そこはかとないエピローグ

 腕を包帯で巻き、肩で吊っている俺は、いま喫茶店にいる。

 明るい陽射しが入り込む店であり、また治療を受けた直後なので消毒液の匂いがまだ漂う。処方されたのは沈痛、抗炎症、解熱などの薬だ。


 テーブル席の隣に座っているのは雨ケ崎で、私服姿の彼女はテレビを見上げていた。そこには梅雨明け宣言をするアナウンサーの姿があり、今日から気温がグングン上がるだろうと告げていた。

 熱中症には気をつけてと言うのは、もはや毎年恒例の風物詩だろう。


 雨が嫌いな雨ケ崎は、しかし梅雨明けしたというのに仏頂面だ。


「今年も海岸に人がたくさん来てしまうわ。あそこはイザベラの散歩コースだったのに」

「そう言うなよ。観光客が俺たちの街にお金を落としてくれるんだし。あんまり言うと向こうの店員さんに睨まれるぞ」


 そう言うと、俺が雨ケ崎に睨まれてしまった。眉間に皺を刻んで睨みつける表情は美少女らしからぬと思うのだが、見慣れている俺としてはこいつらしいとしか思わない。だって雨ケ崎だもん。


 その不機嫌そうな顔は、窓から注ぎ込む風に気づいてか反対側に逸らされる。カーテンの向こうには輝くほど鮮やかな水平線があり、見とれているらしく顔がこちらになかなか戻ってこない。


 梅雨明けとあって夏の服を選んだ彼女は、半袖から真っ白い肌を覗かせている。まぶしいほどだと思えるし、もうひとつ、わずかに雨ケ崎の甘い香りが届くことに気づく。

 

 不意にくりんとした大きな瞳をこちらに向けられて、少しだけ鼓動が早まった。


「でも、この時期の海は綺麗ね」

「ああ、夏だしな。おっと、来たみたいだ」


 チリンと鳴った呼び鈴に気づくと、雨ケ崎は名残惜しそうにもう一度だけ海を眺めてから背筋を正す。


 それからこちらにやって来た女性――雨ケ崎夜子さんに向けて、俺たちは視線を向けた。


「……どういうことかしら。こんな場所に私を呼び出して」


 ぬめつけるように俺、娘、そして向かいの空いている席を彼女は見る。まつげが長くて肌が真っ白なのはきっと遺伝だろう。

 雨ケ崎の母親の席には、すでにアイスティーを置いてある。氷が溶けかけており、水滴がガラスに浮いていた。


 答えようとしたが、その前に雨ケ崎に太ももを触れられる。しばらく黙って欲しいという合図だろうか。


「ここにお母様をお呼びした理由、もうお気づきではありませんか?」

「……嫌な子に育ったわね。人前に連れ出して、親を黙らせたいなんて。いったいだれに似たのかしら」


 ぶつぶつと文句を言いながら席に腰かける。

 こうして正面から向き合うのは何年ぶりだろう。まともに言い合えない相手だからこそ、こうしてテーブルを挟み、人前で話をしたかった。

 嫌な目でぬめつけながら、長身な彼女は赤い唇を開く。


「あなた、ユウリ君との交際を取りやめたんですって? 聞いてあげるから、どういうつもりなのか言ってごらんなさい」


 彼女の言葉には圧力がある。周囲の者を従わせる力があり、相対する者は自然と頭を垂れてしまう。

 子供のころからずっと従わせられてきた相手だ。きっと俺の助けもいるだろう。そう思ってこの場に同席したのだが、テーブルの下、母親に見えない場所で指のあいだにやわらかいものがすべりこむ。雨ケ崎の指だ。


