第三章 記憶の雨
1
時を遡る事、およそ一ヶ月前。
織部は人気の無い河川敷で男からお金を受け取っていた。
『千円〜一万円で霊を払います』そうネットに書き込んだのが一年ほど前。最初の方は疑われてばかりだったが、一年経った今では結構な額を稼ぐ事が出来た。
今日もそうだった。三十路の男が「最近、肩が重いんだ。きっと霊に取り憑かれた。祓ってくれ」と依頼し、それに応じた織部は無事依頼を遂行し、報酬を貰っていた。と言っても今回はニ千円だった訳だが。
「ありがとう! 君のおかげで肩が軽くなった!」
喜んで肩を回す男に、内心ほくそ笑む。
「そりゃあ良かった。暫くは霊も近寄れないと思うんで、安心して。……あ、でもおっさん憑かれやすいから気をつけろよ?」
お決まりの言葉を口にする。男は簡単に信用した。その傍らに未だ霊が居るとも知らずに。
「ねえ。四日だけこの人から離れれば良いのね? その四日だけ? あとは好きにしても良い?」
草原に垂れ下がる長い髪の女の霊が尋ねた。女は男に執着しているようだ。だから説得するのも骨が折れた。だが最終的に自分に得があるならば良い、と考えたのか女は織部の提案を呑んでくれた。
男に気付かれないように軽く頷くと、女はス、と気配もなく姿を消した。
「じゃあねー、おっさん」
女が悪霊でないのが唯一の救いと言える。織部は河川敷から去っていく男に細やかな同情と応援の気持ちを抱く。
「にしても、愛されてんなー……」
羨ましくはない。霊に愛されたとて報われないのだから。だが、それで荒稼ぎしている自分は最低なのだろうな、と思う。詐欺に近い事を続けているのだ。いつかは何処かの誰かさんに糾弾されるだろう。
それはそれで仕方ない。いっそそうなる前に消えてしまおうか。そんな事を考えつつ、織部も河川敷を去ろうとした。
「こんな所で何してたの?」背後から声が聞こえた。
興味と緊張が織り混ざった声を出した人物は、後ろを振り返った織部を見つめていた。キラキラと瞳を輝かせて、先ほどの織部と男のやり取りの詳細を知りたいと身を乗り出す。
これが好奇心旺盛の彼女との出会いであり、初めての会話だった。
隠す必要もない。織部は自身に人ならざる者が視える事と、それで金を稼いでいる事を話した。
常人なら、前者は気味が悪いやら嘘つきやら言いたい放題になり、後者は最低だとかもうやらないようにとか罵ったり諭したりしてくるだろう。その反応は慣れているから最早何とも思うまい。
しかし、彼女は違う反応をして見せた。
「へえ。視えるんだ」
淡白とした言葉に驚く。危うくそれだけかと突っ込むところだった。さらに驚くことに、興味なさそうな言葉とは裏腹に表情は好奇心で満たされていたのだ。そこでようやく今まで会った事のないタイプだと直感する。
「どんなのが視えるの? 人ならざる者ってことは、幽霊とか妖怪とかだよね。もしかして龍とかも視えたりする⁉︎」
「龍……一年にニ、三回くらいの頻度で見かけるくらいだね。話した事はない」
「神様は⁉︎」
「たまに……? でも神サマは忙しそうだから、長く話した事はねーな。今は死神くらいしか話してくんないいし」
死神と聞いて彼女の顔が固くなる。恐れているのだろうか。
「大丈夫。死神って言っても人の命を奪うとかそんなんはしねーから」
安心させるために笑いかけると、彼女は「そうなの?」と瞬きを一つ。思えば、こうやって誰かに自分が見て来た景色を話すのは初めてだ。他とは違う見え方をするこの眼が、今だけは好きになれそうな気がした。
それから二人は夕陽が山間部に消えてゆくまで話し込んだ。元々夕方だった頃もあり少ししか時間はなかったが、それでも楽しく談笑出来た。
「家まで送っていくよ。この時間帯は色々と危ないし」
逢魔時と云われる時間帯は、人でない者が中心になる。夜までずっと外に居るのは危険だ。特に女は狙われやすい。善意でそう持ちかけると、彼女は首を横に振った。
「そこまでしてくれなくても良いよ。視えないなら狙われにくいんでしょ」
確かに視えないだけで襲われる確率も減る。しかし……。
「分かった。じゃあこれ持ってて。俺は視えても狙われない体質だから、その俺が持ってた物はお守りみたいになる。もし死にそうな目に遭っても、きっと役に立つと思うよ」
手渡したのは、身につけていたスマートフォンの星型ストラップ。万が一襲われても、これで守れるだろう。
「ありがとう。じゃあ」
彼女は暗くなる空の下を歩いていった。
翌日から織部は河川敷で彼女と雑談をして、夕暮れになればそれぞれ自宅に帰るというのを繰り返した。
会話に差異はない。織部が視えるものについて語り、彼女はそれを可笑しそうに聞く。それだけだった。
出会ってから四日が経った。その日は珍しく人ならざる者の話ではなく、世間話をした。
「今年の台風はいつ大きいのが来るか分からないから、大きな木は撤去するってニュースで流れてたけど、それってどうなんだろう」
彼女は不可解そうに首を傾げた。
「確かに。木にだって命があるんだし、その土地の神サマが許すかもわからねーもんな。人間に被害が及ぶ可能性があるからって、俺はやめといた方が良いと思うなあ」
「あ、やっぱり? 何でもかんでも人が中心になる世の中だもんね。私も人の事言えないけど」
「俺も言えないよ。……まあ、仕方ないんだろ」
「そうだね」
何気ない時間を過ごして、語って、帰る。
次の日は雨が降ったため、傘を差して歩きながら霊や妖怪、神秘的な存在について話した。
六日目、河川敷で彼女を待っている間、織部は考えた。
ここ数日は彼女と話していたため、金を稼いでいないのだ。世間的には喜ばしい事だろう。しかし依頼が来ても取り合わなくなった織部に、依頼人はどう反応するか。目に見えていた。
詐欺の真似だとバレる前に手を打たねば。何か大変な仕事を請け負っていた事にしようか。それならば証明が要る。手っ取り早く写真でも撮ってネットに上げよう。そして適当に誤魔化すのだ。
携帯電話でそれっぽい場所を調べる。するとちょうど近場に廃ビルがあると分かった。そこの写真を撮ろう。頭の中で計画を立てていると、彼女が来た。
「今日は何を話してくれるの?」
いきいきと問いかける彼女を制し、「今日は俺、行きたいところがあるんだ」と言った。
「ごめんね。また明日話そう」
一言謝って目的の廃ビルへ向かおうとした時、彼女が織部を引き止めた。
「私も行っていい? その廃ビルに行くんでしょ」
見られていたか。仕方なく織部は了承した。
廃ビルは立ち入り禁止の看板が立てられていたが、思っていたよりボロさはなかった。壁の色が剥がれ落ち、草木が無遠慮に生えている。それだけのように見えた。噂も何も聞かないし、本当にただの使われなくなったビルなのだろう。
「中は危険だから待ってた方が……」
「私も行く。こういうの楽しそうだもの!」
好奇心が擽られたらしい。彼女は後に引かなかった。
屋上まで見て回り、写真も撮り終えた。空と近くなった事で空気が澄んで感じる。ビルの屋上とはこんなものか。学校とはまた違う。
欄干に手を置いて下を見る。
ふと、此処から落ちたら死ぬのだろうかと考えた。痛いだろうか、怖いだろうか。だが草木で命拾いをしそうだ。別にそのまま死んでしまっても——
「あっ、もう帰らないと。今日は宿題が多いんだった」
ぼうっとしていた意識が急速に自分へ戻ってきた。我に返った、と言うべきか。
織部は彼女と廃ビルを出た。自宅への帰路に着きながら、織部は屋上から覗いた下の景色を思い出していた。
その後、家で撮った写真をネットへ上げて、誰もいない自室でそのまま寝落ちした。
七日目。織部は河川敷に行かず、廃ビルへ向かっていた。
自分が河川敷に居なかったら彼女が困るだろうかと思ったが、仕方ないと割り切る。
——仕方ない。
この言葉はもう口癖のようなものだ。
幼い頃から目にして来た景色は、周りの人と違った。だからよく言われたのだ。「織部さん家の郁くんは嘘つき」だと。
祖母の血を受け継いだだけでどうしてこんな思いをしなければならないのか。幼いながらに憤りを感じたのを覚えている。だがそれ以上に、誰も信じてくれない事に絶望した。両親でさえ、信じてくれなかったのだ。母は自分と話す事を拒絶し、父は世間体を気にしているのか監視の電話を毎度入れてくる。
うんざりだった。生きていても、生きた心地がしなかった。霊を払うという名目で金銭を稼いでいたのも、元はと言えば霊がどうな気持ちでこの世を彷徨っているか知りたかったからだ。ついでに金が手に入れば何処か遠くへ行けるんじゃないかと微かな希望を抱いた。
だからそんな時に彼女と出会えて、少し救われた気がした。視える事を信じてくれて、嬉しかった。それに彼女は織部と少し似ている。孤独を嫌う気持ちもよく分かった。……まあ、もう遅かったのだが。
織部がビルの屋上へ足を踏み入れると、昨日と変わらぬ景色が広がっていた。珍しく霊がいない場所。空で人ならざる者が飛んでいたりしたが、もう気にならない。
欄干に手をかけた。
この世に未練があるとすれば、河川敷に居るだろう彼女の事だ。いきなり居なくなる事になって申し訳ない。彼女はまだまだ話を聞きたがっていたのだから。
「……自分勝手だよな」
でも、仕方ない。そうなるしか自分を保てなかったのだ。今も昔も、この世から居なくなりたいと思う気持ちは変わらなかった。
その気持ちに終止符を打つ。それだけなんだ。
空気を肺いっぱいに吸い込む。恐怖心はなかった。いざ落ちようと体を傾ける——ぐいっと後ろへ腕を引かれた。
「何してるの、織部さん‼︎」
どうして。戸惑う織部に構わず、彼女は腕を強く掴んで離さない。
「私がここに来た理由が知りたいなら、こっちまで戻って!」
彼女には悪いが、織部はその場を動くつもりはなかった。彼女は察したのだろう、そのままの体勢で口を開いた。
「……死にたかったんだね。何で、なんて聞かない。そうだろうなって思ってたから」
驚いた。まさか気付かれているとは。
「でも、勝手に死のうとしないで」
「ごめん、依澄ちゃん。でも俺は、」
それでも生きるのが辛いから、逃げさせて。そう言おうとしたが、彼女に遮られた。
「私ね、死んだ後の世界ってどんなものか知りたかった」
「は」急に何を、と織部は目を剥く。
「虐められてるわけでもない、恵まれた環境で過ごしているはずなのに、いつもしんどかった。だから死んだらどうなるのかって考えて、でも、結局足が竦んで……そんな時、死後の世界を教えてくれたのは、織部さんなんだ。貴方のおかげで死の世界に興味が失せた」
つまり、彼女も死を望んでいたという事か。今は違えど、自分と同じように死にたがっていたと?
