6.2 せめて安らかな眠りを

 当代最強と呼ばれた導師が、一人、夜の空をく。


 今の彼女の顔に浮かぶのは、感情らしい感情がするりと抜け落ちた、能面を思わせる虚無。親しい人や恋人に見せる、穏やかで優しい微笑みなど見る影もない。

 その中で、双眸にだけは、強い決意の光が宿っている。


 魔王との最初の遭遇そうぐう

 一本目の杖は、魔王の展開する【防壁】を砕いて、その役目を終えた。

 二本目と引き換えに放った【光球】で、ようやく魔王の膝をつかせた。

 三本目の杖に持ち替え、好機を逃すまいとダメ押しで発現させた魔法は、魔王に届くことすらなかった。焦りが彼女の力加減をわずかに狂わせたのだ。

 砕けたコアからほとばしった大量の魔力。制御を失った力の行き先は、魔王ではなく、術者だった。

 直後、自分の魔力に身を焼かれた導師が見たものは、ゆっくり流れる周りの風景。そして、今まさにとどめを刺さんとする魔王と、その先で手招きする死の姿だった。

 半ば生きることを諦め、愛しい人に別れを告げかけたところで、彼女の意識は視界を横切る大きな影によって現実に引き戻される。傷と痛みにすべてを投げ出しかけたキャロルの盾となったは、雨あられと降り注ぐ魔王の攻撃を一身に受け続けながらも、あらん限りの速さで戦場から離れて街へと帰還したのだ。

 限界はそこまでだった。

 飛竜ワイバーンの豊かな生命力をもってしても、魔王の波状攻撃を受け止めるというのは、さすがに無茶が過ぎた。傷ついた相棒キャロルを守り抜き、バーニィのもとに送り届けたは、どこか満足そうに目を閉じ、永遠の旅路についたのである。


 今、オスカーは姿を変え、彼女とともにある。

 懐の小瓶に収められた

 胸元から下げられ、紅い光を放つ

 そして、しっかり握りしめられた、


 ――全てをして敵を討つ。


 キャロルの意識は、いかにして魔王――オスカーの仇を討つかの一点に向けられていた。一度交戦して相手の魔法を見ているし、できる限りの準備もしてきた。体調が万全かといえば怪しいけれど、それは向こうも同じことだろう。

 何より、今の彼女には杖がある。オスカーが遺し、バーニィが作り上げた逸品は、その全力にしっかり応えてくれると確信している。


「……捉えた!」


 夜の空を飛び続けていたキャロルは、覚えのある気配を察知してさらに加速する。

 そこに待ち受けるのは、見まごうことのない、魔王。

 仰々しい呼び名にそぐわない小柄で華奢な体躯の上から、裾や袖の擦り切れた黒い導師服ローブと古ぼけた赤いマントを羽織う、ヒトならざる存在だ。目深にかぶったフードと、そこから覗く仮面によって表情は覆い隠されている。

 その裏では、自分に傷を負わせた存在に怒りを向けているのか、それとも――


「またお会いしましたね、魔王さん」


 キャロルのように、不倶戴天の敵を討つチャンスに巡り会えた興奮がにじみ出ているのかは、誰にもわからない。

 フードをはね上げて杖を構えた淑女の姿を認めた魔王は、最初こそ逃げに転じようとした。不完全ながらも自分に一撃を叩き込み、痛み分けに持ち込んだ導師を相手にするのは得策ではないと考えたのかもしれない。

 だが、キャロルはそれを許さない。魔王がいかに速く飛ぼうとも、彼女はそれに先んじて立ちはだかり、行く手を遮る。


「ご機嫌はいかがですか?」


 白々しさ丸出しの挨拶をしても、返事はない。そもそも言葉が通じているか否かも定かではないのだが、そんな疑問など一切頭にないかのように、彼女は穏やかな調子でまくしたてる。


「どこかにお急ぎなのですか? 夜も長いですし、少しお付き合いいただいてもいいじゃありませんか? 互いに知らない仲でもありませんし」


 友人をお茶に誘うように麗句を並べるキャロルだが、その眼だけは細かく動き、魔王の一挙一動を油断なく観察している。


「それとも――あなたほど強い魔法使いでも、私が怖いのかしら? ならば逃げたくなる気持ちもわからないでもありませんが……」


 そして、感情の高ぶりは、穏やかな言葉を挑発の文句に変える。


「私は絶対に、あなたを諦めませんわ。地獄の果てまで追い詰めて、必ず葬り去ってやる」


 杖を向け、高らかに宣言する彼女の本気を察知したのか、魔王は覚悟を決めたように足を止めた。

 直後、魔王の全身から禍々しい魔力と、明確な殺意が滲み出る。それらを真っ向から受けたキャロルの皮膚が緊張感で粟立つが、恐怖に顔を背けたりはしない。


「そうです、そうこなくっちゃ。こちらもやりがいがありませんもの」


 風が魔王を中心に渦巻き、厚さを一層増した雲からは雷鳴が響き始める。

 だが、顔を叩く雪も、腹の底を震わす轟音も、今のキャロルの決意を揺らがせることはない。背筋を伸ばし、まばたきを忘れたかのような両のまなこでしっかりと敵を見据えると、利き手で杖を握り直す。

