1. 幼馴染の帰郷

1.1 ただいま

 秋の足音がそばまでやってきたと思ったら、急に季節外れの寒波に見舞われた、そんなおかしなある日の明け方。夜と夜明けの境目、世界が青い闇に包まれる中、積もった雪と格闘している男がいた。

 青年に足を突っ込んだばかり、少年と呼ぶには違和感を覚える程度に大人びた顔立ちの男は、ときおりシャベルを振るう手を止め、黒髪を短く刈り上げた頭を拭って息をつく。ずっと動いていたおかげで、体はだいぶ温まっているらしい。防寒着ブルゾン襟巻きマフラーはすでに柵に引っ掛けられ、つなぎの腕もまくられている。

 せっかくの休日なのに、彼はなぜ、早朝から雪かきなどという重労働に勤しんでいるのか?

 事の発端は、前夜、いつもの習慣でつい目覚まし時計を仕掛けてしまったことにあった。ベルの音に叩き起こされた彼に、母が家業――工房の周りの雪かきを命じたのだ。父も祖父も仕事で不在となれば、家で力仕事をするのは彼しかいない。シャベルを担ぎ、街の外れにある工房まで歩いてきて、こうして朝も早くからせっせと体を動かし、仕事に励んでいるのである。更に悪いことに、今日は素敵な安息日。どんな仕事中毒ワーカホリックでも、工房に来るような酔狂な職人はいない。現にいるのは彼だけだし、そもそも時間が早すぎる。

 とはいえ、愚痴ぐちをこぼしたところで、状況は変わらない。青年は一人黙々と、工房の表、陽のあたる一角に雪を積み上げる。

 ちぎれた雲の合間に見えた星々は、東から昇りつつある太陽に押し負けて姿を消しつつある。日が昇り切るまでに雪をかき集め、陽光にさらした状態にして家路につきたいところだが、工房の敷地はいかんせん広い。積もった雪を一人で全部さらうのも、なかなか骨の折れる仕事だ。

 風が唸る音を耳にした青年は、ふと手を止め、あたりを見渡す。

 絵に描いたようななぎだ。木々がざわめく様子もなければ、柵にかけておいた防寒着ブルゾン襟巻きマフラーが揺らめく気配もない。

 だというのに、聴覚だけは吹きすさぶ暴風を捉えていた。二つの感覚の食い違いは、自然と、彼の視線を真上へ跳ね上げる。そこに広がるのは、澄み渡った空だけのはずだ。


 ――いる。


 宙を疾走はしる黒い点を認めた時、青年は思わず背筋を震わせた。

 彼の脳裏をよぎったのは、自分の目の異常だ。職場たる工房では、金属・木屑・硝子ガラスを問わず、様々な切り粉が舞い、頻繁に火花も飛ぶ。そんな環境のなか、彼は細心の注意をはらい、生命線かつ大事な商売道具である眼を守ってきたのだ。彼の額に押し上げられた保護眼鏡ゴーグルこそ、その象徴である。

 とりあえず冷静になろうと、男は一旦、足元の雪に目を落とす。

 陽光を全面で跳ね返す白さの前に、先ほどのような黒い点が割って入る余地などない。数度ゆっくりとまたたきをしても、結果は同じ。

 結論。彼の眼に異常はない。


 ――だとしたら、あれは一体何だ?


 再び空を仰いで考えを巡らせる彼をよそに、黒点はどんどん大きくなってゆく。その上、まで聞こえてくる始末だ。

 最初こそ幻聴を疑ったが、それもほんの一時ひとときだけ。もはや点とは呼べない黒い影とともに、悲鳴とも歓声ともつかない声まで迫りくるとあっては、空耳だのなんだのとは言っていられない。


「……ぁぁぁぁああああああああ!」


 いるのか、いるのかは定かでないが、止めることはおろか制することすらままならない速度域に突入しているのは明らかだ。黒い影もとっくに小さな点でいることをやめており、だいぶ形状がはっきりしつつある。


「……バァァァァァニぃぃぃぃぃ!」


 ――俺の名を呼んだのか、それとも思いすごしか。


 徐々に大地をなで始めていた風は、影の急降下とともにどんどん荒れ始める。突っ立ったまま考えてる猶予ゆうよなど、もはや今の彼には与えられていなかった。巻き込まれてはひとたまりもないと、男――バーニィは、防寒着ブルゾン襟巻きマフラーを引っ掴み、半ば転がるように慌ててその場を離れる。