「織部さんもさ、そういう人が居るでしょ。視えていても傍に居てくれる人が。私と出会う前から、居たでしょう」
誰の事を言っているのかと思ったが、脳裏に一人の友人の姿が過ぎった。
「あ……」思わず声が漏れる。「透真、くん……」
どうして気付かなかったのだろう。初めて彼女の名前を聞いた時、聞いたことがある苗字だと思っていた。顔立ちも仕草も似ているのに、友人と彼女の苗字が同じである事に、何故気付けなかったのか。
バンッと大きな音を立てて屋上のドアが開く。そこには織部の友人が居た。
「おい、織部! 何ふざけた事してんだ!」
開口一番怒鳴られ、萎縮する他なかった。
二人の兄妹に、生きてて良いと言われた気がして、涙腺が緩む。
織部は欄干を乗り越えて二人の元へ駆け寄ろうとした。
「……ッ」
あっと思った時には、もう遅かった。
廃れたビルの欄干がそんなに丈夫なはずがない。それを失念していた織部の体はぐらりと傾く。一部だけ取れかけていたのだろう、織部の手が掴んだ欄干は屋上から降下し出す。
「織部っ!」
「織部さんっ!」
彼女が織部の腕を思い切り引いたのが分かった次の瞬間、織部は屋上の冷たいコンクリートに放り出されていた。何が起こったか理解出来なかった。
「——依澄ッ‼︎」
耳に入ったのは、友人の妹の名を叫ぶ声。
目が捉えたのは、赤い空の中で笑う彼女の姿。
咄嗟に伸ばした手はもう、依澄に届かなかった。
2
織部の口から紡がれた出来事は、記憶のない依澄にとって最早未知な話だった。だって自分が死にたいと思っていた事も覚えてないのだ。一体、何時からそんな風に考えていたのかと過去の自分に問いたい。
「ごめん。……謝ったって遅いって分かってるけど、でも、俺のせいで君は……」
混乱しているのもあり、そんな事ない、なんて軽々しく言えなかった。辛うじて言えたのは、話してくれた事への感謝だけ。
「夕凪依澄、まだ思い出せぬか?」
それまで静観していた死神が言った。
「うん……話してくれた織部さんには悪いんだけど、何にも思い出せない」
織部の視線が地面へ向けられる。依澄が思い出せないと言った事に気まずさを感じたのだろう。
「……」
死神が考え込むように顎に手をやった。
「夕凪いず……」
その時、ピロロっと辺りに響く着信音で下を向いていた織部が顔を上げた。依澄たちに一言断りを入れてからズボンのポケットから携帯電話を取り出し、それを耳に当てる。
「もしもし、父さん」
電話の相手は父親か。そう言えば、織部が依澄に衝撃的発言をした時も電話が来て話が逸れたのだったな、と苦々しく思う。織部の言葉を借りるなら、彼の父親は監視のために一定時間ごとに電話をかけているのだろう。織部の境遇には同情するが、彼は同情さえもされたくないはずだ。
電話を終えた織部は携帯電話の電源を切りながら、顔をしかめて言った。
「依澄ちゃん、ごめん。父さんが帰って来いってうるさいから帰るよ。何か聞きたい事があったら言って。……じゃあね」
織部は明るく笑った。その切り替えの早さは慣れによるものだと気付いた。
河川敷に背を向けて道を行く織部を見送って、依澄は草原に座り込む。緊張が一気に解れた気分である。
「どうした、夕凪依澄」
隣に寄り添ってくれる死神のおかげで、ゆっくりと心が落ち着いていく。
「びっくりしたの。織部さんから聞いた話は、全部私の記憶にないものばっかりだから」
会話の内容もまるで現実感がなかった。
「……なあ、夕凪依澄。少し気になる事があるのだが」
何だろうと死神の顔を見ると、いつになく真剣な顔で——いや、いつもと変わらない無表情だった。
「ん、何?」短く尋ねると、死神は変わらぬトーンで言葉を続ける。
「お前の記憶がないのは何時からだ?」
「……死神さん、今更過ぎない?」
ジトッとした目になったのは言うまでもない。
「ずっと言ってたでしょ。私が幽霊になる一週間前くらいからだよ」
織部と会話していた間、死神は話を聞かずぼんやりしていたのかと思うと少し腹立たしさが生じる。そんなに依澄の話に興味がないのだろうか。
「ああいや、そうじゃない」死神が珍しく慌てたような気配を見せる。「その、何と言えば良いか分からぬが、話を聞いた限りお前はその一週間の記憶以外にも思い出せぬ事があるんじゃないか」
「そんなはず……」
ない、と言い切る前に死神が言葉を被せる。
「死にたいと思っていた事も覚えていない、と思わなかったか?」
「……!」
口には出していないのに、どうして知っているのだろう。
「図星か。お前の考えなど読むに容易い」
死神が微かに口角を持ち上げる。またもや珍しい一面に依澄が狼狽えていると、死神は自分の考えが当たったと上機嫌そうに一層笑みを深めた。沈黙した依澄を他所に死神は口を動かす。
「織部郁の話では、お前は随分と前から死を望んでいたようだったな。だが夕凪依澄はそれを覚えておらぬ。何故自分がそう思っていたのかも。そうだろう?」
確かにそうだ。コクリと頷く。
「だとしたら、お前は何時から記憶がない? どの記憶が抜け落ちている? 答えられぬのならば、我の言っている事は間違っておらぬだろう」
言いたいだけ言って死神は「そろそろ仕事の時間だな」と呟き、この場を去ろうとする。依澄は同じ失敗をしまいと彼の黒コートの裾を掴み、引き止めた。
「私、思い出せないよ」思ったより弱々しい声音になる。「どうすれば記憶が戻ってくるのか分からない」
取り戻したいのに、失くした記憶は帰ってこない。話を聞けば何か分かるのではと思ったが、現状は変わらなかった。もう何もかもが分からなくなってくる。
「以前言っただろう」鬱々とした思考が依澄の脳を占領する中、死神が言う。「負の感情に取り込まれぬよう、感情を吐き出せと」
死神はそのまま依澄の頭に優しく手を置く。依澄は目を見開いた。
「お前が悪霊になれば我が動かねばならんのだぞ。お前には鎌を振るいたくない」
思わずそう言われても、と顔を歪めた。
許されるなら感情を吐き出したい。全てを心のままにぶちまけて、すっきりしたい。けれど。
「じゃあ、どこで吐き出せば……! 記憶が戻らないのが怖いの。このまま私は誰にも気付かれず消えるんじゃないかって、気が気じゃない……っ。早く思い出したいのに、身体はこんなに消えていくし」
視界が滲んできた。死神に当たる自分が恥ずかしい。気まずくなって俯く。もう足は膝上まで消え、手も指先から色を失っていた。幽霊になりたての頃は楽観的でいられたが、もうそんな余裕もほとんど残っていない。自分はあの世ではなく、空気に溶けて消えていくかもしれないと、何度不安に思ったか。その度に大丈夫と言い聞かせてきたが、次第に疲れてきた。
「今、我に吐き出せば良いだろう」
すんなりと耳に入った言葉は、死神が発するにしては意外で、予想もつかないものだった。戸惑い、一旦思考を止める。
死神はそんな依澄を知ってか知らずか、尚も口を開いた。
「愚痴が溜まっていれば我に吐けば良い。辛くなったら言え。我はお前の担当をしている死神だ、それぐらいしてやれる。未練を絶ち切ることに必要だとしたら、我は何度でも頼れと言うぞ」
頼っていい——本当に?
