1.2 みんなには内緒だよ

「……キャロル、帰ってきて早々こんなこと言うのもなんだが、俺のこれまでの苦労はどうなんのさ?」


 空から急降下してきた幼馴染との再会というのは、絵面だけ見れば劇的ドラマティックそのもの。だが、その余韻にいつまでも浸ることは許されない。夜明け直前から汗水たらして寄せ集めた季節外れの雪も、オスカーの力強すぎる羽ばたきのおかげであちこちへと散らばっており、これでは元の木阿弥だ。


「ああ、それはごめんなさいね……大丈夫、力を貸すわ」


 お姉さんにまかせなさい、とばかりに胸を張って宣言すると、キャロルは小さな気合の声とともにオスカーの背に飛び乗り、幼馴染に向かって手招きする。


「ほら、何ぼやっとしてるの? こっちにいらっしゃいな」


 彼女に言われるがまま、オスカーに近寄るバーニィだったが、あと数歩のところでどうしても歩みが鈍る。いくら飛竜ワイバーンが小柄といっても、それはあくまでドラゴンという種の中での話である。改めて間近で見るとその大きさに戸惑いを覚えずにはいられない。


「大丈夫、この子は優しい飛竜ワイバーンだから」

「そうは言ってもなぁ……」


 馬や牛を凌駕りょうがする体格に、鋭い牙と爪、そして硬質な鱗。  獰猛な見た目とは裏腹に、竜というのは総じて賢い生き物だ。こちらに敵意がないことをちゃんと示してやれば、怪我を負うような事態は避けられることくらい、彼だって知っている。だが、一歩近づくごとに大きくなる唸り声、こちらを睨みつける大きなまなこを目の当たりにしては、竜との接し方に関する知識への信頼も揺らいでしまうし、にこやかに飛竜ワイバーンに語りかける彼女の言葉にも素直に頷けない。結果、二の足を踏むことになる。


「オスカー、この人は大丈夫。危ない人じゃないよ」

「いい名前だな。俺はバーニィ。よろしく頼む」


 竜が人の言葉をどこまで解すか、十分な知識を持ち合わせてなどいない。彼にできることなどせいぜい、穏やかに挨拶を交わすくらいのものだ。

 オスカーは金色の眼をぎょろりと動かし、バーニィの頭のてっぺんから爪先までめつける。背の上で微笑むご主人様キャロルになにがしかの危害を加えやしないか、そう値踏みされている気がして、あまり居心地はよろしくない。


「一つ手を貸しちゃくれねぇか?」


 少しの間、互いの姿形なりをじっと眺めていただったが、やがて飛竜オスカーのほうが


 ――微笑わらった?


 ちらりと覗いた牙を訝しんだ直後、バーニィを突如、浮遊感が襲う。

 自分が今どういう体勢なのか理解する時間はおろか、戸惑う暇すら与えぬ早業だった。天地が文字通りひっくり返ったなと思ったときには、背中を何か硬いものにしたたかに打ち付けており、しばらく呼吸を失ってしまう。

 静止した世界で、彼の目に映るのはどこまでも青い空と、風にそよぐキャロルの後ろ髪。


「オスカー! バーニィをそんなに乱暴に扱っちゃだめ!」


 晴れた虚空に響くのは、キャロルが相棒をたしなめる声。

 それを聞いてようやく、筋肉質な上に鱗で鎧われたオスカーの背に放り投げられた、と思い当たった。手荒な歓迎ここに極まれり、である。


「こりゃ仲良くできそうだ」

「ごめんなさい、この子、ちょっと今日は虫の居所が悪いみたい」


 ――今回はキャロルの顔を立ててやるよ、感謝しな。


 そんな言葉の代わりに、オスカーは鼻を鳴らす。どこぞの馬の骨から姫をまも騎士きし気取りの振る舞いから察する限り、バーニィの第一印象は贔屓目に見ても悪い、といったところか。


