辻が花がやってくる

増田朋美

辻が花がやってくる

辻が花がやってくる

その日は梅雨の中休みという表現がまさにぴったりで、太陽が出て、久しぶりに明るい青空が出て、のんびりした一日になりそうだなという感じだった。こんな日は、外に出たら熱中症にでもなってしまうとばかりに、多くの人はあまり外へ出ないで、エアコンの効いた部屋で、のんびりとしているのがいいのかなと思われる気候である。

蘭もその一人で、こんな暑い日は、どこへも行かずに、のんびりと部屋の中でというのが正しい選択だと思い込んでいたが、いきなり玄関のインターフォンがピンポーンと勢い良くなったので、びっくりする。

「こんにちは、宅急便です。印鑑をお願いします。」

という配達員さんの声に、蘭は急いで印鑑をもって、玄関先に行こうと思ったが、奥の部屋にいた妻のアリスが、いいのよ、私の荷物だからと言って、蘭より先に、玄関先へ出た。

「はい、代引きで、3500円です。」

大した額じゃないか。と、蘭は思ったが、アリスは丁寧に三千五百円を配達員に渡して、しっかりと受け取りの印鑑を、指示されたところに押していた。

「はい、ご苦労様です。ありがとうございました。」

急いで出ていく配達員に、アリスは、お礼を言って、見送った。まあ、インターネットの通販でなにか買ったということだろうが、一体彼女が何を買ったのか、気になってしまうところである。

「あーあ、やっと来た来た。大雨で発送が遅れるって電話が来たから、ちゃんと今日届くか心配だったけど、晴れてくれたから、ちゃんと届いてくれたわ。遅れたと言えば、二時間遅れただけよ。」

と、アリスは、紙袋をもって、部屋に入ってきた。蘭は、一体何を買ったのと聞いてみる。いつもなら、西洋人らしく、人には教えなくてもいいじゃないという彼女だが、今回は違っていて、

「着物よ。」

とはっきり答えた。まあ確かに、三千五百円で着物が買える時代であることは、蘭もわかっていたが、

「それなら、リサイクル着物屋に行って、そっちで買った方がいいのに。寸法とか、素材とか、結構うるさいだろ?」

と、彼女に言ってみた。アリスは紙袋をほどきながら、

「そうだけど、辻が花を三千円以内で買えるチャンスは、今しかないと思ったのよ。だから、店に行くより早いかなあと思って。」

という事を言っている。

「辻が花だって?そんなものをよく見つけたな。お前、着物の種類何て、まったく無頓着だったはずなのに?」

と、蘭が言っている間、紙袋の中から、水色の訪問着が姿を表した。確かに、辻が花の技法が多く使われたものである。ちなみに辻が花とは、絞りの技法を使って、架空の花を描く着物の染色技法である。室町時代くらいに全盛期で、友禅の開発とともに衰退したというが、現在になって有力な人物が復元したとされている。

「一体なんで、辻が花というものを欲しがるんだよ。お前がそんなもの欲しがるなんて、どういう風の吹き回しだ?」

蘭は、変な顔をして着物を試着している彼女を見た。

「だからあ、昔の助産師、つまり桂女という人たちの間で辻が花が流行っていたと聞いたから、私も、それにあやかりたくて買ったのよ。ほら、有名な歌もあるじゃない、春風に、わかゆの桶をいただきに、袂も辻が花を折るかな。」

アリスは、試着した着物をたたみながら、そういうことを言った。確かに昔は、桂女という助産師のような女性がいたのは確かだが、そのころの辻が花と、今はやっている辻が花では、技法が違っていた。当時の辻が花というのは、麻を織ったものの事であり、今の絞りを使って花を描くというものとは違っている。アリスのやつ、そこらへんもしっかり調査すればいいのになと蘭は思ったが、外国人の彼女にはそのあたりは難しいかなと思って口にしなかった。いずれにしても、辻が花としてはり立派な着物で、これが洋服と同じ価格で入手できたのは、今の時代ならではである。

「ねえ蘭、あたしも、辻が花を一枚持ってれば、日本の古くからの助産師というか、産婆さんと近づけるかな?」

と、いきなり聞かれたので蘭は困ってしまった。どうも彼女は、日本の古くからある変なことにこだわってしまう傾向があるが、今回もその一例である。

「一体どうしたんだよ。お前、いきなり辻が花なんていう古くからの伝統を持ち出して。」

と、蘭がそう聞いてみると、アリスは、

「あのね、あたしが担当している妊婦さんの一人から、言われちゃったのよ。日本人でもない人に取り上げてもらいたくないってさ。其れより蘭、これ、似合うかしら。」

きっと彼女も、彼女なりに、傷ついたのだろう。まあ、いくらマナーが良いと言われる日本でも、きついことを平気で言う人は、少なからずいるので。

「お前も細かいこと気にしすぎだが、そういう性格なのは僕もよく知ってるよ。日本が好きと言っても、日本人と外国人では意味が違うからね。まあ、良く似合うよ。水色で素敵じゃないか。」