「本当だ」
心を読んだみたいなタイミングに、依澄が弾かれたように顔を上げる。死神の黒い瞳と目が合った。
「い……言うよ? 私、愚痴っちゃうよ」
普段の死神ならここで厳しく拒否するはず。依澄はそう考えたが、死神は度々予想を超える発言をする。どうやら今回もそうだったらしい。
「構わぬ」はっきりとした物言いだった。「しおらしいお前なんぞ、夕凪依澄に似合わぬ」
仕事があるとこぼしていた死神は腰を下ろし、依澄の頭に置いた手を撫でるみたく動かす。
父母の手みたいだ、と思った。暖かくて、優しい手。死神は慣れていないのだろう、力加減がちょっと雑だ。やはり親とは違うと思い知らされる。
「————っ」
それでも依澄の涙腺はいとも容易く破られた。その一方で、喉から出てきそうな想いを寸でのところで呑み込む。暫く依澄は声も上げず泣いていたが、やがて心を決めて告げた。
「やっぱり、言わない」
そう切り出した声は震えていた。
「死神さんに言ったとしても、これは」
是非とも頼りたいが、その選択は間違っていると思う。だって、
「これは、私の問題だから」
依澄が溢した涙の雫は草原に落ちる前に空気に溶けていく。死神は依澄を撫でる手をそっと離した。
「そうか」至って平淡な返事が寄越された。「もう良いのだな」
「うん」涙が瞳から溢れぬようにと目を瞑る。「切り替えるよ。私は私の未練を思い出して、それを果たす。今更不満を言ったって、どうしようもないって気付いたから。死神さんがあそこまで言ってくれたんだもん。なんか、吹っ切れちゃった」
おどけた調子で死神に自分の意思を示した。
思えば、何時だって彼は依澄を心配してくれていた気がする。出会った時も黒澤蓮や遠坂弘美の件でも、死神は依澄の身を案じた素振りを見せてきた。
それならばもう十分だ。
再び「仕事がある」と言って死神が居なくなる。依澄も感覚だけ残っている足を動かし、目的を持ってその場を離れた。
たとえ消える運命になろうとも、依澄は自身の手で記憶を取り戻してみせる。そして未練を絶ち切ってやるのだ、と意気込んだ。
「……」
だからこれ以上、怖気づくのはやめにしよう。
行くのだ。
大好きな家族のいる場所——我が家へ。
✴︎✴︎✴︎
織部は神代高校に登校し、自分の席で机に突っ伏して寝たフリを決めていた。
早朝出歩いた事が父に知られ、自宅へ帰った途端に怒鳴られた事が尾を引いているのだ。これでは朝から気が滅入るというもの。
夜分は大丈夫だ。両親は仕事の帰りが遅いから、まず気付かれない。父から監視の電話は入るものの、それだけである。母は相変わらず自分を空気みたく接するが、こんな場面では逆に役に立った。
朝に出かけたのは仕方ないと思う。織部の記憶を頼りにする問題だ。普段から織部を蔑ろに扱う両親と自分のせいで命を失った彼女とでは、事の重要さがまるで違う。
「おい、あいつまた寝てる」
不意に聞こえたクラスメイトの会話。
「そう言えばこの前あいつが夜中にうろついてんの見たんだ」
「えー何それぇ。また何か起こすつもりなのかなぁ」
「よせよ、そういうのは。まあでも中学生の子があいつのせいで死んだのは本当らしいけど」
「あいついっつも笑ってるし」
「何考えてるか分かんねーんだよな」
「透真もよく話すよねぇ。自分の妹があいつに殺されたようなもんなのにぃ」
囁く言葉はどれも織部に対する風評だった。聞こえていないとでも思っているのか、会話は徐々にヒートアップしていく。
"あいつが殺したようなもの"。その通りだと自嘲する。もし織部があの日廃ビルに行かなければ、依澄は死なずに済んだのではないか。どれだけ時が過ぎても、自分自身、そう思わずにはいられない。
「案外透真もあいつと同じかもしれねーよな」
「え、それマジだったらヤバすぎ」
話題に出た透真はまだ登校しておらず、クラスメイトは好き勝手言い始める。その流れを遮るように織部が大きく音を立てて座席から立ち上がった。さっきまで馬鹿げた事を口にして嗤っていたクラスメイトはいきなりの織部の行動に唖然とする。立ち尽くす彼らを一睨みし、織部は教室を退出した。直後聞こえるどよめきの声にますます機嫌が悪くなる。癖になりつつある笑みは今回ばかり、どうも作れそうになかった。
同級生が廊下を歩く織部とすれ違う度、ちらりと視線を受けるのも気分の良いものではない。それでも一人になりたかった織部はそんな視線を無視し、屋上にでも行こうかと階段の踊り場で考えていると、声をかけられた。
「織部、屋上は立ち入り禁止だよ。黒澤の件で暫く使えなくなったのは知っているだろう」
長い髪を揺らして屋上の方面から階段を降りてくるのは、氷室。神代高校の教師であり、五日前にとある事情で織部が『視える』ことを知った人物だ。
「センセーだって行ってんじゃん。だったら良いと思うんだけど?」
氷室の発言に指摘する。
「私は良いんだ、教師だからね。でも君は生徒だ。よほどの事情がない限り認められないね」
「教室に居るのが嫌なんだよ。……センセーなら分かるでしょ?」
そこで氷室が僅かに顔をしかめた。教室で織部が腫れもの扱いをされているのを察していたからだろう。
「とは言っても、彼らは君が以前のように喋らなくなった事を気にしているよ。何を話しても一向に反応しない君を見て不満に思うんだろう。前は率先して乗ってくれたのに、なんて相談されるくらいだ」
「そんなの頼んでないし、知らねえよ」
言った後に少々きつい物言いになったかと焦ったが、氷室は気にせず織部の右肩をポンっと軽く叩いた。
「まあ何かあれば言えばいいさ。君には借りがあるし、何時でも相談に乗るよ」
「じゃあ言うけど」
「早くないか」
センセーが言ったんだろう、と非難すると、氷室は「確かにそうだが」と応対する。なら良いのでは、と思ったがそれは口にしなかった。
「朝礼まであと十五分だからあまり時間はとれないが……ここは目立つ。生徒指導室になるけど良いかな」
「え、やだよ。何も悪い事してないのに」
「……その悪い事について話し合うのでも良いんだがね」
氷室がこちらに猜疑の目を向ける。反射的に顔を背けた。時々学校をサボっている事を、どうやら見逃してくれないらしい。
「外は無理だよ、特に屋上は」氷室が肩を竦めた。「立ち入り禁止だし、何より天気予報では雨だからね。ほら、窓を見てみな」
耳にした通り窓に目を動かすと、今にも降り出しそうな雨雲が遠くの空まで覆っていた。これでは当初の目的であった屋上へ行くのは遠慮したい。何せ傘を持たずに家を出たのだから。
「……外は諦めるよ」織部は降参のポーズをとった。「生徒指導室で相談する」
そうして氷室と生徒指導室へ向かうと、ちょうど雨が降り出した。窓越しでは聞き取りにくいくらい小さな音だが、静かに降っているのは雨の匂いでも分かる。
『生徒指導室』と書かれたプレートが見えた。氷室がドアを開ける。室内には生徒用の机が四つ向かい合わせで並んでいた。掃除用具入れやロッカー、黒板、などは、普通の教室と大差ない具合で設置されている。異なるのは折り畳み式の長椅子が三脚とホワイトボードがあるくらいか。だがこれも別段変わったものでもない。
織部は氷室に席へ座るよう示唆された。氷室は腕時計を一度見てから、織部と対面する形で席につく。
「センセーから見て」と織部は切り出した。「センセーから見て、俺ってどんなやつ?」
しんと静まり返ったこの場では酷く声が響く。氷室は織部の問いかけに一度首を傾げ、答えた。
「私から見れば、君は教師にため口をきく生徒だね」
「え?」と今度は織部が首を傾げた。「それぐらい良いじゃん」
「駄目だから言ってるんだ。今に始まった事でもないが」
「じゃあ時効だよ、時効」
「現在進行形だろう」
時効も何もない、と氷室がこぼす。
「つか、それだけなの? 俺への印象」
氷室は織部の質問を受けて、じっと織部の顔を見つめた。
