のもとから去ってしまった、決定的な日付を忘れるわけがない。だから、不謹慎な言いかたをすれば恒例イベントとして、近づけば身構えることが簡単なのに、震える心が制御できない。

 自分でも不安定だと思っていても、どうしても衝動は止められなくて、よくない形で発散してしまう。いっそ詩子が友達として生まれ変わってきてくれれば、不安はすべて過去のこととして吹き飛んでいくのに。笑い話の一つにできるのに。

 周りに嘆き散らしたこともあった。誰にも迷惑をかけたくないのに、止められなかった。昨日の繭ちゃんは、タルトさんとラブレターについて喋る私をみてまたか……と思っていたかもしれない。去年はだいぶ泣きついてしまったから、今年は何もなく過ごしたかったのに駄目だった。私は繭ちゃんと仲良くしたかった。いつも通りに。

 ほら。やっぱり気分が暗くなってしまう。スマホを点けると一七時過ぎ、最終下校時刻まで一時間を切っている。

「やば、タルトさん帰っちゃったかな……」

 私はカバンを肩にかけて、飛ぶように階段を駆け下りた。


 誰もいない昇降口は、さながら夏によくやる怪談番組に出てくるような、肝が冷える不気味さを持っている。これは想像でしかないけれど、きっと都会の駅から急にひとが消えて、私だけ取り残されたとき、同じように恐怖するのだろう。

 でも、考えようによっては、とても素敵だと思う。誰もいない世界に誰かと、私しかいなくて。そこで告白なんかして、世界の終焉が訪れるまでずっと抱き合っているのだ。

「いや、滅んじゃ駄目だよね」

 ぱちんと両手で頬を叩いて、天を仰ぐ。タルトさんの言葉を思い出す。告白にもってこいなのは、彼女の言う通り屋上だろう。でも、最近は生徒の立ち入りが禁止されているんじゃないかと思う。うちも例外ではなかった。誰かが飛び降りた、なんて事件が起こったわけではないし、そんな話を聞いたこともない。あくまで事故が起こらないための予防だと思う。

 じゃあどうやって入ったかっていうと、答えは単純だった。立ち入り禁止と張り紙が貼られているだけで、鍵がかかっていなかった。なんでも鍵が壊れているとかで、暫定的に生徒会が注意書きを貼って、時々巡回してチェックしているだけらしい。なんとも適当な管理だと思う。誰かが飛び降りたらどうするんだろう。

 一昨日、タルトさんが私の机の中の教科書に挟んだ手紙に、”告白したいときに思い浮かべる場所、そこに私はいます”と書かれていた。随分と自分の世界に浸った文章だと思う。最初は気味が悪くて、誰かのいたずらだろうと思った。思ったけれど、なんだか無視するのも申し訳ないかもと思い、本当に告白だったらどうしようと浮足立って、とりあえず屋上のドアの隙間からそおっと、外を覗き見た。そしたら、タルトさんがいた。

 次に告白に使われそうなのは校舎裏だろう。どの教室からも見えづらく、さらにめったに人が来ないときたら、まさにうってつけの場所。校舎の裏はじめじめとした湿気まみれの土が暗い世界を作り上げていて、そのうえ後ろには山がある。よほどの物好きでないかぎり、校舎裏で過ごそうとは思わないだろう。そもそも、そんな暗いところで何をするんですか……と思ってしまうし。

 そう。つい昨日まで縁のない場所だと思っていた。屋上も、校舎裏もどんな場所なのか知らなかったし、知る必要もきっかけもないと思っていた。みんなタルトさんのせいだ。

 下駄箱に上履きを入れ、代わりに学校指定の革靴に履き替えて、足のつま先で地面を何回か蹴る。誰も居ない昇降口に、トン、トンと乾いた音が鳴る。かかとまですっぽり靴に入ったら、ぐるりと踵を返し、さっき降りてきた階段の下、少し段差になっているコンクリートに降り立って、鈍い銀色の扉を開けた。

