眠らぬ森

宇佐美真里

眠らぬ森

雨の上がった夜の街を早足で歩く。雨が朝からずっと…ついさっきまで降っていたこともあり、街には人通りも少なかった。


僕は或る物を見失わないように早足だった。或る物…それは、ウサギだ。

街中でウサギを見掛けるなどという奇妙なことに僕は遭遇した。

誰かが飼っていたペットが逃げ出しでもしたのだろうか?

辺りを見渡しても、それらしき人は見当たらない。

不思議なことに、誰もぴょんぴょんと跳ねるウサギには目もくれない。

気付いていないのか?あまりにも突拍子もないことに頭が受け付けてくれないのだろうか?雨上がりの街を行く人たちに、自分の存在を気付かれないままウサギは先へ先へと進んでいた…僕を除いて。


野生のウサギではないだろう。

"野生"…といったって"都会"の真ん中で"野生"もナニもないのだが、とにかくそのウサギは真っ白で、汚れのひとつもないウサギだった。

都会の真ん中にウサギ…。

けっして酔っているわけではない。今の僕はアルコールの一滴も入れていない。疲れているとはいえ充分"正気"だ。


白ウサギは路地を曲がった。僕もそれを追って狭い路地に入って行く。スナックやバーの裏口が並ぶ薄暗い路地だ。

薄暗い中を真っ白なウサギは迷いなく真っ直ぐに進んで行く。

興味本位で追いかけ始めただけだったが、今となっては胸躍っている。

何処に向かうのだ?何処へと急ぐのだ?ウサギくん…。


暗闇にぼんやりと浮かび上がる白いモコモコとしたウサギを追っているうちに、いつしか僕は路地を抜けていた…。そういえば、何だかやけに長い路地だったような気がする。抜けた先に現れたのは深い森だった。路地裏を通っているまでは夜だったはずなのに、何故か辺りは明るい。場所も時間もおかしくなっている。何故?

「森?昼間?何これ?どういうこと?」

一応、確認のつもりで口に出して言ってみる。

僕の口から発せられた声が、僕の耳へと戻って来る。耳に戻って来た言葉にははっきりと現実感が感じられた。

あまりに突拍子のないのことの連続に、半ば呆れながら僕は呟く…。

「ウサギを追って不思議な場所に…って、そんな話があったよな…確か」


深い森だった。

深緑色、暗緑色、萌葱色、木賊色、常盤色、緑青色…どれも濃い緑色だ。そんな色たちが辺り一面を彩っている。

ルソーの絵画を思い出させるような、もちろんルソーの絵画は油彩であるのだけれど、筆圧の高い色鉛筆でしっかりと塗ったような緑たち。

べったりと単色で塗り潰しただけではなかなか其処に深みは出ない。色は其処に様々な色をまぶして行くことで、不思議と逆にその深みを増す。

時には薄い色が点在することで逆に濃さを際立たせるし、全く違う色を散りばめても同じことが起きる場合がある。

所々に…何かの実だったりするのだろうか、赤色や橙色が目に入ってくる。名前も分からない瑠璃色や青紫色の花が、青緑色の葉の鮮やかさを引き立てていた。


「全ての物には色があり、色のない物など存在しない。空気にだって色はある。匂いにだって、音にだって…味にすら色はある。そしてその全てに"深み"は存在するんだ」

どこかで聞き覚えのある声に、僕は目を遣った。


「君か!?」

「そう、僕だ」


若い時間を共に過ごした友がそこに居た。

だが、その姿は若い頃のままだ。と言っても、表情が分かる訳ではない。訳が分からない…。当時の姿の彼はその頭に、ウサギのマスクを被っていたのだから。何故?

それでも彼は当時のままだった。とにかく十代特有の"蒼さ"を体全体に醸し出していたのだから。

対して僕はどうだろう。どんなに控えめに見たとしても、僕の姿は実際の年齢よりも遥かに年を取って見え、疲れを全体から滲み出していたことだろう。


「変わらないね?」僕は言った。

「そうだね。君は随分と変わった」彼が答える。


「どうしていた?」

「別に…。ただ此処にこうして居るだけさ。ずっと…そう、ずっと此処に居て森を眺めている。森を心に映している。ただの"事実"として映し続けている。ただそれだけさ」


「映している…か。そういえば、君はカメラをやりたいと言っていたネ?」

「ああ、そういえば言っていたね」


ウサギのマスクを被った彼は続けた。

「でも、そんな物は必要なかったよ。頭の中にあった。陳腐で使い古された言い回しだけれど、"必要なものは全て頭の中にあった"、そういうことさ」

彼は続ける。

「"本物"は言葉では表すことができない。感じた物を表そうとすればそれは説明的になる。"喩え"たイメージを組み重ねて想像する。もはやそれは"オリジナル"ではない。二次創作さ。だが、その組み合わせを更に重ねていく。すると今度は、それがまた"オリジナル"になって行く。"本物"になる。君の好きなルソーがそうさ。アンリ・ルソーが実は、ジャングルになんて行ったことがなかっただなんて、君は知ってたかい?彼はパリの植物園でスケッチした様々な植物を組み合わせることで、あの幻想的な彼オリジナルの風景を作ったんだ」


「カメラもそうさ。撮った瞬間にそれは"本物"ではなくなる。それは撮った者の"主観"で溢れている。被写体はそこに在るだけだ。それを撮る者の"意思"で切り取るのがカメラさ」


「もう一度言うよ?"必要なものは全て頭の中にあった"、そういうことさ。陳腐で使い古された言い回しだけあって"真実"だということさ。それに気づくのに随分と経ってしまったけれど、幸い僕には時間は腐るほど在るからね」


「そうだね…。」頷いた僕は、少し間を置いて加えた。

「僕には時間に限りがあるけれどね」

彼は「だな…」と短く同意した。


「僕は眠らない。森も眠らない。ただ其処に在るだけさ。君はじっくり眠った方がいい。少し疲れているようだ」

「そうだ…ね。ゆっくりと眠りたいものだ」再度、僕は頷く。


「では、もう行くよ。僕は森を眺めていなければならないから」

「うん、また会おう」僕は手を上げて、彼に振った。


「待ってるよ…焦らずゆっくり来ればいい」

そう言うと彼は背を向けて森の奥へと歩いて行った。振り返ることもなく…。





「だ…ですか?」


誰かが肩を叩いている。

「大丈夫ですか?」

ふと我に返ると、僕は路地裏にしゃがみ込んでいた。

「酔ってます?今、水を持ってきますね」

肩を叩いていたのは紺青色のスリップドレスを纏い、細い煙草を左手に持った女性だった。

すぐ後ろにある扉を彼女は開けて通用口を中に入っていく。

ほどなくして水の入ったグラスと煙草を片手に持ちながら彼女は戻って来た。

「大丈夫ですか?煙草喫おうと思って裏口開けたら、人が座ってたんでびっくりしちゃった…」

そういえば彼女の煙草には、まだ火が点けられていなかった。


しゃがんだまま、彼女の差し出してくれたグラスを受け取ると、ゴクゴク…と一気に飲み干して僕は言った。

「す、すみません…。大丈夫です。助かりました。酔ってはいないんですが、ウサギを追っているうちに路地裏に入り込んで、気付いたら…」

「何それ?洒落のつもりかしら?」

小さく眉をひそめてから、少しだけ口調を初めより崩して彼女は笑った。

「え?」僕は彼女を見上げる。

「だって…」

彼女は通用口の扉を、火の点いていない煙草で差し示した。

「まるで、不思議の国のアリスじゃない…それって」

扉には小さくアルファベットで書かれていた。


『Alice』と。


-了-

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