「そうだな」氷室の声は優しかった。「いつも笑って場を明るくしようとするのも君の特徴か」
「……どうだろうね。笑ってるのは、人のためじゃないかもよ」
自分のためだった。笑って明るく振舞って、その場凌ぎのキャラに成りきる。そうすれば自分は良いように解釈されたまま人の記憶に残る。そう思って笑顔を保ってきた。
「俺、前みたいに笑えてないから」
そう言いながらも、口角を持ち上げ、目を細め、表情を作った。ほとんど無意識だった。
「やっぱり」と氷室が言った。「やっぱり、あの事件からか」
"あの事件"が何を指しているのか分かると、織部の顔色が一瞬、変わった。
「君は幽霊が視えると言ったね。じゃあその子の事も」
「うん」はっきりと肯定する。「視えるよ。でもあの子は、俺を覚えてなかった」
氷室は深く追求してこなかった。踏み込みにくい事案であるからだろう。
「ごめんね、センセー。暗い話をするつもりじゃなかったんだけど。たださ、俺は何がしたかったんだろうなって思って」
安らかでなくとも、永遠の眠りとやらにつきたかった。けれど、その時引き止められて、生きていいと言われた気がした。だから生きようと思えた。だが今はどうだろうか。
「センセーから見た俺が良いようで良かった」
もうそろそろ時間だろう。織部はそう締めくくり、立ち上がった。
「織部」氷室が名を呼んだ。「聞きたかったのはそれだけ?」
「うん。これだけ」
氷室が立ち上がって織部を真正面に捉える。
「じゃあ、私からも言わせてもらう」
窓の外で、雨の音が強くなるのを感じ取る。氷室は次第に大きくなる雨音に耳を傾けつつ、言った。
「君は愛されているよ。君の笑顔が自分のためであっても、結果的に人のためになっているんだ。クラスの子達も元気をもらっていると笑っていた。今は空回って言葉がきつくなっているだけだよ」
気にするなという事だろうか。氷室の意図を掴みかねる。
「私が黒澤ともう一度話せたのも、織部のおかげだ。だから追加する。私から見た君は、なんだかんだ言って優しい心の持ち主だとね」
織部は驚いて目を見開いた。
「なに、それ」
思わず笑い声が漏れる。
「センセーに似合わないね、優しい心なんて言葉。珍しい」
ケラケラと笑う織部に氷室は飄々と返す。
「私は生徒想いだからね。君の望む答えにならなくても、正直な気持ちを言ったまでだ。嘘は言えない」
「そうなんだ」と織部の声はまだ少しばかりの揶揄いが含まれている。
「ともあれ、したいようにすれば良いさ。どこかの詩人が言っていたろう? 『自分自身を信じてみるだけでいい。きっと生きる道が見えてくる』って」
チャイムが鳴るニ分前、織部は氷室と生徒指導室を退出した。
廊下に出ると雨雲による薄暗さが増す。少し肌寒く感じた。
窓硝子に次々と雫を残していく空模様を目にし、織部は記憶を喪った彼女を想う。
そういえば、彼女と会っていた日々の中に、今日のような雨が降っている日があった。あの日はあまり濡れないようにと、歩きながら少し話をしただけで各々自宅へ帰ったのだ。思い出に浸るように織部が過去の情景を頭の中に蘇らせる。
白い傘を差して雨を眺めていた彼女は、あの時、織部に言った。「いつか貴方を忘れてしまうかもしれない。私はとても忘れっぽいから」と。
実際、その通りとなった。
3
久しぶりに目にした依澄の家は変わりなかったが、酷く懐かしく感じた。此処に来たのはいつぶりだろう。
玄関の前に立つ。茶色く丁寧に色塗られたドアは外開きだ。依澄は深く息を吸い込んでから、ドアをすり抜けた。
転瞬、唐突に眠った気持ちが次々と家に呼ばれた気がした。それはまるで家の中の全てのものが「おかえり」と依澄の帰りを待ちわびていたかのようでもあった。依澄は心地よい空間に泣きそうになった。意識せずとも、家族の姿を目で探していた。
今日は平日だ。父と兄はすでに通勤、登校しているだろう。母は家事に勤しんでいるか、買い物に行っているかどうかの時間帯だ。探しても居ないかもしれない。
依澄は此処でする事を頭の中で整理する。
一つ目は、生前の記憶に関わるものの手がかりを見つける事。死神に指摘され、依澄自身、死を望んでいた頃の記憶がない事に不信感を覚えたのだ。また、織部から聞いた話の事もある。依澄はまだ自分が命を落とす前の一週間を思い出せていない。
二つ目は、家族が今どんな気持ちでいるのかを知る事。遠坂の件で家族の在り方について考えさせられ、嫌というほどに家族の繋がりが強いと思い知った。だから依澄も、両親と兄の現状を知り、困っていれば手助けしたいと思ったのだ。依澄が生きていた頃は、家族が依澄を支えてくれていた。その恩返しとも言えよう。
三つ目は、依澄が自分の気持ちを落ち着かせる事だ。ここ最近、立て続けに動きすぎて力が抜けて来ていた。精神的にも、身体的にも。そのせいか以前より身体が消える速度が早くなり、このままでは本当に期限が来るより先に空気と同化してしまう。死神にも言っていないが、頭痛も頻繁に起こるようになっていた。
これら三つを解決するには、何処かに置いてきた記憶を手繰り寄せ、未練を自覚する必要がある。
依澄はまず自室に向かった。
何かしら変わっているだろうと考えていたが、依澄の部屋は生前からほとんど変わらぬ状態だった。せいぜい物が綺麗に整頓され、埃一つない空間になっている事だけが変わっていたと言えよう。栗色の机や棚には文庫本や問題集が並び、そして洒落た陶器の置物が飾ってある。懐かしさを通り越し、最早新鮮に思えた。
自然な流れで依澄は三段目の棚にある文庫本に手を伸ばした。生前は暇さえあれば本を読んだりして休日を楽しんでいたため、その癖が出たのかもしれない。けれど案の定、その手は空ぶる。手に取ろうとするのはやめて、触れているという気分だけでも、と今度は撫でるように文庫本に指先を這わせた。勿論、感触はない。
「……触れないだけで」と呟く。「触れないだけで、こんなに違うものなんだ」
物に触れることが出来るのは幸福だったんだな、と生きていた頃は考えもしなかった事に至り、今更ながらに気付かなかった己を恥じる。もっと早く気付いていれば、少しは世界の見え方が変わっていただろうか。
ふと、数冊並ぶ文庫本の上に一冊のノートが無造作に置かれているのを見つける。薄紅色のノートだ。表紙の右下に依澄の名があった。見覚えがある。
そうだ、と思い出す。このノートは依澄が十二歳の時に兄から貰ったのだ。
「やるよ」兄は依澄に一冊のノートを突き出した。「お前は忘れっぽいから、日記みたいなの、書けばいいんじゃないかと思って」そうすれば忘れにくくなるだろ、とも言った。
「そこまでしなくても」むっとして反論する。「大丈夫だよ。ちゃんと思い出せるし」
兄は肩を竦めた。信じられないと言われている気がして、依澄の心は一層陰る。
「思い出すのにも時間がかかるだろ。昨日だって友達の名前が言えなかったって落ち込んでたじゃないか。メモをとるなりすれば良いが、見られたら嫌だろうから、日記って事にしておけばいい。そうしたら誰も見ない」
「それで見られたらどうするの」
「見ないよ」兄が断言した。
「なんで? 誰も見ないなんて理由はないじゃない」
「それでも見ないよ。だって、お前が忘れっぽいのは周知の事実じゃないか」
反論は出来なかった。その通りだからだ。依澄が口ごもると、兄はさらに続けた。
「みんな知ってる。だから察する。大丈夫だ、みんなお前が嫌がることはしない」
「察する……って、ムセキニンだよ」覚えたての言葉で言い返してみる。
「でも、依澄だってそう思ってるだろ」ぐうの音も出なかった。
兄はまたノートを突き出す。早く受け取れと言っているらしかった。
「……思ってるよ」認めたくないが。「みんな良い人だもん」
渋々ノートを受け取る。薄紅色のノートは、明らかに兄が使うものではない。
「そうだな」
何だかんだと言ってノートを手にした依澄に、兄は満足げだった。