と蘭はとりあえずそういっておく。

「よかったわ。あたしはやっぱり日本人でもないくせにというと、つらい気持ちになるのよね。対策はしっかりとっておかなくちゃ。幸い、着物は着れるし、帯結びはできないけど、作り帯の本も買ったから、心配いらないわ。」

はあ、なるほどね。日本が好きとなると、こういうところにも出るのか。蘭は一つため息をついた。一方アリスは、にこやかな顔をして、着物をもって自分の部屋へ戻ってしまう。まったく明るい女性だなあと、蘭は一寸あきれてため息をついた。多分これから、桂女になったつもりで、担当している妊婦さんや、出産したばかりのお母さんなどに、会いに行くんだろう。

そんなことが在った、翌日の事であった。アリスは担当の妊婦さんから相談があると言って、さっそく辻が花の着物を着て出かけてしまった。ちゃんと、水色の着物に、緑の名古屋帯を締めて。日本人以上に、着物のルールを守っていると思った。

蘭がアリスを見送った直後、彼のスマートフォンがなった。

「はいはい、もしもし。」

と、蘭が出ると、

「あの、彫たつ先生の電話番号でよろしかったですよね。あたし、中村真美というものです。中村は、よくある真ん中の中に、村はきへんの村、真は真実の真で、美は美しいですが。」

と、相手の女性は丁寧に返事をした。こういうふうに丁重に返事をするというのは、なかなか例がないので蘭も困ってしまった。

「あの、あたしの右腕に、バラでも桜でもなんでもいいですから、入れていただけないでしょうか。あの、あたし、若いころ、一寸心を病んでしまっていたことが在って、その時の痕が残っているんです。でも、今年、赤ちゃんを産んで、もうその傷跡何とかしなさいと、あたしの両親が言うものですから。」

と、女性は、そういうことを言っている。まあ確かに、最近よくあるパターンだった。成長とか、再出発を表すために、刺青を入れたいという人は良くいる。あるいは、摂食障害などの心の病から立ち直った象徴として入れたいという人も多い。美容整形に行けば解決できるという人もいるが、美容整形というものは誰でも行けるものではないから、こういうところにやってくるのだ。

「わかりました、了解ですよ。ただ、桜は散るというところから縁起が悪いという人もいます。それは避けた方がいいかもしれません。」

と蘭はとりあえず日本の伝統文化のルールを言った。そして、いつ、こっちに来られますかと聞いてみる。

「ええ、今日の午後にでもお伺いしてよろしいでしょうか?」

ずいぶん、気が早いお客さんだなあと蘭は思った。でも、今日の午後は特に用事もないことがわかる。

「あ、わかりました。いいですよ。」

というと、

「ええ、じゃあ、一時でお願いします。」

と彼女は言った。

「わかりました。中村真美さん。まず初めに、何を彫りたいか、明確にすることから始めましょう。刺青は消すことができませんから、それを考えて、記念になるものにした方がいいのです。」

蘭は、できるだけ優しくそういうことを言った。

「ありがとうございます。刺青師の先生ってもっと職人気質ではないかと夫は言ってましたけど、先生みたいな人で、助かりました。じゃあ、よろしくお願いします。」

「はい、一時にお待ちしております。」

と、真美さんに届くように、蘭は、声を穏やかにしていった。

「わかりました。喜んで伺います。先生の事務所は、スマートフォンで検索してみたんですが、大体わかります。」

と、彼女はそういうことを言った。確かに自分の家の住所は、多くのウェブサイトに掲載しているので、そこから地図アプリで検索すれば、たぶん間違うことはないと思われる。

「じゃあ、お待ちしております。」

と蘭は、そういって電話を切った。

とりあえず、冷蔵庫に残っていた残り物を食べて、お昼を済ませて、蘭は、中村真美さんが来訪するのを待った。古時計が一時を告げると、同時にインターフォンがなる。

「はいどうぞ。」

と蘭が言うと、中村です、と言って、ガチャンと玄関のドアが開いた。そこに中村真美さんその人が立っていた。長髪を腰まで伸ばした、結構な美人だ。半そでの服を着ている季節なので、腕が丸出しなのは言うまでもないが、右腕は、正常な皮膚が見えなくなるほどリストカットの痕でおおわれていた。これは彫っても傷を隠すことはできないのではないかと蘭は思ったが、彼女にそれを言ってしまうともっと絶望してしまうのではないかと思って、それは言わないで置いた。

