『チョコレート・ティー・ポット』
横山 睦 (むつみ)
『チョコレート・ティー・ポット』
さらさらとしたチョコレートがわたしの中に流れている。
まだ乗客は多く、どの席も空いていない。扉が閉まり電車が静かに動き出す。電車の窓に映るわたしの顔は、24歳には見えないほど老けて見える。仕事の疲れが顔に表れていると言った方が正しいのかもしれない。
いや、ほぼノーメイクだからそう見えるだけ。わたしだって、女優さんのようにメイクをすればカワイイ女性になれるんだから。と、わたしはわたしに言い聞かす。
それよりも髪の長さが気になる。高校生の時からショートカットなわたしは肩より長くなる前に必ず美容院に行っていた。今のわたしの髪は肩よりもずっと長い。
テレビ番組などを企画・制作する会社で、アシスタントディレクターとして働くわたしの1日はとても長い。ロケ地での撮影がある日は始発の電車に乗ることが多く、今日も、その日だった。
番組に出演する芸人さんのスケジュールの都合で朝早くから1本目を撮り、お昼までには2本目を撮り終えなければいけない。所属先の事務所との関係で拘束時間などが細かく決められている。それに比べて、裏方であるわたしは誰からも守られていない。
仕事はアシスタントディレクターと言っても、先輩ディレクターの雑用係である。今日は、多めに用意するはずだったお茶とお水を切らしてしまった。
「お茶を用意していないなんてありえない。それがお前の仕事だろ!」
先輩ディレクターの怒鳴り声が響き渡る。
わたしは仕事帰りの電車の中で、その日の怒られたことをまた思い出してしまう。
わたしはまだ電車から降りない。この駅で降りたら電車に乗った意味がない。タクシーに乗るほどのお金を、わたしは持っていないから。
自分が企画したテレビ番組を作ることが、子どもの頃からの夢。わたしは期待と不安を抱えて東京に出てきた。
上手くいかなくて怒られてばかりの日々。仕事に行くことが嫌な時も、夢の為だからと必死に耐えてきた。
「お前は役立たずだ!」と、どれだけ言われてきたことだろうか。
わたしが働く会社は、いわゆるブラック企業だろう。〝やりがい
窓の景色は、
電車に揺られながら、今日の出来事が頭の中で再生される。わたしは周りに気を配りながら、仕事の遅れを取り戻そうと働いた。
収録の休憩時に、番組を盛り上げてくれる芸人さんが1人で座っていた。スマホの画面を見ながら暗い表情で溜息をついていた。
「お茶かお水どちらが良いですか?」
突然、アシスタントディレクターのわたしに声を掛けられた芸人さんはキョトンとした顔をしていた。ほどなくして、ニコッと笑ってくれた。
「じゃあ、お水を貰おうかな」
わたしが用意していたお水を手渡すと、芸人さんは小包装されたお菓子のチョコレートを1つわたしにくれた。何気ないやりとりが嬉しくて、常に緊張感で吐きそうになっていたわたしは気が緩み、その場で涙が溢れてしまいそうになった。
「おいっ、早くこっちに来い!」
先輩ディレクターの声が聞こえた。わたしはチョコレートをズボンのポケットにしまうと呼ばれた方に走った。
「……ありがとう」と、芸人さんのつぶやきが聞こえた気がした。
電車は
先輩ディレクターはわたしのことを「お前」か「おいっ」と呼ぶ。たまに、あだ名の「チョコ」で呼ばれる日もあった。
わたしの名前は「
だから、先輩ディレクターがわたしのことを「チョコ」と呼ぶことに対して何も思わなかった。自然に受け入れていた。
先輩ディレクターが「チョコ」と呼ぶ本当の意味を知るまでは。
ほとんどメイクをしないわたしには理由が何個かある。朝早くに家を出て、遅い時間に家に帰ってくるわたしは睡眠時間を多く確保したい。出来ることならば、ずっとベットで寝ていたいと思う。毎日のメイクの煩わしさは男の人にはわからないかもしれない。
社会人としての身だしなみと言われるかもしれないが、仕事の現場で日差しを気にして、何度も化粧直しや日焼け止めクリームを塗る女優さんとは違い、必死になって汗水流して働くわたしには崩れる化粧を直す時間は無いのだから。
小麦色に焼けた肌をしたわたしの見た目を揶揄して、先輩ディレクターは「チョコ」と呼ぶ。
「食べるとマズそうだからやめておく」
隠れた場所で煙草を吸いながら、先輩ディレクターはわたしについて、そう言っていたそうだ。
わたしは怖くて、その発言の真意を聞くことが出来ない。
差別の意味で「チョコ」と呼ぶことが許せない。女性を何だと思っているのだろうか。わたしは思っていても口に出して言えない。もう言い返す気力さえ無い。