結局受け取ったノートには、何を書いただろう。中身を確かめたかったが、何せ触れられない。諦めるしかなかった。記憶が正しければ、身の回りの物を全て単語で埋め尽くしていたはずだ。文章だと書いている内に忘れてしまうから、というのが理由だったような。それにその方が多くページを残しておける。
忘れっぽいとは実に都合の良い言葉だ。依澄は『忘れっぽい』では済まされないほどの事を数々と忘れてきた。思い出せたものもあるが、思い出せていないものもある。「流石に忘れる頻度が多すぎる」と、一度、両親と病院に行った事があった。記憶障害の可能性があったからだ。
しかし検査の結果、異常はないとされた。医者も不思議そうにしていた。
そもそも記憶障害とは、記憶が思い出せない事以外にも、新しい事を覚える事が出来ないといったものなど、記憶についての障害の総称である。一時的な思い出せない記憶を短期記憶障害、長期間思い出せない記憶を長期記憶障害と言ったりもする。一般的に記憶喪失や認知症などが挙げられる。
これらの原因は基本的に脳が損傷した場合に多い。交通事故や脳梗塞、うつ病などが良い例だ。それぞれ外傷性、内因性、心因性と分けられるが、依澄はそのどれにも当てはまらなかった。
確かに一時的に記憶が思い出せないのは事実だ。しかしそこに関わる、記憶を失くす原因が全てなかった。例えるなら、白紙に文字を書いたはずが自分でも知らぬ間に消され、しかも消した跡も中々見つからない。そんな、まるで最初から『なかった』かのような状態。
「きっかけはあるはずだ」と医者は言った。自分でも知らない間に記憶が消えるなんて、それこそストレスが原因なのではないかと。だがどれだけカウンセリングをしても、依澄には記憶が消えるほどの過度なストレスを持ち合わせていなかった。
結局診断はそれっきりで、表向きには心因的な短期記憶障害という事になった。周囲もそれを受け入れ、依澄には何の分け隔てもなく接してくれた。依澄も『忘れっぽい』のだと自認していた。
生まれ持ったものは仕方がない。そう割り切ってもいたから、自分の忘れっぽさを悔しく感じることこそあれ、悲観的にはならなかった。こればかりは自分の性格に救われた。
薄紅色のノートに詰まった記憶は、今も生きているだろうか。そんな事を考える。
その時、何処からか音がした。母が帰ってきたのかと思ったが、それにしては物音が小さ過ぎる。耳を澄ましてようやく聞こえるほどの音量だ。不思議そうに依澄は自室を出た。
フローリングの板が足元に広がる。咳き込むような音が階段下から聞こえた。今度は耳を傾けずとも判った。
「母さん!」無意識に呼んでいた。
ゲホゲホ、と苦しげな咳が耳を突く。嫌な予感に気が焦り、依澄は音の出所——一階の和室へ急ぐ。
引き戸を開ける仕草をし、空回る。そうだった、と唇を噛んだ。そのまま戸に身体を沈ませると、無事、室内への侵入が成功。畳の匂いが鼻を燻る。
和室には一式の布団が敷かれ、母がその中に身を委ねていた。布団の側には体温計や洗面器、それから母のマスクをしている様子を目の当たりにし、風邪だと悟る。また一つ、母が咳き込んだ。
何もしてやれない無力感に包まれた。苦しそうな母の手を握り、支える事だって出来ない、と。
依澄はここぞとばかりに優しい声で話しかける。返事はない。元気な姿を見れると過信していたが、そんな事は決してなかった。これは『死にたい』と思っていた頃の罰に思えた。
母が唇を動かす。何か呟いているらしい。聞き取れず、顔を寄せる。
依澄。弱々しく声は紡がれた。
母に自分の姿が映ったのかと心臓が跳ねる。鼓動が早くなるのを感じつつ、そっと母の顔色を伺う。
「それは……ダメ……って、言った……でしょう」
期待は呆気なく崩れていった。熱に浮かされうわ言を言っただけのようだ。しかし落胆とは裏腹に、依澄は母の中から自分の存在がなくなっていない事に喜んだ。
今はそれで満足だ。依澄が眉を下げて微笑む。
午前中に訪れた事もあり、父と兄には会えなかったが、母とは会えた。元気とは言い難い姿を見て満足と思うのも如何なものか、ともう一人の自分が問う。けれど、それでも母の中で依澄が生きているなら、それで良いと感じた。
また会いに来よう。そう心に決めて和室を出る。時折咳き込む母を置いていくのは心苦しいが、名残惜しくとも、依澄にはまだするべき事が残っている。それを達成するまでは胸を張れない。だから、全てを終えた時に此処へ戻り、背筋を伸ばして家族と再会するのだ。
そこまで考えた時、ふと、これが未練なのではないか、と想像した。家族と会う事。会って話す事。もし自分の未練がそうであったなら——
その答えはきっと、失くした記憶の中にある。
ボロボロだ。廃れた五階建てのビルを前に何の捻りもない感想を抱いた。
硝子窓はくすみ、外からでは中が見えない。依澄は立入禁止の黄色いテープをすり抜け、ビルへと入っていく。まるで幽霊が居るのかと思える外観だったが、幽霊も生者も居なかった。
壁の色は剝がれ落ち、床は生きている時に踏み込めば今にも崩れ落ちてしまいそうだ。まだ歩く感覚がある事に安心しつつ、依澄は自分の目にも映らない足を動かして階段を上った。
一階にはエレベーターもあったが、ボタンを押すことは出来ないし、万が一押せたとしても作動するとは限らなかった。
最初は「幽霊だから空まで高いところでも悠々と飛べる」と思っていたな、と懐かしくなる。幽霊も生者も同じ"人"であるのに、随分な想像をしたものだ。そんな事が出来るなら今すぐにでもやってしまいたい。
階段を全て上りきり、屋上のドアの前で一旦立ち止まった。
三度、深呼吸をする。
二度、手に力を入れた。
一度、震える身体を鼓舞させる。
頭の中で数を数えずとも、自然な動きでドアに身体を通した。瞬きを何回か繰り返す。屋上の景色を目に入れた。
「……ここで」自分は死んだのか。口に出すのも躊躇われる。
怖くないと言えば嘘になった。どれくらい怖いかと訊ねられたら、きっと言葉では表せないだろう。
風が吹き抜けた。衣服も髪も、何ら変わりない。すると、灰色の雲から光る何かが一滴、また一滴と落ちてきた。雨だ。空は次第に落とす雫の量を増やしていく。外に晒された屋上はその雨で湿っぽくなり、雨は依澄を通り抜け、コンクリートの上へ。
ゆっくり歩いて屋上の柵へ近寄る。歪に並ぶ柵の中に、柵がない空間が一つだけあった。そこだけカッターで綺麗に切り取られたかのように、ぽっかりと空いている。
此処がそうか、と納得する。織部の話に出てきた降下した柵とは、元々は此処に建てつけられていたものに違いない。
柵の向こう側を覗こうとして、やめた。安易な考えでそう行動するものでもないだろうと判断したからだ。もう死なないとはいえ、ここから落ちた恐怖は身体に染み付いている。
空を見上げた。大粒の雨が降る中、一人で。生きていれば雫が目の中に入ってしまっただろうが、如何せん霊体のみ。そんな心配は要らない。
一人で色々行動していたからか、それとも久しぶりに雨を見たからか、依澄の頭に死神と出会った時の事が思い出された。
「見つけたぞ」
死神が依澄を見つけた時に発した最初の言葉は、確かそんな一言だった。いきなり目と鼻の先に現れた全身黒ずくめの姿は、夕闇と相まって恐怖心を抱いたのを覚えている。
状況に頭が追いつかず、混乱したまま辛うじて何者かと尋ねた。彼は死神だと言った。理解し難かった。
死神。漫画や小説だけの存在で、多くは鎌を持って人の命を奪うとされている。そんな『死神』が依澄の前に現れたという事は……
「私、死んだの? それともこれから貴方に殺されちゃうの」
迎えが来たのか、依澄の命をとりに来たのか。そのどちらかだと思った。
死神と名乗った彼は深く被ったフードの奥で、すっと目を細めた。冷ややかで何の感情も乗っていないその瞳に半透明な自分が映る。
「夕凪依澄、お前は死んだ」彼が静かに断言する。「だが、お前には未練があるようだな」