「あの、電話した中村真美です。よろしくお願いします。」

という彼女は、左利きだと思われるが、左手にも小さな傷がいくつか見られた。蘭はとりあえず、お入りくださいと言って、彼女を仕事場に案内した。

「どうぞ。」

とりあえず蘭は、彼女にテーブルに座ってもらって、自分はお茶を出す。

「えーと、中村真美さんですね。入れる部位は確か、」

「はい、この右腕に入れていただきたいんです。」

と蘭が聞くと、彼女は即答した。

「そうですか。あの、失礼なことをお聞きしますが、リストカットは何年やっていたんですか?」

この質問には、彼女は、一寸答えを出すのを渋ったが、

「ええ、高校生の時からやってましたから、もう二十年以上になります。」

と答えた。

「精神科とか、そういうところに通ったりもしたんですか?」

蘭が聞くと、

「ええ、通っています。クリニックですけど、なかなかよくならなくて。それで私の両親が、結婚すれば、環境も変わって落ち着くのではないかと言って、親せきのひとに相談して、今の夫と結婚しました。」

と彼女は答えた。

「そうですか。それで、子供さんを設けたんですか。」

蘭は相槌を打つと、

「ええ、男の子が一人生まれました。でも今は私の手元にはいません。帝王切開で産んだので、今、保育器に入っています。」

と、彼女は答えた。

「でも、三か月ほど保育器で生活すれば、家に帰れるってお医者さんには言われています。そうなったら、私たちで育てるわけですが、その前に、お前も過去のことは決着をつけろと、私の家族から言われていて。」

「ああ、なるほどね。確かに息子さんにリストカットの痕を見せるのは、一寸酷ですよね。それなら、刺青をした方がいいというわけですね。」

蘭は、彼女の話を聞きながら彼女の腕を観察する。実はこういう傷だらけの腕というのは、彫る側にとっても苦労するものである。傷を消しながら、図柄を考えなければならないので。

「だから、お願いしたいんです。バラでも桜でもなんでもいいですから、この大量の傷跡、消してください。」

と、彼女は頭を下げた。

「わかりました。電話でもお話しましたが、赤ちゃんが生まれたとか、そういうおめでたい時には、桜は散る、梅はこぼれる、藤は下がる、椿は落ちる、など、縁起が悪い植物は、避けましょう。そういう時ですから、バラのほうがいいのではないですか。」

と、蘭は、彼女に彫る図案を考えながら、そのように言った。

「そうですか、縁起の悪いというものもあるんですか。それは知りませんでした。じゃあ、先生、バラでお願いします。」

と、彼女は言った。

「わかりました。傷跡を消すんだから、赤いバラがいいですね。基本的に薄い色では、この大量の傷跡は消せませんので、、、。」

蘭がそういうと、中村真美さんは、そうですかといった。それでがっかりしないかと蘭は思ったが、彼女の大量の傷跡を消すにはそうするしかなかったのであった。ピンクや水色などの色では対応できない。

「わかりました。赤いバラでお願いします。」

と、真美さんはそういった。赤は確かに、派手過ぎるという人がいるが、彼女はそうとは思っていなかったらしい。

「じゃあ、下絵を描きますから、お時間いただけますか?今回は、人生の節目の刺青ですから、こっちも気合が入ります。」

と、蘭がにこやかに言うと、彼女もうれしそうな顔をした。

ちょうどこの時、がちゃんと音がして、蘭の妻のアリスが家に帰ってきたのがわかった。

「ただいまア。あれ、蘭はお客さんとお話し中?」

全く、人が取り込み中だっていうのに、なんでそんな大きな声出して、なんて蘭は思うのだが、妻のアリスが、そういうことをまったく気にしない人間であるということを知っていたので、何も言わずにいた。

「あ、帰ってきたわ。蘭のお客さんね。お花とかそういうものを入れに来たのかしらね。」

アリスは、昨日買ってきた、辻が花の着物を身に着けていた。

「まあ、お花だけではなく、日本の文化的なことは色いろ知っている人だから、なんでも、相談すればいいわよ。」

アリスは、彼女の腕についた、大量の傷跡を眺めながら、そういうことを言った。

「先生は、幸せですね。」

と、真美さんが言う。

「幸せって何がです?」

蘭が聞くと、

「ええ、だって、外国人の奥さんがいて、奥さんも日本の文化を理解しているみたいだし。」

と、真美さんは答える。

「はあ、それが何なんですか。まさか僕の生活がうらやましいとか?」

蘭が改めてそう聞くと、

「そんなんじゃないんですけど。」

と、彼女は静かに言う。

「なんなのよ。言いたいことが在るんだったら、言っちゃいなさいよ。ここでは、何を言ってもいいことにしているのよ。だって、蘭もよく言っているけど、刺青というのはね、一度入れたら、二度と入れる前の自分には戻らないのよ。」