 もしかしたらほんの少し勇気が出たのかもしれない、ぎゅっとにぎってからようやく雨ケ崎は口を開いたんだ。


「以前の暮らしに戻りたいと言うお母様の願い、私にも良く分かります」

「そう、それで?」


 不機嫌さを隠しもせず、続きを話せと態度で示してくる。

 わずかに雨ケ崎の手には汗が浮き出て……ぎゅっと俺も握り返す。汗も不安も引っ込むように。呼吸を繰り返して、ようやく雨ケ崎は顔を上げた。


「私も以前の暮らしに戻りたいと思いました。群青は私の大事な幼馴染です。決して手放しません」


 きっぱりとした言い方に、夜子さんだけでなく俺も目を見張る。

 ほっそりとした肩をしているのに強い光を瞳に宿しており、決して目を逸らしてなるものかという意思を感じたんだ。


 母親相手にこれほどはっきりと主張をしたのを俺は初めて見た。いや、夜子さんの顔色を見るに、生まれてから初めての行為かもしれない。


 母親という呪縛から抜け出すまでたっぷり十年かかり、そして雨ケ崎は母から巣立つようにガタンと席を立つ。


「ユウリ君との交際は白紙に戻します。それだけを伝えたくてお呼びいたしました」


 頭を下げることなく彼女は再び強い口調でそう言った。

 あっけに取られたのは俺だ。手をまだ握り合ったまま引き寄せられて、慌ててつんのめるようにして席を離れる。


 去り際に振り返ると、夜子さんはまだなにも言えない様子だった。




 ちりんと呼び鈴を鳴らして外に出ると、やはり目の覚めるような快晴だ。

 前を歩く雨ケ崎は、先ほどのやりとりで興奮したのか頬を赤くさせて振り返る。


「ついに言ってやったわ。ああ、せいせいした」


 その笑顔は夏にぴったりの輝かしいもので、まぶしさに目を細めながら俺は頷く。


 言うほど簡単なことなんかじゃない。人格どころか人生まで縛りつけてきた相手だ。しかしトラウマごと跳ねのける十分なエネルギーを雨ケ崎は宿しており、これまでとまったく違う笑顔だなと俺は思ったんだ。


 しかし突っ込むべきところで突っ込まないと、どうにも俺はスッキリしない。

 無言で片手を持ち上げると、雨ケ崎は不思議そうな顔をする。しかしその瞳が手元に移ると、まだ繋がったままの互いの手に気づき、ひと呼吸遅れてから悲鳴を上げるような表情に変わった。


「わっ!…………これ、お母様に見られた、わよね?」


 唇を引き結び、頬を赤くさせて見上げる雨ケ崎は可愛らしい。いじける子供のようだったし、そんな表情を見たら勝手に俺の顔までゆるむさ。


「まあ、大丈夫だろ。別に手をつないだくらいで怒られやしないだろうし。それよりもユウリを待たせているから急ごうぜ」

「そうだったわ。イザベラを預けているし急ぎましょう」


 とはいえ海岸は目と鼻の先だ。

 横断歩道を渡り、海水浴場に来た観光客たちを避けて進んでいくと、ずっと向こうに黒塗りのリムジンが見える。


 日陰のガードレールにユウリが座り、東堂とグゼンさんがなにやら会話をしている。足元に寝そべるのはイザベラで、地面で伸びをしてから俺たちに気づく。


 最初に歩きだしたのはイザベラで、それを追うようにユウリも歩く。

 イザベラは優しくてとても頭のいい子だ。決して力任せにリードを引っ張らず、少し歩調を落としてからユウリの隣にピタリとつく。


「君、頭がいいね。訓練でも受けたのかな」


 そんな女の子みたいな声も聞こえてくる。

 イザベラから顔を戻すと、陽を浴びた彼もまたにっこりと微笑んだ。


「やあ、うまくいった?」

「そうね、悪くはなかったわ。きっと文句を言われることはないでしょうね」


 やるじゃん、という意味だろうか。ユウリが腕をつつくと雨ケ崎はすごく邪魔そうに御曹司の指を手で払っていた。うーん、この二人はいまだに仲がいいのか悪いのか分からない。


 しかしそのとき、俺はふと疑問を思い出した。それは何日も悩み続けてついに解けなかった疑問であり、しかし俺だけ答えをまだ教えられていないことだ。


「そういえば、なんで二人は交際したんだ? 雨ケ崎、確か答えを教えてくれる約束だったよな」


 うっ、と雨ケ崎は口ごもる。

 その変化にとまどっていると、すぐ隣でユウリがふんわりと微笑んできた。


「君への当てつけ、だって」

「…………はあ?」

「脈がないからフリでもいいから交際して欲しいって言われたんだ。群青君が嫉妬したら変化があるかもって。ならボクも協力しようかなあと思ったんだ」


 いや、そんなことで交際したのかよ! どう考えたって嘘だろうし、ユウリの人の好さにつけ込んだだけだと思うぞ。

 しらっとした目で見ていると、ユウリは笑みを深めてポッケからスマホを取り出す。


「でも面白かったよ。ボクらを覗いているときの群青君の顔」

「はあっ!?」


 そこに映し出された悶々とした表情の俺を見て、思わず声が裏返る。いや、待てよ。よくよく考えると、校舎やゲームセンターでそんな光景を俺は見かけなかったか?


 白い歯を見せてお腹を抱える雨ケ崎と、スマホを手にしたユウリ。まさかあのとき、この俺を見て笑っていたっていうのか!?