やはりと思う暇もなく、依澄は未練という言葉に引っかかりを覚えた。
心の何処かで知っていた自分の死。誰にも認識されない日を三日も過ごした。苦痛でしかなかった。だがそれは未練により、この世を離れられなかったから起きた事なのか。
それから死神は"亡者"について説明してくれた。基本的に死者はあの世へ逝くが、この世に思い入れが強すぎて旅立てない者がいる事、未練を果たさなければあの世へ逝けない事。この世に留まる時間にも限界がある事や、未練を果たす期限を過ぎると、悪霊になる事。自我を失えば、死神の鎌で刈られる事など、沢山。
「すまぬ」
粗方説明を終えた死神の第一声がそれだった。続けて依澄と目線を合わせる。
「見つけるのが遅くなって、すまぬ」
その言葉を一発で理解する程度には、死神への恐怖心が薄れていた。
「……もう、いいよ」依澄は笑った。
何故依澄を見つける事が遅れたのかは敢えて訊かなかった。今は死神と会話している事実を受け止めるのに精一杯だったからというのもある。誰も依澄を視界に映さない中、彼だけが見つけてくれたという感謝があったからでもある。とにかく依澄は謝る彼を責めるべきではないと思った。
「もう、いいんだよ」
繰り返した。死神は僅かに眉をピクリと動かすと、「そうか」とだけ呟いた。
その日から死神は毎日依澄の元へ訪れるようになった。
最初は雑談が多かった気がする。次第に「未練を絶ち切れ」とよく言うようになっていったが、それでも依澄は死神と話す時が心地良いと感じていた。だからだろうか。早く未練を果たせと訴えかけるかの如く、依澄の足が段々色を失っていったのだ。
そして先日、死神に告げられた。依澄の身体が壊れかけていると。
未練が分からない焦燥感を感じたと同時に、あの時、彼ともっと言葉を交わしたいと祈るみたいな気持ちが芽生えた。恋愛感情ではない。と思う。
回想を終え、依澄はスカートのポケットへ手を突っ込んだ。取り出したのは、生前から持ち歩いていた携帯電話。命を落とした時に身につけていた物には触れられるのだ。星型のストラップが左右に揺れる。
織部の話ではこれを持っていると身が守れるらしい。もう守れる身も持ち合わせていないが、もしまだ効力があるのなら、この消えかけてゆく身体を止めてほしいと思った。そういう意味の"守る"ではないだろうが。
携帯電話を元の場所に入れ直す。
「何も分からなかったなあ」
ため息を吐く。少しばかり雨が強くなった。
「私が忘れやすいからかな」
自分で言って、はたと気付く。閃いた気がした。それは不完全な機械の欠けたパーツが全て埋まり、正常に動き出した時の感覚に似ていた。
心臓が騒ぐ。頭痛が激しくなった。耐えきれず座り込むが、コンクリートを打ち付ける雨の音を上回り、雑音が耳を刺す。どれだけ強く耳を抑えても音は止んでくれない。
——痛い。
頭が壊れるほどの激痛に苛まれながら、脳裏に次々と覚えのない光景が広がり続ける。
『最近元気ないな』『大丈夫だよ』『無理するな』自分の部屋と、誰かとの会話。
『依澄ちゃんは俺を信じてくれるんだね』『今更?』『確かに』自分の声と、耳にした事がある声。
『ノート、何か書いたか?』『うん。もう五ページ目だよ』薄紅色のノートを、誰かに見せている。
『いつか貴方を忘れてしまうかもしれない。私は忘れっぽいから』栗毛の青年に放った言葉。
『しんどい。もう生きていたくない』そう綴ったノートのページを破り捨てる自身の手。
『死にたいと思っていた事も覚えていない、と思わなかったか?』核心を突いた、彼の一言。
家の中、河川敷、自分の部屋と場面が目まぐるしく変わる。
雨の中、枕に顔を沈めて泣いた気持ち。晴天の中、常に思うようになった願いと罪悪の意識。夕焼けの中、屋上から落下し、恐怖とは別の感情を完全なものにしてしまった。
季節もバラバラな数々の出来事が蘇り、依澄は茫然とする。
「そっか……」
全て思い出した。
この場所から落ちた瞬間、その一週間前の出来事、未練。ずーっと前に忘れていた事や死にたかった理由だって、何もかも。
そうだ。"何時から記憶が無いのか"なんて関係なかった。依澄は元から、記憶の管理が難しいのだった。
持ち得る力を出し切ったみたいに、その場を動けない。雨は弱る事を知らず、強まっていくばかり。
「私は……忘れっぽいから、死にたかったんだ」
呟く依澄の声は、雨音と未だ続く雑音にかき消され、自分にさえ聞こえなかった。
4
織部が教室に戻ると、この時を待ってましたと言わんばかりにチャイムが鳴った。チラチラと数人の視線を受けつつ、自分の席に腰を下ろす。視線の中には透真のものもあった。
織部の後に教室へ入って来た教師が号令をかける。朝礼が始まった。織部は窓の外をぼんやり見つめていた。
授業が始まり、終わる。それを六回繰り返せば、終礼だ。休み時間は適当に暇を潰そう。何かまた嫌な事を聞く前に教室を出るべきだ。
そしてあっという間に放課後になった。織部は早々に教室を出るつもりだったが、クラスメイトに引き止められ、不承不承動きを止める。
「あのさ」
口ごもる彼らに対し、織部は嫌味のない笑みを浮かべた。「なに?」
もう怒っていないと安堵したのか、彼らは一斉に頭を下げる。朝はごめん、と言いながら。
織部がその様子に驚き口を開けないでいると、帰り支度を終えたであろう透真が何の騒ぎだと近寄ってくる。彼らは透真にも思い切り頭を下げ、謝った。
呆気にとられている透真と「ごめん」と謝るクラスメイトを交互に見て、織部は耐えきれず噴き出す。
「もう謝んなくて良いよ。俺も八つ当たりしちゃったしね」
明らかに声音が明るい織部に、クラスメイトは揃って安心した顔つきになる。
「ありがとう、織部!」「もう絶対言わねーから!」「ごめんねぇ」なんて言葉が飛び交う。透真は未だに状況が把握できないでいた。事情は聞いていなかったらしい。
「じゃあ俺、用事あるから。またね」
ひらひらと手を振って教室のドアに手をかけると、「また遊ぼうー!」と男女の声が飛ぶ。
廊下はやはり、少しひんやりとしていた。歩き出すと足音が響く。
「織部」背後から聞こえた声に立ち止まる。「さっきのは何だったんだ?」
「透真くん……さあ? 何だと思う?」
透真と肩を合わせた所で再び歩き出した。
「質問を質問で返すな。……まあいいさ。謝られたって事は聞いて楽しい話じゃないだろうしな」
「お、ご名答。さっすがー」
「ふっ。当然だ」眼鏡を押し上げる。
下駄箱で靴を履き替える。
「あっ」雨を見て思い出した。「傘持ってないんだった」
「天気予報見てなかったのか? 午後はずっと雨だぞ」
「見る時間なんてなかったんだよ。折り畳み傘も忘れたし」
最悪だと独りごちる。
「濡れて帰ったらどうだ」冗談とも本気ともつかない口調だった。
「風邪引いたらどうするよ。透真くんが薬代払ってくれる?」
「無理だな」
「即答っ。この鬼畜め!」
織部の抗議ははいはいと受け流された。
「貸そうか、折り畳み。俺は普通の傘使うし」
透真が鞄から取り出したのは紺色の折り畳み式の傘。
「使います、使います! 使わせてください透真さまー」
調子の良い織部に透真が呆れるみたいに片眉を上げた。ほら、と投げて寄越された傘を受け取り、外に出て開く。傘で頭を覆うと、雨音がより聞こえてきた。
「なあ、聞きたい事があるんだ」
透真が傘を差しながら尋ねた。雨音で声が聞き取りにくいが、織部は「なに?」と返す。校門に向かって歩き出しつつ、透真は切り出した。
「そろそろこの間の事を教えてくれないか。もう三日も待った」
一瞬何の事かと疑問に思ったが、直ぐにその疑問は解消した。遠坂弘美と遠坂優里の件で巻き込まれた時の事だ。三日も日が空いたのは死神と情報を共有していたためだ。その情報の中には依澄についてのものもある。
そうか、あの時の事情をまだ説明してなかったな。織部は認識を改めた。けれど、一体どう説明しよう?
