第38話 俺の大事な幼馴染

 ずっとずっと昔、雨ケ崎は貧相な身体をしていた。

 顔色も悪くて、自分の家の玄関の前で立ち尽くす子だった。


 そんな様子を見て「おーい」と俺は声をかけた。小さい頃の俺はどうにも見過ごせなくて、気がついたら声をかけていたんだ。


 くっと顎を上げたその子はとても瞳が大きくて、夜空みたいだと思った記憶がある。マセた子供だなと我ながら思うけど、当時はそう思ったのだから仕方ない。


 その子は俺を無視した。

 何度も話しかけたけど、いつも無視された。


 ずっと無表情だったから俺は半分意地になっていたんだと思う。あまりにも無視されるから隣にドスンと座って、大して意味のないことを何度も話しかけたんだ。

 しかし雨ケ崎は「ウザい」という顔もせず、ただ黙って聞いていた。


「近所に一緒に住んでる年の近い奴のことを幼馴染っていうんだって。一緒に遊んだり仲良くしたり、そういうのって憧れない?」


 そう言うと、ぴくんと反応して雨ケ崎は顔を上げた。

 やっぱり瞳が大きなと思っていると、何度か深呼吸をしてから雨ケ崎は唇を開いた。


「おさななじみ?」


 舌ったらずなその声に俺はにっこりと笑う。初めて声を聞いたから、たぶん嬉しかったんだ。


「うん、幼馴染。お前の部屋、俺の部屋のすぐ前だろ? 窓越しに話しかけたり、どっちかの家で遊んだり、起こしてあげたりさ……そういうの俺は楽しみかな」


 言葉の意味がよく分からなかったのかもしれない。雨ケ崎は考え込む様子で、だけどなかなか返事をしてくれない。

 その子に「見て」と言い、指先を向ける。一緒に二階を見上げると俺の部屋の窓があり、そこに俺たちをじっと見下ろす黄金色の犬がいた。瞳を丸くする雨ケ崎を見て、なぜかちょっとだけ嬉しくなったことを思い出す。


「イザベラだ。頭が良くて優しくて、雨ケ崎もすぐ友達になると思う」

「……かむ?」

「まさか、噛まないよ。その代わり、たくさんじゃれついてくるかな」


 ふうん、と二階を見上げたまま雨ケ崎は返事をする。

 その子は窓に向かって手を小さく振り、お返しとばかりにイザベラは尻尾を振る。微笑ましいやらなんやらで「じゃあ、これから挨拶する?」と問いかけた。


 それからじゃないかな。一緒に遊ぶようになったのは。

 

 そして、どうしていつも外にいるのかも分かった。


 聞き取れないほどわめく大人の声は、すごくおっかない。ビクッと身がすくんで、なにも考えられなくなって、石みたいに身体が硬くなる。そういう声を俺は何度も聞いた。


 もうひとつ分かったのは、雨ケ崎は決して俺を嫌っていたわけじゃないということだ。当たり散らす母親から身を守るため、石のように硬くなっていた。

 なにも聞かないようにして嵐を乗り越えていたんだ。


 その日は遊ぼうと声をかけたかったのに、雨ケ崎の家には嵐が来ているみたいだった。ただただ怖くて、呼び鈴も押せずに俺は逃げた。


 部屋に戻って、座り込んで、それでもまだ窓の向こうから怒鳴り声がする。早く終われ、早く終われ、と俺は思うことしかできなくて、なぜかそれがすごく嫌だった。雨ケ崎がずっと声も出さずに泣いているのが分かっていたからだ。

 玄関の前に突っ立って、手をぎゅっとにぎって、うつむいたまま動かない姿が頭から離れない。


 横になって、ただ呼吸とまばたきだけしかせずに過ごし、そしてこう思う。

 あまり良くないな、と。


 考えるまでもなく、あれは嵐じゃない。人だ。どこかに飛んで消えることはないし、良い方向に進む気配がまるでない。じゃあどうすればいいかというと、割と簡単なことなのでは、とそのときの俺は思った。


