きらり

ゆらり

きらり


 群青色の海、真上に光る月の煌めきの下で、この物語の主人公である勇作は、その少女に激しく恋に落ちた。


 少女はまるで天使のようだった。幼く無邪気で清らかな少女が、こんなにも心を掴むものかと勇作は驚嘆した。幾度となく恋を経験してきたつもりだったが、今度のそれはそれまでとは打って変わり、憧憬の情が支配していた。勇作は、恋とは相手を自分のものにしたいという支配欲と同義だと信じきっていたが、そのような欲心とは無縁の感情も恋であると、初めて断言できた。


 勇作は器用な人間だった。幼い頃から勉強も運動も卒なくこなし、人間関係においても要領が良かった。有名私大に入学し、就職活動もすんなりと終え、希望していたホワイト企業から内定が出た。単位を取り終わり、卒論を提出して卒業。就職後はそれなりに働きそれなりに遊び、順風満帆だった。女に飽きた頃、頃合いを見て彼女と結婚しよう。自分は「勝ち」のレールに乗っている。そう信じ切った矢先だった。


 父親の事業が失敗したことが原因で両親が離婚。精神的に追い込まれた父親はうつ病に罹り、入社2年目になったばかりの勇作に助けを求めた。

 また、同時期に学生時代から付き合っていた彼女の浮気が発覚した。問い詰めたところ、「あなたのお父さんが借金を抱えていて、将来が不安だったの」と勇作に責任転嫁し、別れを告げられた。


 そしてひと月経った5月の半ば、勇作は過呼吸で倒れた。その後自宅のベッドから動くことができず、間も無く休職に至る。


 限界だった。勇作は、自分は精神が強く、安定した人間だと信じていた。いわゆる「メンヘラ」を馬鹿にしていた。しかし自分の恵まれた精神力は、勇作自身の力ではなく、勇作が置かれた環境の力だったのだと初めて気がついた。


 それから、勇作はただひたすら眠りについた。朝日と夕日にも気がつかず、風呂にも入らない。脱ぎ捨てられたワイシャツ。無秩序に散乱した菓子パンのゴミ屑。一人暮らしの男の部屋とはいえど、目も当てられない散らかり様だ。いくら寝ても寝たらず、起きている時間も眠気に耐えることが出来ない。食事を摂らないので頬がげっそりした。元々少なかった性欲は皆無になった。


 そんなある日、勇作は夢を見た。夜の浜辺だ。砂浜に裸足で立っており、目の前には涼しく群青色の海が広がっている。

 ここはーー。

 目の前に広がる青の世界があまりにも美しいので、勇作は息を飲んだ。


 「ーーの?」

 その儚く消えてしまいそうな声に、勇作は思わずはっとして振り向いた。

 華奢で小柄な体型、柔らかそうな天然パーマ、そして白い肌。可愛らしい少女が勇作をじっと見つめている。

 「何してるの?」

 少女は、勇作の動揺など気にしないかのように繰り返した。

 「分からない。ただ眺めていただけ」

 勇作は混乱していながらも、淡々と口から言葉が流れ出ることに驚いた。

 「綺麗だよね、海。砂浜はさらさらとしていて気持ちが良いし。何度来ても飽きない。」

 「君はどこから来たの?」

 「そこの病院。抜け出してきちゃった。病院からでも海は見えるけど、匂いとか、触感とか、全身を使って感じたいの。」

 勇作は何も言えなかった。声を出すとその少女が消えてしまうのではないかと思ったからだ。

 「私もうあまり長くないみたい。だったらこの大好きな海を全力で感じたい。」

 少女はそう言って悲しげに笑った。勇作は、少女は天使なのではないかと思った。それくらい彼女は可憐で、汚れのない少女だった。


 そして霧の中に少女が消えた瞬間、勇作ははっと目が覚めた。目の前には、脱ぎ捨てられたワイシャツや菓子パンのゴミ屑が散乱している。


 現実は変わらず、部屋には憂鬱な雰囲気が立ち込めている。しかし、勇作は、あのきらっとした瞬間を心から拭い切れないでいた。


 恋だった。あの少女を美しいと感じたことは勇作にとって認めざるを得ない事実だった。現実で歩んできたレールから外れ、自分が簡単に壊れてしまおうとも、きらっとした瞬間を美しいと感じてしまう。どんな時でも人は美しさに抗えないことに勇作は哀しさを感じた。


 鬱々とした部屋の中で、勇作はただ一人、声を押し殺すことなくわんわんと泣き続けた。

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きらり ゆらり @yurari_shousetsu

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