 相棒オスカーの仇を討つ、最大にして最後のチャンス。

 この機を逃してなるものかと、精神を集中させるべく息をついた彼女は、工房を発って初めて、ふっと微笑んでみせた。


 ――オスカーが一緒にいてくれるなら、何も怖くない。


 キャロルは懐から小瓶を引っ張り出し、片手で器用にフタを開けると天高く放り投げる。縦横に回転する瓶の口から撒き散らされた小さな粒は、吹き荒れる雪に混じってすぐに見分けがつかなくなった。

 キャロルの余裕たっぷりの振る舞いに神経を逆撫でされたのか、魔王は渾身の一発をぶつけにかかった。死以外に何も想起しようのない、すべてを飲み込んで押し流してしまいそうな圧倒的な魔力が、稲光に姿を変えてただ一点――キャロルの心臓めがけて殺到する。痛みさえ感じる暇も与えず、ただ相手を滅ぼすことだけに特化したその魔法は、身体からだだけでなく、精神こころまで叩き潰さんとする意思をそのまま具現化したもの。決して狙いを外すことはない。


 ――外れることなどありえないはずだった。


 魔王の手先から放たれた稲妻は、討ち滅ぼすべき対象キャロルを目前にして、あろうことかし、意図せぬ方向へ

 なにかの間違いだ、と思ったのかもしれない。魔王は立て続けに【雷光】を放つが、その全てが明後日の方向へ飛んでゆくのを目の当たりにし、仮面の下から焦り、戸惑い、狼狽の気配を漂わせはじめた。

 一方、あいたいする導師は、残りの小瓶の中身――オスカーの骨から削り出し、呪文を彫り込んだ使い捨てのを辺りに撒き散らした。全て合わせたその数一〇二四の小片は、魔王が放った【雷光】全てを吸い寄せ、その光を冷たい紫から温かい金色こんじきへと変えてゆく。

 自身は変化せず、そこに供給された魔力を変質させる、触媒の名に違わぬ作用。目論見通りの展開に、キャロルは満足そうに頷く。


「あなたの魔法は強力ですから、そのまま利用させてもらいます」


 相手の魔法を変質させて取りこんだところに自分の魔力を上乗せし、攻防一体の一発カウンターを繰り出す。それが、キャロルのたどり着いた答えだった。黄金の魔力は、キャロルが両手で構え直した杖の先端、赤い魔石へと収束し吸い込まれてゆく。


「痛っ……!」


 だが、キャロルも余裕綽々しゃくしゃくとはいかない。流れ込んでくる予想以上の量の魔力がもたらす反動と衝撃、ただならぬ負荷にきしみだす杖を取り落とすまいと必死だ。


「お願い、オスカー、あとちょっとだけ我慢して!」


 もう一つの杖のコア・オスカーの琴線に送り込んだ自分の魔力と、魔石に溜め込んだ魔力を融合させて制御下に置く。一回きりのぶっつけ本番という重圧プレッシャーの上、桁違いの魔力量で暴れる杖をなだめすかしながら、普段やる必要のない魔力の操作を完璧にこなさなければならない。荒業は体と精神を加速度的に消耗させ、空気も凍りつきそうな寒さの只中ただなかで歯を食いしばる彼女の額に汗をにじませる。


「私も頑張るから!」


 だが、キャロルは決して屈さない。

 相棒オスカーの魂を宿した杖の性能ポテンシャルを、彼女なら余すことなく使い切れるはず。そう信じて背を押してくれた恋人バーニィの想いに報いることができなくて、何が当代最高の導師か。

 亡き後も自分を支えるオスカーと、遠い地で自分を信頼してくれるバーニィ。への想いがキャロルの胸を満たし、杖を握る手に力を与える。


「あなたを討ち滅ぼして、みんなを守る。そして、オスカーの仇を討つ!」


 術式構築、完了。

 彼女の決意の言葉とともに、金色の光が世界に満ち、闇のヴェールを吹き飛ばす。


「せめて安らかな眠りを」


 彼女が投げかけた言葉は、魔王に向けた慈悲か、もう二度と会えないへのはなむけか。

 いずれにしても、キャロルが寂しそうな顔を浮かべたのは、ほんの僅かな時間だけ。杖を全力で振り下ろし、最後の大技を繰り出すその姿には、ためらいなど微塵も見られなかった。


 魔石から放たれたのは、空を切り裂く金色の光条。

 周囲の雪と雲をまとめて昇華させた光は、そのまま魔王を飲み込み、天高くへ飛び去っていった。

 それを後から追いかける風切り音は竜の咆哮に似ていたが、どこか物悲しさが入り混じっているようにも聞こえる。


 ――オスカーがさよならを言っている。


 全てが終わった虚空にひとり残されたキャロルは、大きく肩で息をつきながら天を仰いでいた。

 その顔を彩るのは、魔王を倒した達成感や高揚感などではない。大切なものが永遠に失われたことを理解した、一抹の寂寥せきりょう感だ。

 程なくして、辺りはふたたび闇に包まれる。

 だがそれは、厚い雲に押しつぶされた、先の見えない暗さではない。凍てつくような光を放つ星々が、世界を穏やかに照らしている。


「……さよなら」


 誰にともなく別れを告げたキャロルの頬を、一筋の涙が流れたその直後。

 手中の杖が力尽きたかのように、色を失い、砕け散る。


 の間に訪れた本当の離別、その瞬間を、彼女が自覚することはなかった。


 本当の夜明けが近づき、空の色に青が混じる直前。

 魔力も体力も、持てるもの全てを使い果たした彼女は、そのまま意識を手放し、なすすべもなく落下してゆくしかなかった。

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