4.3 いい夜ね

 バーニィの私室は工房の二階。厚いカーテンと窓の向こうにはベランダがあるけれど、そこに梯子はしごがかかっているわけでもない。そんなところに足を踏み入れる人間にも、心当たりはない。


 ――ことり。 


 これだけはっきり物音を聞いては、もう気のせいになどしていられない。

 緊張に怯える膝と、一気に高まる鼓動をどうにか手懐けたバーニィは、手近にあった加工前の樫の棒を手にとり、忍び足で窓の側に身を寄せる。

 そこから改めて息を整えるまで二秒、カーテンを開けるのに一秒。

 錠前を上げて窓を開け、部屋に外気が流れ込むまで三秒。


 ベランダの手すりの上に佇み、こちらを見ているキャロルと目があって、しばし言葉を失うこと十数秒。


 どこか楽しそうなキャロルの向こうでは、オスカーが翼をゆったり動かして優雅に滞空ホバリングしている。

 だが、の目つきは極めて剣呑けんのんだ。


 ――そんな物騒なもの持ち出して、一体どうしようっていうんだい? 


 下手な動きを見せようものなら一撃ブチかましてきそうな気配に満ち溢れた飛竜オスカーを前に、バーニィは思わず、手中の獲物を後ろ手で放り投げた。どんがらがっしゃんと古典的かつ不穏な音が背後から響くが、火球でこんがり焼かれたり爪で引き裂かれたりするよりはずっとマシである。

 外の空気の寒さのせいか、それとも嫌な汗が背中に伝うせいか。一つ身震いしたバーニィを尻目に、キャロルは導師服ローブの裾をつまみ、可憐にお辞儀をしてみせた。


「ごきげんよう、バーニィ。いい夜ね」

「なにしてんだよ、落ちたらどうすんだ!」


 心配をよそに、キャロルは軽く跳んでベランダに降りようとした。

 だが、その床はおりからの悪天候で凍りついており、案の定着地で足を取られて転びかけるものだから、バーニィが慌てて受け止める。


「ったく、言わんこっちゃない……」

「えへへ、ありがと、バーニィ」


 キャロルの様子がどこかおかしい。

 一見いつもと同じ笑顔のようでもどこか締まりがないし、距離を詰めることはあってもすり寄ってくるなんてこれまで一度もなかったはずだ。

 答えは、紅く染まった彼女の頬にあった。


「……キャロル、酔ってんな?」

「えー、そんなことないよー」


 かつて散々見せつけた自分の酔態を棚に上げ、そういうこと言うやつは大概酔ってんだよ、と呆れてみせたバーニィだったが、それは擬態ポーズにすぎない。彼女のとろんとした眼、ほのかに漂う甘い香りに内心ドギマギしてしまう。


 ――で、いつまでそうしているつもりだい?


 年頃の男なら誰でも陥るであろう逡巡を切り裂くのは、先ほどよりも一層研ぎ澄まされたオスカーの視線。相棒キャロルを傷つけずにお前を葬るなんてわけないぜ、とばかりに爪を見せつけてくるのはやめてほしいものだ。

 その視線に負けた――つもりはないのだが、いつまでも外で彼女を抱きかかえたまま、というわけにも行かない。紅い頬とは裏腹に、キャロルの手はすっかり冷えてしまっている。寒空の下、オスカーを飛ばして来たのなら無理もない話だが、泣いても笑っても出立は明日。彼女に風邪をひかれるわけにはいかないのだ。


「表はさすがに寒いねー。ちょっとお邪魔しまーす」

「あ、おい、キャロル」


 そう言ってバーニィの手を振りほどいたキャロルは、開け放たれたままの窓から室内に入る。外に残されたのは、強張った顔の工房の跡取りと、導師の相棒の飛竜だけだ。


「全くしょうがねぇな。オスカー、ちっと待ってろ」


 オスカーの視線は痛いが、かといって酒に酔ったままの導師様を寒空の下にほっぽりだしておくわけにもいかない――というもっともらしい理由で、想い人と一緒に過ごす時間を作れる――そんな下心を取り繕ったバーニィは、中に入ってキャロルの手を引く。


「とりあえず、体温めろ。明日出発だってのに、体調崩したら元も子もねぇじゃねぇか。オスカーは俺が作業場に入れてやるから、ここで待ってろ」


 キャロルを客間のソファに座らせ、暖炉に火を入れたバーニィは、作業場に戻って一度下ろした錠前を開ける。

 半ば体を預けるようにして、表通りに通じる大扉を開けた彼の頭上に広がるのは、相変わらず低く垂れこめ、天使だって降りてこれそうにないほど分厚い雲。雪は一時的に止んでいるだけらしく、空はちょっとつつけば今にも泣き出しそうだ。


「待たせたな、オスカー。中に入ってくれ」


 オスカーは最初のうちこそ首だけ中に差し入れ、しばらくキョロキョロと中の様子をうかがっていたのだが、外の寒さがさすがにこたえるらしい。ゆっくりと中に足を踏み入れ、やや窮屈きゅうくつそうに体を丸めた。


「少し狭いかもしれねぇけど、それは勘弁してくれよな」


 明日からの休業に備えて炉の火を絞っているとはいえ、作業場は外に比べればずっと温かい。バーニィの配慮にオスカーも満足した様子を見せているが、寝入る気配は微塵も感じさせない。それどころか、両目を爛々らんらんと見開き、


 ――僕の女主人レディに手ぇ出したらどうなるか、わかってるよね?


 とでも言いたげな唸り声をあげているあたり、バーニィは今ひとつ信用がないらしい。とはいえ、彼も年頃の男。狼にならない保証なんてどこにもない。


「……キャロルを傷つける真似はしねぇよ」


 ――最大限の努力をしよう。持ってくれよ、俺の理性。


 余計な考えを頑張って振り払い、内心で自分を叱咤したバーニィは、飛竜ワイバーンを少しでも安心させようと、眉間を優しくなでてやるのだった。

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