蛍光

柳成人(やなぎなるひと)

柳瀬川支流の名もない川で

 その昔、一度だけ蛍を見たことがある。


 喉にまとわりつくような湿った風がそよぐ夜で、私は父に手を引かれて歩いていた。今はもうなくなってしまった柳瀬川の支流となる小さな川沿いの道で、兄の他、近所に住む子どもたちやその親も一緒だった。地域の育成会の集まりか何かの帰り道だったと思う。影絵のようにおぼろげな記憶の中で、繫いだ父の手が固くて大きかったことと、もう片方の手には駄菓子がいっぱい入った茶色の紙袋を握りしめていたことだけを鮮明に覚えている。


「ねぇ、見て。あれ」


 一人が言ったのを皮切りに、子どもたちが突然走り出した。


「光ってる」

「蛍だ」

「蛍」


 口々に叫び、小さな影たちが追いかける指の先に、一瞬だけほんのりと光らしきものが見えた。

 私達の親の代には田んぼの上を蛍が飛び回ったそうだが、私が子供の時分にはこの町にも近代化の波が訪れ、田畑や林が次々とコンクリートに塗り潰されていた。残った数少ない田んぼにも農薬が散布され、既に蛍の居場所は無くなっていたはずだった。

 一体どこからやって来たのか、制御を失ったパラグライダーのようにふわり、ほわりと不安定に揺れた蛍は、子どもたちの大きな声に追い立てられ、力尽きたかのように草の上に不時着した。


「珍しいなぁ。蛍だよ。見てごらん」


 大人たちも蛍を見ようと集まってきて、私も父の手を握ったまま人の輪に潜り込み、恐る恐る覗き込んだ。

 どこが土で、どれが草なのかもわからない闇の中でじっと目を凝らすと、さっきまで宙を舞っていたのと同じ小さな黄緑色の光が、切れる寸前の電球みたいに儚げに光った。

 光っている時間よりも真っ暗な時間の方が圧倒的に長くて。何度か瞬いた後にぱたりと光が途絶えてしまったりすると、もう光を発することができなくなってしまったのではないかと不安になった。そうしてしばらく見守っていると、思い出したかのように明滅を始めた。

 息を吹きかけたら消えてしまいそうで、蛍を囲むどの顔にも誕生日ケーキのろうそくの火を見守るような慎重さが浮かんでいたのを、湿った夏草の匂いとともに覚えている。




          ※




 あの時誰よりも先に蛍を追いかけていた兄は、現在は西の方の中核都市に居を構えている。両親の十三回忌もとうに終え、今では顔を合わせる機会もない。毎年代わり映えのしない季節の便りを送り合うぐらいが関の山だ。

 私も一度結婚はしたものの、うまく夫との関係を続けることができず数年後には娘一人を連れて実家に戻った。以来私は家を出た兄の代わりにこの武蔵野の地にある家を守り続けてきた。いや、行き場を失って居座り続けてきたというべきか。

 自分が生まれ育ったこの家で娘を育て、自分と同じ学校に通わせたにもかかわらず、そこで会う父兄達は不思議と知らない人ばかりだった。私と一緒に学校に通っていた同級生たちはみんな知らない土地へと旅立ってしまった。やがて卒業した娘も、勤務先で出会ったという男の人の下へと嫁いでいった。

 狭くて危なかった通学路が拡張され、小学校の前にあった駄菓子屋が小綺麗なアパートに変わり、事故の多い交差点に信号機が立ち、住民が住みやすいようにと町は変わっていくのに、反比例するように私の周りからは知っている人がどんどん減っていった。

 私はこの町で自分が生活できるだけのお金を少しだけ稼いで、自分が食べる分だけ、使う分だけの買い物をして、町内会や婦人会にも求められるがままに参加して、昔と変わらない生活を細々と続けている。それなのに私を取り巻く環境はどんどん変わって行ってしまう。

 私はずっとこの町に住んでいる。それなのにこの町はどんどん私の知らない町になる。ここは私の町のはずなのに、時々妙に居心地の悪さを覚えることがある。

 あの時一匹で 飛んでいた蛍も、私と同じような気持ちだったのだろうか。




          ※




 三月の末、突然娘が孫を連れて帰ってきた。

 連絡の一つも寄越さず、あまりにも急だったからちょっとした仲違いでもしたのかと思ったら、次の日には市役所に行って住所を移してきてしまった。娘と孫の苗字も、私と同じものに戻っていた。

 今さら戻って来られても困る。私には二人を養うようなお金も体力も残っていない。自分たちの都合で別れを選んだのだから娘には不憫な思いをさせたくないと、昼夜問わず遮二無二働いた若い頃とはもう違うのだ。

 ましてや娘一人だけでも必死の思いで育て上げたというのに、孫まで面倒を見るなんて無理な話だ。なんとか元夫とやり直したらどうだ、女手一人で子供を育てるのは想像よりも遥かに苦しいとさんざん言い聞かせたのだけれど、娘はさっさと市役所の臨時職員に職を求め、孫も近所の学校へ通う事になった。私が通い、娘を通わせたのと同じ学校に、今度は孫が通い出した。


 私の生活は大きく変わった。


 昔一緒に住んでいた頃はだらしない生活を送っていた娘も、しばらく離れて暮らす間に生活態度を改めたようだ。孫のためにと早起きしては弁当を拵え、ワッペンの刺繍やボタンつけといった裁縫もそつなくこなした。ツルリと剥いたゆで卵のようだった娘の手は、私と同じ母親の手に変わっていた。