 左手を見ると、バケツなどの掃除用具、それから木材などが雑然と並べられていた。そのずっと先に、もっさりとした黒いシルエットが見えた。

 何に緊張しているのかわからない。けれど絶え間なくわき出る唾をゆっくり飲みこんで、一歩ずつ彼女のほうへと向かった。やがて私の足音に気がついたのか、彼女はこちらに身体を向けた。それから、鈴を転がすような声で、一言発した。

「ラブレター」

 その声に思わず立ち止まる。

「あなたは私の友達でしょうか。それとも、ラブレターのお相手でしょうか」

「どっちでもないよ」

 タルトさんは手元の手帳らしきものをパタンと閉じて、私と目を合わせた。

「三國さんでしたか」

 タルトさんの左目がすこし眠そうにどんよりしている。

「もしかして、寝てない?」

「いえ」

「本当に?」

「いえ」

 タルトさんはきょとんとしている。目の下にクマもあるし、恐らくあまり眠れていないのだろう。申し訳なく思った。

「あの、あのさ」

 喉から出かかった声が、直前できゅっと止まるような感覚がした。それを他人に言ってしまっては、本当に私のラブレターではなくなってしまうよと、心が訴えているかのようだった。でも、そもそも執着することがおかしいんだ。だってあれは……

「あのラブレターは、私宛じゃなかった」

 やっとの思いで絞り出した一言が、胸のつっかえをすこし削ぎ落としてくれた。深く息を吸ってみると、土と木々の決していい匂いとは言えない香りで満たされた。

「はて」

 タルトさんは昨日と変わらず、ボケていた。

「いや、はてじゃなくてさ……」

 私にはタルトさんの考えが理解できない。言葉や表情から感情のしっぽすら出さない。逆に、今まで他人のしぐさから気持ちを知っていたと気付いたが、せめてもう少しはっきりとした声で喋ってくれるといいのに。でも彼女に言ったところで、”はて”とか言ってとぼけるに決まってる。ほんのすこし、タルトさんに苛立ちを覚えた。

「だからあれは”田中黄葉”って人に宛てたものだったの!」

 私は思わず語気を強めて、一気に言葉を吐き出した。

「誰が送ったのでしょうね」

「知らないよ」

 苛立ちを隠しきれずに、ぶっきらぼうに答える。どうしてタルトさんは他人事みたいに話すのだろうか。私のやるせない気持ちに共感したりしないのだろうか。自分宛としか思えない手紙が、ただ一言他人の名前が書いてあっただけで台無しになった気持ちを理解してくれないのだろうか。

 きっとタルトさんはわかってくれない。けれど、他に感情を吐き出すよりもまえに勝手に言葉が溢れてくる。満杯のコップに水を注ぐと、当然ながらだらだらと水が流れていって止まらない。ささくれた気持ちもまた、私からあふれて止まらなかった。

「タルトさんが思い出せばいいんだよ。それで全てわかるんだよ。話がぐちゃぐちゃになってるの、タルトさんのせいだってわかってる? ねえタルトさん、もう一度聞くよ。ラブレターはタルトさんが受け取ったんだよね?」

「タルトさんが手紙を持っていることから、自明のことであるように思いますね」

「ねえぇ」

 思わず言葉にならないうめき声が出て、体からすっかり力が抜けてしまった。思わず膝を折ると、ひんやりとした地面の温度が肌にちりりと触れてくる。これはあまり考えたくない話にはなってしまうものの、しかしやはり、彼女はちょっと、いやだいぶ大胆に、変人だ。私はどうしたらいいのかわからなくなって、膝を抱えながら彼女を見上げる。

「あのラブレター、本当に私が受け取ったんでしょうか」

 あいも変わらず、タルトさんは落ち着き払っている。

「意味わからないよ。知らんし……」

「では、私が書いたんでしょうか」

「いや、だから!」

 私が立ち上がって怒鳴ってもどこ吹く風、どこか遠くを見ながらタルトさんは続けた。

「これは一大事ですね。ぜひ調べてみないと」

 タルトさんはくるりとこちらに背を向けて、手に持っていた手帳に何かを書き込もうとしていた。

 私は首をぐるりと回した。タルトさんは言葉に困るけれど、あえて自分だけに聞こえる心の声ではっきりひっそり言うのであれば間違いなく頭が狂っている。言っていることが支離滅裂だ。もし仮に彼女が自分でラブレターを書いて私に持ってきたのだとしたら、いよいよ関わり合いになりたくないなと思った。