アリスは、明るい顔をして彼女に言った。そういう外国人特有の陽気すぎるというか、明るすぎるというところが、真美さんにはちょっと癪に触ってしまったのだろうか。

「いいですね。先生は、そういう明るい奥さんがいて。あたしは、心がやんで、みんな親の言う通りにしないと幸せになれない。結婚も、子供をつくったことも、皆、親にすすめられてやったことだし。あたしは、ただ、親の言う通りに生きてきた、ダメな人間に過ぎないって、、、。」

彼女は、両手で顔を覆って泣き始めた。こういう時、聞くのがうまい人だったら、そうかそうか、大変だったなとか、そういうことを言うんだろう。でも、蘭は、そういうことを、いうのは得意ではなかった。

「そんなことないですよ。あなたは、少なくとも、自分の意志で、ここに来てくれたじゃないですか。僕は、そんなあなたを心から応援したいですよ。」

と、そういうことを蘭は言ってしまう。でも、彼女はそういう励ましは望んでいないようだ。彼女は、さらに涙をこぼして泣き始めた。

「大丈夫ですか。じゃあ、下絵を描いておきますから、それが完成したら、電話をしますよ。ほらほら、泣かないでください。あなたはこれから、新しい自分になるんですよ。」

「蘭ったら、ありきたりの事言うから、お客さんは泣いちゃうのよ。もっと彼女の立場というか、そのつらさをわかってあげなきゃダメでしょ。」

アリスは、そう励ます蘭に、そういって注意をした。そういうことが言えるのも外国人ならではだった。

「そういう時はね、君の家は大変だったんだねとか、そういう事を言ってやるべきなのよ。ねえ、お客さん。大変だったわね。きっと、その大量の傷跡を消すために、うちの人のところに来たんだと思うけど、ねえ、どうして、その傷を消そうと思ったのかな?」

アリスは、蘭の代わりに真美さんに言った。真美さんは、答えるのが嫌そうだったが、それを、自らの意志でつぶしたような顔をして、

「ええ、赤ちゃんが生まれたから、うちの家族が、その傷跡を何とかしろと言ったからです。」

と、答えた。アリスは、それを聞いて、にこやかに優しく、

「あたしは、日本で生まれたわけではないから、日本人の家族関係って、あんまり理解してないけど、赤ちゃんにとっては、あなたはたったひとりのお母さんであることを、忘れないでほしいんだけどな。そのために、蘭に入れてもらってよ。」

と、言った。真美さんは、まだ泣いていた。

「あたしはね、この着物が示す通り、昔は桂女、今は助産師という仕事してるのよ。それで、いろいろな若いお母さんを見てるけど、その人たちに必ず言っているのよね。たった一人のお母さんだって。それは誰にも代えられない。あなたはたった一人のお母さんなのよって、教えてるのよ。あなたも、そうじゃないかな。泣かないで、そう考えなおしてもらえないかしら。」

とアリスは、訪問着の袖を示した。辻が花がしっかり入れられた訪問着。間違った解釈かもしれないけれど、桂女が辻が花というものを愛好したというのは事実であり、桂女は、助産師としての役割をになったこともまた事実である。

「お前もたまにはいいこと言うんだな。いつも余分なことばっかり言うくせに。」

と、蘭は、思わずそうつぶやくと、

「何を言っているの。あんたがいつも言いたくても言えないことを言っているだけじゃないの。まったくねえ、日本人は、肝心な時を、言葉で表現するのは、難しいのかしらね。」

と、彼女は笑いながら言った。そして、

「大丈夫よ、傷を消すのは蘭に任せて、あなたはお母さん一年生として頑張って!」

と、中村真美の肩をそっとたたく。真美さんは、涙をこぼして泣きながら、

「はい、わかりました。」

と言って、涙でおおわれた顔を拭いた。

「それでは、よろしくお願いします。」

頭を再び下げる彼女に、

「いいえ、もっと自分を大事にして。」

と、アリスはにこやかな顔で言った。蘭は、こういうことは女ではないとできないだろうなと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

辻が花がやってくる 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る