 むくっと起き上がり、その足で階下に向かい、また靴を履きなおす。

 向かう先はまだ母親のわめき声が響く家であり、しかし構わずに俺はチャイムを押す。二度、三度と鳴らして、ようやくこちらに近づいてくる足音がした。


 おっかなかったよ。鬼のような形相をしていたし、食い殺されるんじゃないかと思った。


「うわ、おっかねーおばさん。雨ケ崎、遊びに行こうぜ」


 ひくりと夜子さんの頬が震える。

 あえて火に油をそそぐようなことを俺は言い、母親を無視して雨ケ崎に話しかける。その子は隅っこのほうで座り込んでいて……なんでかな、俺まで泣きそうになった。


「あなたね、私をだれだと思って……!」

「え? 知らないけど。雨ケ崎、イザベラの散歩に行く時間なんだ。海まで一緒に行こうぜ」


 そう言うと、ようやく女の子の瞳がこちらを向いた。暗いけど朦朧としている様子だったし、心配でたまらなくて「雨ケ崎」と尚も話しかける。


 懸命に手を伸ばして、こっちに来てくれと俺は願った。

 この手を取ってくれたら俺はずっとお前を守れる。頼む。助けてくれと言ってくれ。


 そう思っていたとき、バンと頬を叩かれた。慌てて手を引っ込めたようだけど、向こうが引いたのならこちらは押すべきだ。

 大人ってすぐに怒鳴るしおっかないけどさ、でも俺は一歩も引かないよ。男子たるもの怯えの顔を見せたらいけないんだってさ。うちのばあちゃんが言ってたんだ。


「雨ケ崎、行こう」


 はっきりとそう口にした。言葉にはしないけど、絶対に助けるという意思を込めて。鼻血が垂れているのはご愛敬だ。


 でも痛みなんてぜんぜん気にしなかったな。ぎゅっと瞳をつぶった女の子が首根っこに抱きついてくれたんだし。

 あったかかった。雨ケ崎は温かくて、心臓をトクトクと小鳥のように鳴らしていた。すがりついてきて、すごく小さな声で「ぐんじょう」と舌ったらずな声で俺を呼んでくれた。


「あ、あなたね、私の娘になにを……!」

「だから犬の散歩だって。そんなのも分かんないの?」


 もっと文句を言いたかったけど、捕まえようと手を伸ばされたので退散だ。まだ靴を履いていない雨ケ崎を連れて、さっさとうちの敷地に入る。

 夜子さんも途中まで追ってきたみたいだけど、諦めたらしく足を緩めていた。


 髪をほつれさせた女性と睨み合う。

 まっこうからだ。怖くても絶対に目を逸らさない。ばあちゃんにもそう教わっていたし、こうすべきだと思ったからな。


「君、すこし頭がおかしいようね」


 そう言い残して裸足のまま彼女は帰って行った。

 勝ったな、とひそかに満足感を覚えながら、まだ怯えている様子の雨ケ崎に振り返る。


「雨ケ崎、甘いのは好きか?」


 この状況だ。聞かれた言葉の意味も分からず、たくさんの涙を彼女は流していた。声も出さずに泣く姿には胸を締めつけられるけど、なるべくいつも通りの顔で話しかける。


「あ、膝を擦りむいてら。おやつよりも先にこっちだなぁ。ちょっとだけしみるけど、泣くんじゃないぞ。もし我慢できたらご褒美をあげてもいい」

「ごほーび?」

「うん、泣いているやつも、思わずにっこりしちゃうご褒美だ」


 さて、このときに言ったご褒美はなんだったかな。もう十年も前のできごとだ。とっくに忘れてしまった。


 子供のころの雨ケ崎はたくさんの涙を流す子で、夜中に飛び起きたり、ぽろぽろ泣きだす子だった。怖がりで、臆病で、それでもゲームや漫画に興味を持ち始めて一緒に遊んでくれるようになった。



 それからだ。もっと強くなりたいと思ったのは。

 ずっとずっと前、もう十年も前のできごとだ。たぶん雨ケ崎はほとんど忘れているんじゃないかなぁ。



 ぽろぽろと涙が降ってくる。

 玉のようにこぼれ落ち、そして俺の頬に触れてくる。


 呆けた俺が目を開けると、そこにはたくさんの涙を流す雨ケ崎がいた。

 ただ俺を抱きすくめて涙をたくさん落としているものだから、いったいなにが……と混乱したよ。だって硬いアスファルトに寝ていたんだしさ。


 ぐすんっと雨ケ崎は泣き、目を開いた俺に安心したのか抱きついてきた。それでも喉元にたくさんの涙が流れ落ちており、温かいなと俺は思う。


 抱きつかれたまま、雨ケ崎の体温を感じながら俺は周囲に目をやる。

 あっちでブッ倒れているのは野崎だろう。へっ、満身創痍の下級生に負けてやんの。だせえ。


 耳に聞こえるのは雨ケ崎の嗚咽、そして周囲でポツポツと響く雨音くらいだ。たくさんの湿度に包まれているが、不思議とそう不快じゃない。むしろ気持ちいいなと思うくらいだ。

 腕が痺れており動かず、仕方なく反対側の腕を伸ばす。そして黒髪の頭をぽんと叩いた。


「ごめん。ちょっとやり過ぎた」

「…………」


 雨ケ崎の顔がすぐ近くにあり、またも抱きついてくるとやわらかいふっくらとした唇が当たる。意図的でないにしろ、あと数センチでキスに変わるような位置だ。そのことに彼女は気づいているだろうか。


「雨が気持ちいいな」

「雨は嫌い。嫌な日を思い出すから。母の機嫌も悪くなる」

「そっか。俺はそんなに嫌いじゃないよ。雨ケ崎がよく遊びにきてくれるしさ。お前、俺のことそんなに嫌いじゃないんだっけ?」

「馬鹿ね……」


 あと数センチでキスになる距離に唇を当てながら、はらはらと雨ケ崎は涙を流す。馬鹿、馬鹿、と呟いて、そして俺の好きな美しい顔を視界一杯に見せてくれた。


「帰ったらゲームをしましょう、誠一郎」

「だな。でも妨害プレイばっかりしたら友達に嫌われちゃうんだぞ」

「馬鹿ね。誠一郎は私を嫌ったりなんてしないわ」


 だけど、ちょっと待て。

 いまいい感じで言ったけど、もしかして片腕を怪我しているからゲームに誘ったんじゃないだろうな。


 そんな突っ込みをすると、雨ケ崎は「馬鹿ね」と再び言い、これまでに一度も見たこともないほど美しい顔で笑う。不覚にも俺はそんな彼女に見とれてしまった。

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