彼は織部の体質を知らない。人ならざる者があり触れて存在する事や、霊体となった依澄の事も。その状態で事情を話すのは不可能だ。可能にするには、織部が今までひた隠しにしていた事実を告白せねばならない。
「え……と……」どうする、と自分に問いかける。
一時は話しても良いのでは、という気がしたが、あくまで"気"の問題である。冷静になって考えてみれば迂闊に喋る訳にはいかないのは瞭然だ。手の平返しの対応をされる恐れがある。友人に裏切られるのは嫌だ。
「言えないのか?」透真の目が細められた。「それとも、言いたくないのか?」
「…………」
無言の末、織部は「ごめん」と校門の外へ駆け出した。一応、謝ったが、要するに逃げたのだ。傘が揺れ、雨粒が顔にかかる。
背後で織部を呼ぶ声が一際大きく耳に届いた。それさえも反応せず、ただ走り続ける。そうしていつかの信号を前に足を止めた。後ろからは足音がしない。出歩いている人が少なく、幸いにも走ってきた織部に顔を向ける人は居なかった。
愁眉を開いて上がった息を整えていると、真表に何の前触れもなく黒コートの男が姿を現した。
「織部郁」淡々と男が口火を切る。「彼奴を見ておらぬか」
「死神サン」織部が男の問いに顔をしかめた。「彼奴って誰? 俺は今一つの困難を潜り抜けて来たの、暇じゃないんだよ。悪霊だか何だか知んないけど、もうこの前みたいに巻き込まれるのは——」
「夕凪依澄が居らぬ」
「え……」間抜けな声が出た。
「河川敷にも、彼奴の家にも、兄が通う学校とやらにも、父の勤め先にも、夕凪依澄が居らぬ」
「ちょ、ちょっと待って! 何でいきなり」
「早朝、お前が去った後に我は夕凪依澄と話した。その時は『未練を果たす』と意気込んでいたのだ。だが、仕事の合間に河川敷に行ってみたが誰も居らぬ。……何処を捜しても、見つからぬ」
いつもみたく無感情で冷静な死神は此処に居なかった。今は焦りで表情を変えており、それだけで非常事態だと察せる。
「あそこは? あの廃ビル!」
「居なかった」
「じゃ、じゃあ、依澄ちゃんが通ってた学校は」
「居なかった」
一通り見たのだと死神が落ち着かない様子を見せる。
「遠坂弘美のように我ら死神の知らぬ所で悪霊になられては困る。我は夕凪依澄に鎌を向けたくないのだ。……彼奴は元々特殊な立場だ。下手な事をすれば、壊れかけていた魂も限界を迎えるであろう。……その前に手を打たねば」
彼女だけ身体が消えかけているのは、魂が壊れる寸前だからだ。ヒビが入った硝子と思えば想像も容易い。そんな不安定な彼女が姿をくらますという事は、遠坂の件であったように、悪霊になるためである可能性が生じる。それだけはあってはならない。彼女は幸せになるべき人だ。
「依澄ちゃんを捜そう」織部が拳を握る。「死神サンと俺で、何とか見つけるんだ」
次第に雨音が激しくなり、背後への注意が疎かになっていた。気付いた時にはもう遅い。
「——織部、今……何て……?」
「!」
鈍い音を立てて地面に転がる傘が足に当たる。勢いよく振り返ると、無抵抗に雨に打たれている透真の姿があった。
聞かれたのだと理解するのに、そう時間は要さなかった。目を見開き立ち尽くす透真に、織部は言葉を失う。
「今の、どういう意味だよ……なあ、織部! あいつは死んだんだっ! 捜すって、見つけるってどういう事だよ⁉︎ 死神って何なんだよ⁉︎」
ここまで取り乱す透真は依澄が屋上から落ちてしまった時以来だった。言い淀む織部に痺れを切らし、透真が織部の胸倉を掴む。その拍子に織部の手から傘が滑り落ちた。少なくなった通行人のほとんどがこちらを避けるようにして通り過ぎる。
「揶揄ってるのか? あいつが生きてるとでも言うつもりか⁈ ふざけるな! あいつはお前を庇って……‼︎」
「——そんなの……そんなの、言われなくたって分かってる!」
衝動的に透真の手を払い退けた。
「分かってるよ、俺が一番! 俺が死のうとしなければ、あの場所へ行かなかったら、あの子は助かったんだから‼︎ 依澄ちゃんが生きてたら……どんなに良かったか……っ、それぐらい俺だってッ!」
分かっているのだ。自分がどれだけ酷い事をしたのか。依澄と透真には数えるのが難しいような恩を貰ったのに、自分は償い切れない罪を犯してしまったのだから。
彼女がもう生きた人間ではない事は、言われなくても……。けれど、当人に改めて事実を突き付けられ、臆する自分が居る。
「…………」
声を荒らげてしまった後、織部は我に返るようにやや冷静を取り戻した。静寂がその場を支配した。
こちらの事情を知らない死神は織部と透真の顔を見比べる。何事かと驚いているように見えた。だが、死神の前にこの空気をなんとかしなければ。
「……な、なんてねー。あはは、本気にした? ごめん、ちょっとした冗談だよ。俺がどうかしてた」
無理があるだろうと自覚していたが、こういう方法しか閃かなかった。織部は軽く笑ってその場の沈黙を切り裂く。自身の声が震えないよう、細心の注意を払いながら。
「ほんとにごめんね、透真くん。でも引っかかる透真くんも疲れてたんじゃない? いつもは俺の冗談くらい受け流せるのに。まあ、今回は度が過ぎてたから、俺が悪いんだけど」
「……」
「あれ、反応なし? 怒ってる?」
「……」
「ごめ」
「謝るな」
虚を衝かれて織部は口を閉ざした。雨に濡れた前髪が透真の目を隠し、表情がまるで読み取れない。眼鏡のレンズに雫が落ちる。
「織部郁、まさか視える体質である事を話していなかったのか?」
事情を知らぬ死神もそれだけは理解したらしかった。「何故だ」と訊ねられ、答えられずに俯く。
「この者は夕凪依澄の兄であろう。話せば協力してくれるやもしれぬのだぞ」
確かに彼女の行動をよく知る身内の協力があれば、依澄を一刻も早く見つける事が出来るかもしれない。だがそれは彼が織部を信じてくれるかどうかで決まるのだ。返答次第で結末は大幅に変わる。
「もう、いい」
白を切る織部に呆れたのか、怒ったのか。透真はため息と同時に言葉を吐き出した。嫌われたかと思い、嫌な汗が雨と共に頬を伝う。何か言おうにも言葉が見当たらない。
透真は地面に転がった傘を二つ拾い、その内の一つを織部にずいっと差し出した。折り畳み傘だ。
「……?」
会話の流れからして不自然な彼の行動に、織部は立ち尽くす。
「もう意味ないと思うけど、貸してやる」
思わず顔を上げ、透真を凝視した。
「な、なんで。怒ってるんだろ……?」
「ああ。怒ってる」至極当然だという表情。「何か隠してるくせに、何も話さないで誤魔化すお前に、怒ってるさ」当たり前だろう、と続けた。
「じゃあなんで」差し出された傘に視線を落とす。「俺に貸す義理なんてないじゃん」
「風邪引かれたら目覚めが悪い。それだけだ。——織部が話してくれるのを待ってる。三日だけじゃ、お前の覚悟が決まらないようだからな。……その代わり、また"あんな事"はしないでくれ。お願いだ」
あんな事と言われ、ピンと来た。彼は織部がまた死を望んでいるのではないかと危惧しているのだ。
織部は素直に頷き、傘を受け取る。お互いびしょ濡れだったがもう一度傘を差した。体に打ち付けられていた雨粒が、今度は傘を的にする。
「……またな」
立ち去る透真の背を見送った。
気になるはずなのに詮索しないでいてくれた彼に感謝しつつ、織部は死神に向き直る。「依澄ちゃん、さがそ」
一度行った場所も含め、織部と死神は二手に分かれて捜索を開始した。
✴︎✴︎✴︎
何故いつも笑う。
以前、死神は夕凪依澄にそんな疑問をぶつけた事があった。
感情に疎い死神にも、ずっと笑みを浮かべ続けるのがどれだけ大変なのか推し量れたからだ。三日間捜し、ようやく見つけ出した彼女の様子を度々見に行く事を繰り返して七日が経った。いつ会いに行っても、彼女は笑っていた。
「あー……どうしてだろうね。何とかなるって思うからかな?」
問いかけられた本人はけろっとしていて、表情や精神にも疲労が視認出来なかった。
「どういう意味だ?」
「いや、深い意味はないんだよ。何て言うか、笑ってればどんな事も何とかなるような気がするの。物事はなるようにしかならないし。暗い顔をしてじっとしてるだけなんてもったいないじゃない。だから笑顔で居るんだよ、多分。それにその方が周りから気を遣われる事も少ないから」
そういうものかと不思議に思ったのを、今でも覚えている。