まだ怒鳴り声が耳に残っている。わたしに向けられた理不尽な怒りの表情が頭から離れない。
「こんな企画書じゃダメだ! ありきたりなアイディアを持ってくんな。お前の頭の中は何も入ってないのか!」
わたしはどんなことを言われても、絶対に仕事場では泣かないと決めていた。泣いている姿を先輩ディレクターに見られたくないというよりも、番組収録の邪魔になってはいけない、良い番組を作る為に泣いている時間は無いと強く思っていたから。それはわたしの意地だった。
芸人さんは、何も無いゼロの状態から笑いを生み出す。人を笑わせて元気にさせることが出来る。持って生まれた才能に憧れて、その引き出しの多さに感心し、数多くしてきたであろう努力に対して、わたしは心から尊敬している。
苦悩を抱えながら、それでもカメラの前に立ち続けていることをわたしは知っている。
夢を叶える為に逃げることなく居場所を守り、求められるままに強くあり続けないと、この世界では生きていけないのだろうか。
何人かの乗客が電車から降りていく。空いた席にわたしは座ることが出来た。
ここまで来たら、あとちょこっとだけ我慢しようと思っている。わたしはそんなに強くない。あと少しだけでいいから。
企画書の紙で指を切ってしまった。
芸人さんに貰ったチョコレートを思い出す。わたしは慌てて、ズボンのポケットに手を入れた。
夏の暑さで、小包装されたチョコレートはドロドロに溶けていた。
今日こそは、仲が良かった高校や大学時代の友達に連絡をしてみようか。そういえば、送られてきたメールの返事を何日も返していないことを思い出した。わたしのことを心配してメールを送ってくれたのに、わたしは何と返事を送ればいいのだろうか。
「しんどい」と、一言だけでも言えればいいのかなぁ……。
将棋のように
こんなわたしの話を聞いてくれる人はいるのだろうか。
わたしから急にこんなことを言われても、負担になるよね。きっと迷惑だよね。
わたしはいつの間にか疲れていたんだね。自分では気がつかないよ。SOSのサインの兆候が表れていたのに。
あるはずのないチョコレートが音を立ててポキッと折れた気がした。
電車に乗っている人が少なくなった。ここまで来れば、仕事関係の人と偶然会う確率は減るだろう。やっと、わたしは緊張から解放される。
毎日、武蔵野台地を電車にガタゴトと揺られながら23区の都心に闘いに行っている。わたしは他人と比べて勝負をする為に働いているわけではない。自分自身に負けたくないから。夢を諦めたくないから。それだけ。
国分寺駅を越えてすぐに
わたしは決めていることがある。仕事中も耐えて、帰りの電車の途中まで我慢して、野川を越えてから、1人で涙を流す。
電車の中で号泣するなんて、おかしい人と周りからは思われているかもしれない。でも、わたしは今日1日、こんなにも我慢したんだから。これ以上耐えることは出来ない。ごめんなさい。許してください。
わたしはわたしを保つ為に大粒の涙を流す。化粧の心配をしなくてもいいのだから。
たくさん泣いて、悲しさや悔しさや憤りを全部まとめて涙と一緒に流す。
女だからすぐに泣くとか、女は涙で全てを解決させるという意味で言っているのではない。男の人だって、男だから泣いちゃいけないとか、弱音を吐いちゃいけないという考えはわたしは違うと思う。泣いてもいい。
わたしは毎日、帰りの電車の限られた時間で泣く。そして、明日を迎えたい。その日々の繰り返し。
明日どうなるかなんて、わたしにはわからない。人間は
どうせ生きるなら楽しく笑って生きたい。
今日はもう深夜だから明日になったら友達に連絡をしようと思う。仕事を辞めることになるかもしれない。それでも夢を諦めなければ、生きてさえいれば、きっと何とかなると信じている。
仕事先の同僚から着信があった。電車から降りた時に折り返しの電話をしようと思っていると、その同僚からメールが届いた。
「先輩ディレクターがチョコと呼ばれる違法薬物の所持で警察に捕まった」
人生はいつ何が起こるかわからない。
電車が
涙を拭ったわたしは最寄駅のホームに降り立った。もうすぐ日付が変わる。
家に帰ったら溶けてしまったチョコレートをすぐ冷凍庫に入れようと思う。たとえ元の形に戻らなかったとしても、時間が経てば固まってくれるから。デコボコなチョコレートもわたしは好きだから。
明日、今日よりも好きになりますように。
『チョコレート・ティー・ポット』 横山 睦 (むつみ) @Mutsumi_0105
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