終章 雨ふる夕暮れ

 六月五日。

 夕陽が河川敷を照らす。西の空は鮮やかに色付き、対して、東の空は前日荒れた風を引き連れて雨雲が蔓延っている。空の境目がちょうど、河川敷の真上だと錯覚した。灰色の雲からは蕭々と頼りない雨の雫が落とされる。

 死神がふらりと立ち寄った土手には水溜りが張ってあった。何の気なしに視線を下げ、眺めてみる。向こう側から人間の気配がした。近付いてくる足音をぼんやりと聞き流す。すると、足音は死神の目の前で止んだ。

 「やっほー、死神サン」

 顔を上げれば、其処には見知った顔が畳んだ傘を片手に立っていた。灰色のブレザーに袖を通し、紺色のネクタイが緩んでいる。学生鞄は持っていないようだ。

 「久しぶり。っつっても、あれから二日しか経ってねーけど」

 仕事終わり? などと軽快に訊ねる。死神は答えなかった。端から期待していないと相手は続ける。

 「いやー参っちゃうよ。たったの数十時間だけなのに、喉が枯れるまで喋ったり、頬が攣るまで笑ったり、言葉を選ぶために知恵を絞ったりさあ。おまけに父親からの電話が出れなかった時は、もう来るわ来るわ電話の嵐」嫌になるね、と肩をすくめる。

 「織部郁、夕凪透真はどうしている?」

 さもどうでもいいと会話を断った死神に、織部は一瞬不満を顔に出したが、口にはしなかった。

 「透真くんは元気そうだよ。一応ね。依澄ちゃんと話せたからか、前より暗い顔をしなくなった。俺がここ二日くらい視える事について詳しく話しても、顔色は変わらなかったよ。おかげでこっちは喉がカラカラ」

 「両親は?」

 「実際に見た訳じゃないけど、依澄ちゃんの言葉を聞いて哀しんではいなかったらしい。むしろ『幸せにならないとあの子が悲しむ』って笑顔を見せたんだって」

 「お前はどうだ?」

 「俺? さあ。どうだろうね」

 一際眼光を鋭くした死神を見て、織部は慌てて「誤魔化したわけじゃない」と言った。

 「自分でもよく分かってないんだ。確かにあれから二日経って、ちょっとだけ、心から笑えるようにはなってるんだよ。でもやっぱり、あの時依澄ちゃんが俺を庇った事が尾を引いててさ。一回思い出すと、もっと話したかったなとか色々考えちゃうんだよね。これは多分、透真くんもそうだと思う」

 そう簡単に割り切れない。透真は一見元気に過ごしているが、きっと織部と同じような理由で深く眠れていないだろう。その証拠に今朝会った時、くっきりと隈があった。目も少し赤かったから、恐らく泣きもしたのだろう。

 織部もまだ心の傷が治っていない。罪悪感だって未だに心に棲みついている。依澄が消えたあの日、傍に優里が居たから涙は流さなかった。だがそれでも、彼女の消滅は織部にショックを与えたのだ。

 「——まあでも、何とかなるでしょ。毎日人が死んじゃうような世界だけどさ、俺はあの子と会えたこの世界を嫌わないって決めたんだ。そう易々と忘れて堪るかっての」

 「そうか。ならば、我が心配する必要もないな」

 「心配してくれてどーも。もちろんだよ。こっから先は俺たち人間次第。死神サンは関わっちゃいけない。そうだろ」

 片眉を上げてニヤリと口の端を歪める。死神が首肯した。

 「あっ、そうだ」織部がたった今思い出したとでも言いたげに声を上げた。「優里チャンの事だけど、視えるのってどうにかなんない?」

 遠坂優里がどうかしたのか。そう死神が尋ねると、織部は空いた手で頬を掻いた。

 「幽霊自体は悪霊以外害がないから良いんだけど、人じゃないモノの中に悪さを働く奴も居るじゃん。優里チャンもそういう奴に追いかけられたみたいなんだ」

 つまり、怖がっていると。事態は把握した。

 命に危険があって視えるようになった者は一時的にそうなっているだけだ。少し時間が経てば自然と視えなくなるだろう。死神がそう伝えると、織部は困った顔をした。

 「少しってどれくらい?」

 「決まっておらぬ。一週間後の可能性も、一年後の可能性もある」

 「じゃあ、十年後の可能性だってあるわけだ」

 「ああ」

 「……」

 分かってはいたが、では、どうすれば良いのだろう——そんな顔つきだ。死神は降ってくる雨雫に気を取られながら、言った。

 「お前が傍に居てやれば良いのではないか? 女好きのお前には喜ばしい事じゃないか。それに、織部郁は狙われ難い体質だろう」

 「そうだね……て、いや。いやいや。確かに俺は嬉しいけど、俺が傍に居るってのは駄目だろ」

 「何故だ。お前も怖いのか?」

 「怖くはねーよ? でも、優里チャンとしては、俺みたいな他人が傍に居る方が怖いでしょ」

 「そういうものか」

 「そういうもんだよ」

 結局、解決策は出ないまま、この話題は終わった。

 「じゃあ俺は帰るよ。また電話が来たら嫌だし、喉も渇いたから」

 「承知した。今後一切、我の仕事の邪魔はせぬようにな。もうそんな必要もないだろうが」

 「うん」

 ひらひらと気怠げに手を振って死神に背を向ける。その背を見送る事なく、死神も河川敷を去ろうとした。

 ふと、夕陽が目に入る。雨は優しく地に落ちて、草木が風で騒めく。水の流れる音が妙に耳に残った。

 予感がした。

 周囲に目を走らせる。織部の姿が遠くの方に見えた。声がする。死神の名を呼ぶ声が。



 「——死神さん」

 はっきりと、聞こえた。



 目前に夕陽を背に佇む少女が現れた。思いがけず、瞠目する。

 「……何故、夕凪依澄が」

 呆然と呟くと、彼女は「びっくりした?」なんて悪戯が成功したと言うように笑う。

 「消えていなかったのか」

 生者と同じように在る手と足。違いといえば、その身体が半透明なだけ。

 「多分、これが」

 依澄が取り出したのは、携帯電話だ。星型のストラップが光に反射して煌めく中、その中心に大きくヒビが入っているのが伺えた。

 ——そうか。

 気が抜けた。しかし、即座に気を引き締める。彼女の身体が壊れかけているのは目に見えたからだ。どうやら時間がないのは変わらないらしい。

 「未練はないな」

 「もうないよ」

 その返事をしっかり聞き届ける。

 「これ、持っててほしいの」

 依澄が差し出したのは、先程の携帯電話。廃ビルでも同じ事を口にしていた。今度は躊躇わずに受け取った。

 「ねえ、死神さん」依澄は何もかもが吹っ切れた笑みを浮かべる。

 「何だ、夕凪依澄」死神は知らぬ内に、口角が上がっていた。

 「あのね」

 東の空から雨が贈られ続ける。意識しなくとも自然の音が耳に飛び込んで来た。

 依澄が囁いた言葉を聞き取り、死神は堪えきれないといった形で噴き出す。暖かな夕陽の光が二人を包み込んだ。

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雨ふる夕暮れ 凩玲依 @rei0624

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