 私の代わりに食事の用意をする事も増えた。娘の作る料理は私と同じ味がするものもあれば、全く知らない家の味がするものもあった。私は慣れない味が苦手だったが、孫はそういうものの方を好んだようだ。

 自然、我が家の生活の全ては孫を中心としたものに変わった。


「ばぁば、これ見て」


 孫がチラシを持ち帰ってきたのは、鬱陶しい梅雨の雨がピタリとやみ、蒸し蒸しとまとわりつくような湿気が立ち込める午後だった。

 端の方が濡れて滲んだチラシには『ほたる鑑賞会』の文字が鮮やかに踊っていた。


「蛍なんてどこでやるの?」

「近いよ。こぶしの里」


 竹間沢こぶしの里と言ったらすぐ隣町だ。かつて鎌倉街道があったという場所に、散策路や民俗博物館が整備されている。しかしながら非常にこじんまりとした施設で、私もだいぶ昔に職場の人に誘われてこぶしの花を見に行ったきり、特にこれといった印象もない地味な場所だった。


「あんなところで蛍が見られるの。どこから連れてくるのかしら?」

「地元の人が清掃活動したり、幼虫を放流したりして蛍の保護活動をしてるのよ。毎年結構な見物客が来るっていうのに、知らなかったの?」


 訝しむ私に、娘は見下したような口調で言った。市役所に勤める娘は、戻ってから僅か数ヶ月しか経たないにも関わらず、もう何十年もここに住んでいる私よりも周辺事情に詳しくなっていた。


「放流って事はやっぱりよそから連れてくるんでしょう」

「でも二、三十匹は天然のものもいるんだって。毎年そうやって育成活動に取り組んでいるから、今はもっと増えてるかもしれないわ」


 私がたった一匹、はぐれ者のようにさ迷う蛍を見たあの夜は、今から数十年も昔の話だ。この武蔵野の地に、また天然の蛍がいると思うと不思議な感じがした。


「ちょうどいいじゃない。光里みつりにも蛍を見せてあげたいし、今度行ってみましょうよ。私だって見たことないし」


 その日の夜、早速私たちは娘が運転する中古の軽自動車に乗って、竹間沢こぶしの里を訪れた。

 足元が悪く、怖がる孫の手を私と娘が両側から握り、川沿いの道を三人で歩く。

 ちょろちょろと泡立つような小川の音に交じって、鼻腔に張りつく湿った空気に、埃をかぶった記憶の引き出しを羽でくすぐられるようなこそばゆい感覚に襲われる。


「ねえ、あれ」


 ホタルがたくさんいるという場所はもう少し先のはずだったのに、孫が驚きの声をあげた。ふわり、ほわりと不安定に揺れながら明滅する小さな光が目に入る。


「わぁ、蛍だ。ママも初めて見た」

「すごい。光ってる」


 二人が見るのとは反対側に、別の光が舞っているのに気づいた。二匹目だ。本当にこんなところに蛍がいるんだ。


「ほら、あっちにもいるよ」


 と孫が指差す。不思議なもので、一匹見つかると蛍は次から次と、まるでどこかから湧くように姿を現した。

 やがてたどり着いた湧き水のほとりで、数え切れないほどたくさんの蛍が乱舞する光景に、私達は言葉を失った。


 まるで星空のように、煌めくという言葉そのままに、明滅しながら空中を漂う無数の小さな光。

 私が昔見たものよりも力強く、活き活きと蛍は光り輝いていた。


 少し先でボランティアと思しき男性が説明する声が聞こえてくる。蛍が光るのはオスがメスを探す求愛行動や、仲間とのコミュニケーションのためである、と。

 それならば数十年前に見たあの蛍は、どんな気持ちで光っていたのだろうか。周囲を真っ暗な闇に囲まれ、応えてくれる仲間もいない中、か細い光を放ちながら彷徨っていたあの蛍は。

 あのまま誰に会う事もできず、一人孤独に朽ち果てていったのだろうか。

 それとも誰かが探し出してくれたのだろうか。


「キレイだね、ばぁば。……ばぁば、どうして泣いてるの?」


 孫に言われて初めて、私は自分が涙を流している事に気づいた。


「なぁに、やめてよね。蛍見て泣くなんて年寄り臭い」

「なんでもないわよ」


 からかうように言う娘から顔を背け、ハンカチで涙を拭う。娘はそれっきり私には構わず、孫の隣にしゃがんで熱心に二人で話し始めた。


「蛍が昔みたいに戻ってくるように、地元の人が頑張ったお陰でこんなに蛍が増えたんだって。どんどん戻ってきたら、うちの方でも見れるようになるかもしれないね」

「そうなったらいいな。うちの方にも蛍が戻ってきてくれたらいいのに」

「川のお掃除とかお手伝いするイベントもあるみたいだから、今度参加してみようか」

「うん。やりたい。お手伝いしたい」

「じゃあばぁばも一緒にやろうかしら」


 割って入った私を、二人は煌めくような笑顔で受け入れてくれた。その光に導かれて、私も仲間へと加わる。

 私もまだ、彼女達のように光を放つ事が出来るだろうか。

 気がつけば私達は、光り輝く無数の蛍光に包まれていた。

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