 もしかしたら熱中症かもしれない。眩暈がしてアスファルトに崩れ落ちたし、唐突に死にたいと思った。


 さて、不覚にも大ダメージを負うことになったが、その対象はどうやら俺だけじゃなかったらしい。

 海に似た色の瞳が今度は雨ケ崎に向けられる。その瞳には楽しいものを見るような感情があったし、向けられた先の雨ケ崎は肩をわななかせていた。


「当てつけの件はすぐに嘘だと分かったよ。でも、もしかしたら本当のことになるかもしれないって思った。嫉妬した群青君の顔を見て、雨ケ崎さんがニマニマしたりね」


 ぼんっと今度は雨ケ崎の顔が真っ赤に染まる。唇を真横に引き結び、眉毛を逆立てる表情は俺も始めて見るものだ。

 なにか文句を言いかけて口を開けたり閉じたりを繰り返し、やがてこう口にした。


「イザベラっ! 行くわよっ!」


 たっと駆けよるイザベラと、乱暴にリードを奪い取る雨ケ崎。

 真夏にぴったりの服を着た雨ケ崎は、そうして俺たちに背中を見せてどこかに行ってしまった。


 なんともまあ、オズガルド家を揺るがす事件かと思いきや、答えを知ってみればとても小さなことだったとは。


 まだ立ち上がれない俺を見て、ユウリはすごく楽しそうにしていた。なるほどね、こいつはこいつでネタ晴らしする日を楽しみにしていたわけか。


「まったく、食えないお坊ちゃんだ」

「え、それは群青君に言われたくないな。このことをお母様に話したらものすごく乗り気だったんだよ。ねえ、どこかでお母様と仲良くなったりした?」


 いや、ぜんぜん知らんぞ。

 そう答えながら伸ばされたユウリの手をにぎって立ち上がる。


 真夏の海には大きな入道雲が浮いており、なんだか今年はすごく楽しい季節になりそうだなと思いながら俺は笑い返した。



     §



 夏が好きかと問われると、俺は必ず嫌いだと答えている。

 暑いし蒸すし、急に豪雨になったりする。天気がころころ変わるし、どこも観光客で混むし、夏は農家のアルバイトもあまりない。


 だから嫌いなんだけど、その代わり蚊取り線香の匂いとか、花火大会や縁日が来るのを待つのは割と好きだ。やがて訪れる夏休みについては言うまでもない。


 しかし蚊取り線香に火をつけ始めると、困ったことに必ず文句を言う奴がいる。


「嫌よ、窓を開けっぱなしにするなんて。熱中症で倒れたらどうしてくれるの?」

「うるさいなぁ。今日はそこまで熱帯夜じゃないらしいし、別にいいだろう。ここは俺の部屋なんだし、風物詩くらいは楽しませてくれよ」


 振り返ると棒アイスを齧る幼馴染がおり、すごく嫌そうな顔で近くの扇風機に手を伸ばしていた。


 肩で吊っただけの寝巻を気に入ったらしいが、本人だけは己の色気に気づいていない。それが異性にとっては頭痛の種なのだが、あえて口にしたいとは思わない。なんとなく負けた気がするからな。


 しかし風鈴の音が鳴り、蚊取り線香が漂い始めると雨ケ崎の文句は引っ込む。今夜は風があり、また扇風機もある。まずまず我慢できる気候だと気づいたのだろう。クッションに腰かけて棒アイスを齧り終えるや、読みかけの漫画をまた手にしていた。


「あのさぁ、いまさらだけどさっきのアイスって俺が買っておいたやつじゃない?」

「馬鹿ね。いまごろ気づいたの?」


 しれっと言いやがったよ、このアマぁ!

 まったくとんでもない幼馴染だ。人のものを当たり前のように奪うし、扇風機だって独占する。首振り機能のボタンに手を伸ばしたら、ペチンとはたいてくるんだぞ。ここは俺の部屋だっていうのに。


 あーあ、と嘆き悲しみながら床に座り込む。

 あいにくと面白いテレビ番組をやっていない。ゲームをしたくとも雨ケ崎は漫画から戻ってくる気配もない。


 退屈で仕方なくスマホに手を伸ばすと、大した目的もなくネットを眺め始める。そして画面に映し出された動画を大して期待せずにタッチした。


 流れるのは「幼馴染のお約束テンプレート」なる動画であり、なんだこりゃと俺は眉をひそめる。


 ユーチューバーだかブイチューバーだか分からない解説者が語り始めると、なぜか雨ケ崎はぴくんと顔を上げ、そして振り返った。


 熱帯夜に比べたら過ごしやすい夜。

 夏休みを目前に控えた学生たちの浮足立つ季節。

 ただよう甘い香りは雨ケ崎がそっと背後から近づいているのだろうか。


 やがて二人の「分かるーー」という共感の声が俺たちの部屋に響いた。




―― 幼馴染のお約束「雨の章」 END ――

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おさななじみのおやくそく。 まきしま鈴木@アニメ化決定 @maki4mas

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