「……べつにあんたが悪いわけじゃない」


 バーニィとオスカー、の間に横たわる問題は、キャロルがわざわざ板挟みになって思い悩むことではない。これから互いの理解をしっかり深めていけばいい話なのだが、言葉の通じない相手にどう接していくかは、ちょっと考えていかなければなるまい。


「それはそうとキャロル、力を貸してくれるって何のことだ?」

「そうだったね。じゃあ、しっかりつかまって」

「え、ちょっと、キャロル?」


 手をつかまれたバーニィはなされるがまま、前に座るキャロルの腰に腕を回す。その細さとしなやかさ、髪からほのかに揺れる香りについドギマギしてしまうが、


「飛ぶよ!」


 相棒に呼びかける淑女の声とともに、そんな不埒な考えは空の彼方に吹っ飛んでしまう。

 二人を乗せ、主人の意を忠実に汲んだオスカーは大きく翼を動かし、あっという間にその身を工房の二階相当の高さまで打ち上げる。

 いくら滞空ホバリング姿勢の安定性に定評のある飛竜ワイバーンといっても、ぐらつきをゼロにはできない。ずっと地上に根を張って生きてきたバーニィは、強く長い浮遊感にただただうろたえるばかりだ。

 一方、キャロルは慣れたもので余裕の表情。上手く手綱を取りながら、どこか楽しそうに声高らかに相棒をけしかける。


「やっちゃって、オスカー!」


 飛竜オスカーは返事を返さない。ただその行動をもって忠誠を示すだけだ。

 にとって、翼ははためかすものではなく振り抜くものらしい。力強い羽ばたきはバーニィが体感したことのない大気の流れを生み、奇妙な光景を作り出す。

 猛然と地面を舐める風が押し流すのは積もった雪だ。工房の窓硝子が震えることも、庭に植えられた木々が揺れることもない。

 怖気さえ覚える違和感にあふれた光景を、バーニィはただただ、言葉もなく眺めている。


「これくらいでいいかしら?」


 暴風が治まった後、自信満々の笑みとともに、キャロルは肩越しに振り返る。

 その向こうに見えるのは、周りの小道、庭、屋根に至るまで雪が取り払われ、すっかり元の姿を取り戻した工房の建屋だ。

 雪を吹き飛ばしてみせたのは間違いなく、魔法の力。だが、キャロルは魔法を使うためのどうぐを手にしていない。仮に彼女が飛び抜けて優秀な導師だったとしても、手ぶらで魔法を発現することはできないはずだ。


「なあ、キャロル」


 さっき魔法を使ったのは、もしかして――。 


 カサついた唇に押し当てられた、キャロルの人差し指。その柔らかさと伝わる温もりはバーニィの頭を沸き立たせ、疑問と思考をとめどなく揮発させる。


「魔法の力を持つのは私だけじゃないかもね……とだけ言っておくわ。みんなには内緒だよ?」


 大多数の人々がキャロルを「優等生」「いい子」と認識しているが、バーニィに言わせればそれは彼女の一面に過ぎない。子供の頃は人並みに悪戯いたずらをして叱られたし、学舎に通っていた頃はちょっとしたズルや規則違反もしたことがある。顔つきこそ大人っぽくなったけれど、根っこに流れているものは、昔と何ら変わらないようだ。


「口止め料……ってわけじゃないけど、お家まで送ってあげるから、それでおあいこね」

「送る?」

「行くよ、オスカー!」


 バーニィの心に、彼女との懐かしい思い出が徐々によみがえりつつあったが、それに浸っているいとまはなかった。

 キャロルの命令に忠実に従ったオスカーが見せる、全力の加速。風景がこれまで体験したことのない歪み方をするや否や、後方へ流れてゆく。


「飛ばすよ、バーニィ! もっとしっかりつかまって!」


 これほど嬉しい申し出もないが、自宅にたどり着くまでの数分の間、未知の加速度と振動が終始体と脳を揺さぶってくる。それに耐えるのが精一杯で、可愛いあの娘との二人乗りタンデムという素敵な状況シチュエーションを堪能する余裕など、彼にはこれっぽっちもなかったのである。

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