「伝えるのを忘れていました」

 私に背を向けていたタルトさんが振り向いた。寝癖に侵略されたようにぴょんぴょん飛び跳ねた彼女の髪の毛が動きに引っ張られ、止まって、ぴょいんと跳ねた。

「私の出席番号は二十五番だそうです」

「え、なんで今?」

「三國さんと喋っているうちに思い出したので、きっと三國さんに伝えなきゃいけない情報だと思いました」

「クラスは?」

「それでは」

 私の質問を無視して、タルトさんは私の横を通り過ぎていこうとする。気づいたときには、思わずタルトさんの手をぎゅっと掴んでいた。その勢いでタルトさんから手帳が滑り落ちて、ぼとりと重たい音を立てて地面に転がった。彼女はビクッと体を震わして、こちらを射抜くような目を向けてきた。私も、自分自身のとっさの行動にビックリしていた。タルトさんの手はひんやりと冷たかった。繋がった掌で、お互いの鼓動が胸の奥に響いているような感覚がした。

「タルトさん」

「なんでしょうか」

「誰なの?」

「三國さんにラブレターを渡した、タルトさんですが」

「でも繭ちゃん、そんな人知らないって言ってたよ!」

「繭ちゃん……? お友達でしょうか」

「それから、のあちゃんも!」

「その方も、お友達ですか?」

「のあちゃんも知らないの? 副会長だよ、生徒会の。高峰のあちゃん」

「タルトさんは、人物の記憶が少々苦手です」

 彼女はほとんど他人事のように話した。タルトさんの言ったことが本当だとしたら、あるいはラブレターの差出人がわからないことに説明がつくのかもしれない。だけど、本当に? と思う。ごまかしているんじゃないか。理由は……わからない。

 頭の中がめちゃくちゃだ。自分でも何が言いたいのかわからない。タルトさんに友達の話をしても、彼女は知り合いではないのだから、知らないのが自然だ。それにいまは、誰宛てのラブレターだったのかが知りたかったはずで、"タルトさんが何者なのか"はどうでもいい。タルトさんは手を振りほどこうとせずに、私を待っているようだった。

 私はタルトさんの腕をぐいっと引き寄せる。瞳が、私を映していた。違う。違うよ。おかしい。目の前の人物が何者なのかを、どうして些細なことと考えてしまうのだろう。普通に考えて、彼女についてわかればラブレターを渡した人もわかるかもしれない。

「ではそこに、タルトさんを加えていただけますか」

 ふと、タルトさんが呟いた。息がおでこにかかってくすぐったい。

「どういうこと?」

「タルトさんは、三國さんのお友達です」

 タルトさんはどうして、今さら友達になろうと言うのだろう。

「意味わかんないよ……友達もなにも、タルトさんのこと、何も知らないんだよ」

「タルトさんは、三國さんのお友達です。これ以上の情報が必要でしょうか。どういう経緯を持ったとしても、お互いがお友達だと思っていれば、お友達です」

「私は、友達とはぜんぶ理解し合えると思っているけど、タルトさんは違うよ。タルトさんの考えていること全然わからないし、そもそも表情ぜんぜん変わらないし、声も元気じゃないし、全然気持ちが伝わらないよ!」

 思わず、タルトさんを握る手に力が篭る。

「痛みは、理解できるものですか?」

「あ、ごめん」

 ぱっと手放すと、タルトさんの白い肌に赤い跡がついていた。

「これでは足りませんか」

 タルトさんは見せつけるように、腕を私の目の前に突き出した。

「ごめん、そんなつもりじゃ」

「痛みを理解し合えたのであれば、きっとお友達ですね」

 タルトさんは落ちた手帳を拾って、数回表面を払ってから、そっとカバンにしまい込んだ。さっきまでと全く変わらない彼女には、これ以上何も言えそうになかった。

「明日のタルトさんは人が片付いたころ、一階の柱になっています。ぜひ見つけてください」

 彼女の声が、私の鼓膜を淡くなぞった。

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