第4話

「調べた結果、だな」


 閻魔が仰々しく真っ黒な閻魔帳を捲り、目的のページに折り目を付けるように抑える。


「お主は地獄にいるべき人間ではないことが発覚した」

「……どういうことだ?」


 言うことは言ったと椅子にどっかりと腰掛ける閻魔に、答えない男に代わり俺が尋ねる。

 俺の疑問、いや、俺たちの疑問に閻魔は逞しい顎髭を撫で付けながら、


「言葉の通りだ。お主はここにいるべきではない。人間よ」

「……だが、俺が地獄に来させられたのは百人を殺した罪のはずではないか」

「うむ。そうなのであるがな。そもそもお主の時代と今の時代では殺人の罪の価値観が違うのだ」


 ……いよいよわからなくなってきた。俺は諦めて地面に寝そべる。男も未だに混乱しているようで、ぼうっと立ち尽くしていた。

 それを見かねて、閻魔はさらに説明を重ねる。


「つまりだ。お主はおよそ六百の年月を死者の国の入り口で過ごしたために、現在の罪の価値観に入れ替わり地獄に来てしまった。お主の時代では、国のために人を殺めることはいかなる場合でも人数でも“善”であったはずだ。そうだろう?」

「……それは、その通りだが」

「うむ。今の時代は人一人殺めるだけで重罪。ここの人間は大抵そうであるな。して、お主はなぜ罪の概念が変わるほどの長い時を死者の国の入り口で阿呆のように立って過ごしていたのだ」


 閻魔が純粋な疑問を男へ投げかける。男は困惑顔のまま答えた。

 俺たちは男の返答をじっと待つ。


「姫様は、俺よりも後に死んだはずなのだ」


「姫様は、間違いなく俺の手を最後に握ってくれた。だから俺はその時、この人を守って良かったと心の底から感じた。だから、きっと姫様もいずれここに来るだろうと思って、ずっと、ずっと待っていたのだ」

「そうか。しかし、それはお主の幻想だったやも知れぬ。お主の姫は、先にこの国に入っておる。天国にな。お主は一歩遅かったのだ」


 それを聞いて、男の頬が緩んだ。そのまま涙腺も緩んだのか、男が真上を向く。この地獄で唯一白色の装飾があてがわれた閻魔の部屋の天井は、涙を堪えるには少し神々しすぎる。

 男はその状態のままじっと動かずにいた。


「……俺は、六百年も待っていたのか」

「うむ。とんだ徒労であったな」

「そうだな……」


 クツクツと男が笑い始める。その中には嗚咽も混じっているような気がしたが、俺は気にせずに男の足下へと歩みを進めた。そして俺の自慢の体毛を太い筋肉質の脚にこすりつける。


「よかったじゃないか」

「……ああ」

「この世界に来て初めて見た。お前のような善人を。俺はお前がここに来てくれたことを嬉しく思う」

「それは、どんな喜びなんだ?」


 男が力なく笑うと、俺も釣られて笑みがこぼれる。男は俺の頭を乱暴にかき回して、満足したら閻魔に向かって言った。


「俺を、姫様の元へ連れて行ってくれ」


 ―― ―― ―― ―― ――


 あれから善人というものを久しく見ていない。


 人間はみんな醜いし、卑劣だし、見ていて気分は決して優れない。あの男がどれだけイレギュラーだったのか。それが身にしみてわかる。


 あいつがいなくなってから一日に三人は下層へ落としているし、ひと月に三人は噛み殺してる。もう気が滅入ってしまいそうだ。


 余談にはなるが、俺も現世の価値観の違いによりこの地獄にまぎれ込んだ存在のひとつだ。当然だろう? なぜ閻魔の部屋に番犬がいるのだ。俺が守るのは冥府の門であったはずなのに、いつの間にかこんなところに来てしまった。しかもそれを疑問に思う人間がいないのだからなおさら不思議である。

 それと同じように、あいつは現世の概念に巻き込まれて地獄へやってきてしまったのだな。今考えれば、「ローマ」というのはイタリアの首都ではなく、歴史上の「ローマ帝国」であったのかもしれぬ。俺にはわからんがな。


 まあそんなことはどうでもいい。


 ただ、俺はたまに思うのだ。


 罪人よりも、凡人よりも、単なる善人よりも、


 命をかけられるほど何かを一途に愛す者の方が美しい、と。


 また今度、天国にでも顔を出してみよう。果たしてその姫は可愛いのだろうか。などと思いながら、俺は地獄の火の隣でうとうととうたた寝をしたのだった。

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地獄の名犬ケルベロス 今野 春 @imano_haru

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