3.3 喧嘩を売られたのは俺です
誰もが酒を、料理を、そして談笑を楽しんでいた酒場の扉が、常識ではありえない勢いで跳ね開けられ、蝶番ごと吹き飛ばされた。安息の時間を邪魔された常連客の数名が乱暴な振る舞いに非難の視線を向け、粗暴な振る舞いに声を上げようとするが、扉を壊した張本人の気迫に圧され、息を呑む。
力自慢の神々を思わせる、シャツで覆い隠しきれていない筋骨隆々の肉体を誇る来訪者は、飢えた肉食獣もかくやとばかりのギラついた顔で、店内を隅から隅まで睨みつける。額に浮かべた青筋、眉間のシワに釣りあがった眉毛、酒のせいと思しき赤ら顔のせいで、図体に似合わない整った顔も台無しだ。
いつもの
「司祭長補佐? なんでここに」
「噂をすれば、ってね。相変わらず、導師とは思えないガタイしてるなぁ」
店の奥でこっそり驚きの声を上げたつもりのラルフとバーニィだったが、不運にもアレクサンダーの
「見つけたぞ……!」
テーブル席をなぎ倒さん勢いで迫ってくる導師を見て座ったままでいる二人ではない。反射的に椅子を蹴って身構えるラルフとバーニィだが、二人の表情は少々異なる。
ラルフはやや憮然としており、導師の視線に臆する様子など微塵もない。後ろ暗いところなどないし、ただ友人と楽しく酒を飲んでいただけだから当然である。そもそも彼は騎士団の所属で、アレクサンダーの部下でもなんでもない。いくら教会内の地位が高かろうが、司祭長補佐から口やかましく言われる筋合いなどないのだ。
一方のバーニィは、無関心を絵に描いたような無表情。だが、導師がキャロルにちょっかいを出し続けていると聞いたばかりだし、彼女から杖の相談をちょくちょく受けているのも事実。絡まれるとしたらきっと俺の方だなと内心で緊張していた。
「逃さんぞ、ボンネビル工房の
ガキ呼ばわりされる
「貴様、お嬢さんとはどういう関係だ?」
「お嬢さん? 失礼ですが司祭長補佐、どちらのお嬢様の」
ごまかし切る前に万力のような右手で胸ぐらを掴まれただけでなく、脳まで
「とぼけるのも大概にしろ、下郎が。キャロライン・ユノディエール嬢が、貴様の工房に頻繁に出入りしているのは知ってるぞ」
「うちの顧客だから当然でしょう」
正確には俺じゃなくて親父の工房なんだが、と口を挟む余地すらない。アレクサンダーの振る舞いは
そして、理不尽に屈すまいとする態度が、導師の気持ちをさらに逆撫でする。
「正直に答えないと貴様のためにならんぞ。キャロライン嬢とはどういう関係だ?」
「さっきも言ったろ、工房の顧客と職人だ。それがあんたに関係あんのかよ?」
平素のバーニィは言葉遣いこそやや荒いものの、振る舞い自体は穏やかな男だ。だが、元をたどれば荒くれ者の多い職人の世界で生きる人間である。たとえ誰が相手でも、因縁をつけられて黙っていられるほど大人しくはない。
「彼の言うとおりです、司祭長補佐。教会の評判に関わりますよ」
見るに見かねたラルフは、バーニィからアレクサンダーの腕を引き剥がそうとした。だが、力自慢の彼を持ってしてもバーニィの襟首にかかる握力は緩まないものだから、焦りの色を浮かべる。
「司祭長に近い立場にいる導師が、市民に手を挙げるのはご法度でしょう。離しなさい」
「やかましい!」
獣の唸り声にも似た風切り音とともに、導師の左腕が振るわれた直後。
盛大にふっ飛ばされたラルフは、他の客とテーブルを巻き込んで酒場の床に転がり、うめき声を上げる。
「ラルフ!」
バーニィが声を上げるのと同時に、ヴィヴィが機敏に動き出していた。片手でタオルと水差しをまとめて引っ
「一つ忠告しておくぞ、ボンネビルの小倅。彼女から手を引け、わかったな」
襟首をさらにねじりあげられ、息が詰まりそうになるバーニィだったが、決して目はそらさない。
「誰が、あんたの指図なんか、受けるか!」
「従え!」
踏ん張ることすら叶わずに、ただ腕力だけをもってカウンターに叩きつけられたバーニィは、うめき声を上げる間もなく放り投げられ、石畳にしこたま体を打ちつけた。