 が地表すれすれで大翼を力いっぱい打ち下ろし、急制動をかけたのはその直後だった。

 辺りの雪すべてを舞い上げる大気の暴走は、一陣の風と称するには過小評価もいいところ。何が起こったか自らの目で確かめるべく、間一髪で額から保護眼鏡ゴーグルを下ろしたバーニィだったが、彼のささやかな抵抗もそこ止まり。踏ん張る間もなく枯れ葉のように吹き飛ばされ、なすすべもなく無様に転がるしかなかった。不自然な姿勢で地面に叩きつけられなかったのは不幸中の幸いだろう。


「なんなんだよ、もう……!」


 地上に降り立った暴風の主、それは飛竜ワイバーンだ。

 ドラゴンに属する生物としては比較的小さな体格だが、翼の発達が著しく、大空を自由に駆けるのが得意な種である。小柄といっても馬や牛よりは大きいし、人間の一人や二人くらいだったら軽々と乗せて飛んで回る力を誇る生き物だ。

 雪と泥にまみれ、ゆっくりと体を起こして悪態をつく青年の視線は、風の中心で雄々しく立つ飛竜ワイバーンと、その背にまたがる飛竜使いライダーに向けられている。


「ご苦労さま、オスカー」


 上衣の裾をひらりとはためかせ、重力を感じさせない足取りで、飛竜ワイバーンの背から女性が飛び降りる。体格だけ見たら少女と言ってもさしつかえないだろう。逆光のせいで表情までは伺いしれないが、口調や雰囲気からは少なくとも敵意や殺意は感じられない。

 オスカーと呼ばれた飛竜ワイバーンも同様だ。もっとも、主人に撫でられて嬉しそうに喉を鳴らしている様子を見ただけの判断ではあるが。


「びっくりさせてごめんなさいね、バーニィ・ボンネビル君」


 の労をねぎらった飛竜使いライダーは、未だ尻餅をついたままのバーニィへと歩み寄る。

 オスカーの巻き起こした風によって高々と打ち上げられ、頼りなさげにふわふわと舞ったままの雪は、朝日に照らされて不規則なきらめきを放つ。その只中ただなかをゆく彼女は、頭を覆うフードから、膝下までの長さがある外套、ブーツのつま先に至るまで真っ白な装いと相まって、さながら雪の女王だ。


「どうして、俺の名前を?」

「忘れちゃったの? お姉さんは悲しいわ」


 やや芝居がかった返答とともに跳ね上げられたフードから現れたのは、色素の薄い肌とゆるく波打った金髪。高さはなくとも整った鼻梁に、キラリと光を放つ碧眼。眼差しはどこまでも穏やかで、微笑みは限りなく温かい。

 すべてを許し、慈しむようなその表情を、バーニィは確かに知っていた。


「……キャロル、なのか?」

「思い出した?」


 五年前、魔法を使いこなす者――導師となるべく故郷を後にした、幼馴染の可愛らしい少女。当時から密かに想いを寄せていた少女が、あの頃の面影を残したまま美しい淑女に成長し、彼の目の前で手を差し伸べているのだ。

 手を引かれるままに立ち上がったバーニィは、しばらく語るべき言葉を見つけられずにいた。が終わったと手紙をもらったことは覚えているが、今日帰ってくるとは初耳だ。飛竜ワイバーンに乗る訓練をしているというのも聞いたように思うが、こんなド派手な登場をかまされるのは完全に想定の埒外らちがいだ。


「ごめんなさいね、驚かせちゃったかしら。体は大丈夫?」

「ああ、なんともない」

「ずいぶん、背も伸びたね」

「五年も経ってんだから当然だろ?」


 別離わかれのときは同じくらいだった二人の背丈も、今やバーニィのほうが頭一つ高い。弟分の成長が嬉しいのか、それとも再会の喜びか、淑女――キャロルの口調は軽やかだ。


「ちょっと向こうでゴタゴタがあって、予定が繰り上がったの。本当は来週に帰る予定で、手紙もそれに合うように出したんだけど」

「ずいぶんと急な話だな」

「昨日の昼頃に出て、全力で飛ばしたんだけど、ちょっと早く着きすぎたかな」


 やらかしちゃったね、とキャロルが浮かべる照れ笑いは子供のころのままだ。いたずらを叱られた後、二人きりになったときに見せたものと、何一つ変わっていない。さっきふっとばされたにも関わらず、つい懐かしくなって、バーニィも相好を崩してしまう。


「……お帰り、キャロル。修行お疲れさん」

「ええ、ただいま」


 キャロルはまっすぐ彼を見つめたまま、朗らかに帰郷の挨拶をする。背後で登る太陽にも負けない、満面の笑顔とともに。


「キャロライン・ユノディエール、ただ今戻りました! これからまたよろしくね、バーニィ!」

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