視界が一瞬の間にぐるりと回ったと思った直後、体に鈍い痛みが走る。つい先程壊された扉から表に飛び出したことを認識するには、しばしの時間が必要だった。
「頼まれた杖も満足に作れねぇ分際で、キャロラインの隣に立てると思ってんじゃねぇぞ! このポンコツが!」
「てめぇ、ボンネビルの若旦那に何しやがる!」
「導師だからって構うか、やっちまえ!」
教会で人々に教えを説くはずの口からとめどなく放たれる罵詈雑言に怒り、義に震える他の客が立ち上がる。
酒場の常連客に漂う独特の連帯感は、どこか友情に似ている。言葉を交わす回数こそ少なくても、同じ空間と時間を共有して酒を楽しんでいた若い二人が痛めつけられたとあっては、他の連中も大人しくしてはいられなかった。扉を失った出入口から風が吹き込む中、腕に覚えのある荒くれ者達がめいめい腕まくりをし、アレクサンダーに挑みかかる。
だが、相手があまりにも悪かった。
酒場の揉め事程度で披露すべきでない卓抜しすぎた喧嘩の嗅覚に、導師に留めておくには惜しい恵まれた肉体を兼ね備えた彼が相手では、生半可な腕自慢程度では到底敵わなかった。背後から迫る殺気すらも察知し、半歩引いて一撃をかわすと同時に、返す刀で相手を叩きのめす。酔っているなどとは微塵も感じさせない一連の所作は、導師としての訓練で磨かれないはずの技術だ。結局、秀でているのは魔法の才だけではないということを知らしめるだけに終わった。
「若! 大丈夫ですか、若!」
いつもだったら静かなはずの酒場で珍しく巻き起こった騒動を聞きつけ、近所から野次馬が集まってくる。その中に、ボンネビル工房の若い衆と職人頭のマサの姿があった。誰もが酒で顔を赤く染めていたが、倒れ伏していたバーニィを見た途端、頭のてっぺんから爪先まで蒼ざめる。
「……マサさん?」
「若いのと次の店を探してたところで、ちょうど騒ぎに出くわしやして。まさか若が揉め事に巻き込まれているとは……。お怪我はありやせんか?」
大丈夫です、とバーニィは自力で立ち上がる。体のあちこちがギシギシ音をたてて痛むが、幸運にも骨が折れたりはしていないらしい。
それと時を同じくして、アレクサンダーは酒場にいた男衆を一通りねじ伏せ終えていた。髪の乱れや息切れもなく、今度こそ本来の獲物を仕留めようとゆっくり歩いてくる彼を認めたマサは、弟弟子を守らんと一歩前に進み出る。
「よくも若に手ぇかけやがったな?」
「……ボンネビル工房の者か。職人風情が偉そうに意見しようってのか?」
「
「報いだと? 面白い、やってみな。ゴロツキ風情が調子に乗りやがって、耐え難い痛みと一緒に神の身許に送ってやるよ!」
「俺たちがゴロツキなら、テメェはさしずめチンピラってところか、クソ導師が。臓物ブチまけるだけで済むと思うなよ三下が!」
口さがない連中から「睨んだだけで野犬くらいなら殺せる」と噂される眼差しをより一層鋭くし、懐の短刀に手をかけて凄むマサを前にしてなお、アレクサンダーは顔を歪めてニタリと笑う。街で評判の美形と謳われた面影など、今の彼にはない。
「ちょっと待った、マサさん」
「わ、若!?」
今まさに抜かんとしていた伝家の宝刀を、あろうことかバーニィによって押さえつけられ、マサは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「どういうおつもりです?」
「
「しかし」
「それに、喧嘩を売られたのは俺です。ここは預けてくれませんか」
さして腕っぷしが強いわけでもない上に、さっきまで地面に転がされていた当人にそう言われては仕方がない。渋々引き下がったマサだったが、前に歩み出るバーニィの背を見る目は不安半分、心配半分といったところだ。殺気を抑えることはもちろんないし、短刀を抜く準備を怠ることもない。
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