「逆に死神さんはいっつも無表情だよね。感情が衰えてたりして。死神さんも『神様』なんだから、それなりに長生きしてるんでしょ」お爺ちゃんだ、と嘯いた。
「神は死ぬのではなく、消えるものだ。人々からの信仰がなくなれば、その神の存在意義がなくなるも同然であるからな。故に『長生き』と表現するのは誤りであろう。それに、元々我は感情が薄いのだ。衰えるも何も、喜びも怒りも悲しみも、殆ど感じぬ」
お爺ちゃんワードに反応しなかった死神に、夕凪依澄が「なんだ」と肩を竦める。何処でがっかりしたのか分からなかった死神は「やはり人間とは難しいものだ」と思った。
「まあ死神さんがチャラかったりしたらちょっと接しにくいもんなあ。……うん。今のままで居てよ。あ、でも笑った顔は見てみたいかも。爆笑してるとことか特に」
「お前には絶対に見せん」
「即答⁉︎」
何が可笑しかったのか、夕凪依澄は笑い声を上げ、楽しげに肩を震わせた。
その時はまだ、彼女の身体は何処も消えていなかった。
このまま私は誰にも気付かれず消えるんじゃないかって、気が気じゃない……っ。
不意に思い出される夕凪依澄の言葉。初めて彼女の笑顔が崩れ、弱音を吐いた時、傍に寄り添い、その弱さを受け止めてやりたいと思った。これは何という名の感情か。彼女なら知っていそうだ。
亡者に対して私情を持つ訳がない。死神としてそれはあってはならないと自負している。それ故、この原因不明の感情を教えてもらうため——人間の事をより知るため、彼女を捜しているに過ぎない。そうに違いないのだ。彼女に鎌を向けたくないと思うのも、彼女の境遇に"同情"という感情を抱いたからだろう。彼女は本来生きて然るべき人間だったのだから。
それだけだ。夕凪依澄を捜す理由は、それだけ。
死神は河川敷や夕凪依澄の家に訪れ、求める姿が見えないとまた別の場所へ移動した。
仕事もまだ残っているため、それらは空いた時間にしか成せない。夕凪依澄との会話を思い返し、彼女が行きそうな当てを次から次へと探る。
そうこうしている内に日が暮れた。織部郁と合流し、互いに何処へ探しに行ったのか情報を交換する。しかし織部郁は父から連絡が来て、死神は次の仕事たちが立て込んでいて、結局夕凪依澄が何処に居るのかはっきりしないまま、今日は解散となった。
翌日も、その翌日も、同じように織部郁と二手に分かれて捜索したが、夕凪依澄の行方は分からなかった。
5
雨が降っている。
通行人は傘を差して歩いている人ばかりで、織部のように傘を片手に走り回っている人は見当たらない。
紫陽花が色づき、カタツムリが優雅に前進する最中、織部は依澄を捜していた。八日前に居なくなった彼女の居所が未だに掴みかねているのだ。道中すれ違う人ならざる者に聞き込みをしても、そんな幽霊は見ていないと口を揃え、目撃情報だって得られない。特別聞いた話では、ここ最近で隣街へ移動した者は見ていないという事だけだ。結果、彼女が街から出ていない事しか分からなかった。
休日などを使って捜索する織部と同様に、死神も仕事のない時間を見計らって彼女の居場所を追っている。二人で捜す場所を分担し、それぞれ得た情報を交換するのだ。合流する場所は例の河川敷である。
織部は河川敷から廃ビルや展望台がある地区を全体に駆け回っていた。幽霊が居そうな所も含め、念入りに。だが、いくら捜しても見つからない。死神が担当している依澄の家や依澄が通っていた中学校などの範囲にも居なかったそうだ。街からは出ていないはずなのに、これだけ捜しても見つからないのは、もう手遅れだからか。そんな不安が生じる。
早く見つけたい。その気持ちが織部の中で次第に大きくなっていく。
「どこにも居ないよ」
織部は死神と落ち合い、いの一番にそう知らせた。彼もまた、織部と同じ知らせを口にする。
「……このまま見つからなかったらどうする? 依澄ちゃんが悪霊になって、自我が保てなくなったら……」
只でさえ、彼女は孤独を嫌っていた。だから独りでぐちゃぐちゃになった感情を抱え、この世を彷徨うなんて事はあってはならない。絶対に。
「…………どうするも何も」死神が長く引き結んでいた口を動かす。「どうするも何も、その時は我が、手を下さねばならぬ」
声音も表情も揺るがない。彼は今、どんな気持ちで言ったのだろう。
「死神サンはさ、何で依澄ちゃんを見つけようとすんの?」素朴な疑問だった。「悪霊になられたら困るってだけ?」
死神はこちらに視線を寄越し、考えるような仕草を見せた。
「ああ。我が動く理由は、それだけ、だ」不自然に言葉を紡ぐ。
「そ。……あんたは依澄ちゃんの事、幽霊としか考えてないわけだ」
依澄は死神に対して何かしらの感情を抱いているように思う。死神を見る目が少し周りと違って見えたから。ただ、死神は依澄を"一つの魂"としか捉えていない。
お互い、信頼はしてそうなのに。
「まあ、死神と幽霊だもんね……」
織部は彼らに抱いた印象を立て直す。呟いてしまったのはほぼ無意識だった。
「……」
死神が再び喋らなくなり、少しばかり空気が重くなる。織部も口を閉ざし、辺りに目を配った。
河川敷とはいえ、此処には本当に人が通らない。立ち入り禁止でもないのに、何故か人々が避けるのだ。落ち着いた雰囲気であり、景観もそこそこ良い。だが、それでも避けてしまう、そんな場所。織部も金銭を稼ぐ目的がなければ、此処へ踏み入る事もなかったろう。
ただ、一人になりたい時は心地良い場であるのは確かだった。依澄が此処に居たのも、そんな理由があるからだろうか。案外、死神を待つ場として適しているからというだけかもしれないが。彼女ならどちらでもあり得る。
生前、一週間しか関わっていない相手の気持ちが容易に想像出来る様に、織部は訳も分からず胸が苦しくなった。彼女を身代わりにさせてしまった罪悪感がそうさせたのかもしれない。
言ってしまえば、居たはずの人が何処にも居ないだけ。でも、それはこんなにも心細く、不安定で、涙が滲むものなのか。こんなのは知りたくなかった。こんなのは、もう二度と。
「あー‼︎」
雨音に勝つ大声が織部と死神の元へ舞い込み、形成された思考は中断される。声の元を辿れば、何者かのシルエットが傘を持ってこちらに駆け寄って来ていた。
「見つけた! 織部くんと死神さんっ!」
高らかに名を連ねたその人物のシルエットが露わになった。
水色のシュシュで髪を一つに結い、町内唯一の女子校の制服を身に纏った少女。明るい声とは裏腹に、その顔はとある悪霊になった女性を彷彿とさせる。
織部は彼女が誰なのか瞬時に把握した。何せ、彼女には不審者呼ばわりをされた事もあったのだ。
「何かあったの、優里チャン?」
遠坂優里。それが彼女の名前だ。
肩で息をしながら、優里は死神と織部の周りに視線を泳がせた後「やっぱり」と独りごちた。
「何が『やっぱり』なのだ」死神が訊ねる。
「あの女の子、依澄ちゃん、の事で」息を整えながら優里は言った。
「依澄ちゃんがどうかしたの⁉︎」と織部。
「夕凪依澄がどうかしたのか⁉︎」と死神。
二人の勢いに気圧され、優里はおずおずと喋り出す。
「あたしがよく行く展望台あるじゃん。あの道沿いに廃ビルがあるんだけど、何か心霊スポットみたいになってて」
「心霊すぽっと……?」
「ちょ、死神サン黙ってて」
話が進まない、と言えば、死神は頭に疑問符を付けながら、優里の話に耳を傾けた。
「そ、それで、あたしの友達が夜、塾の帰りでその近くを通ったのよ。元々その子は視えないみたいなんだけど、何故かその時に廃ビルの中に人影を見たって……特徴がうろ覚えらしいんだけど、大体まとめてみたら、その人影が依澄ちゃんそっくりなの!」
最初は優里の友達も家出か何かだと思ったという。
「だけど、声をかけようとしたらふっと消えちゃったんだってさ! 幽霊だと思って逃げたらしいんだけど、絶対にその人影は幽霊で合ってるよね。っていうか依澄ちゃんだよね。友達が言うには、その子の傍に死神さんみたいな人も見当たらなかったようだし、依澄ちゃんに何かあったんじゃないかと思ってあんた達を捜してたの!」
織部は死神と顔を見合わせる。
これは求めていた情報だ。廃ビルの近くに居たという事は、今もその付近に居るかもしれない。
「あれからあたしも何か色々と視えちゃうし……死神と人間が『足が消えかけてる少女』を捜してるっていう話も聞こえてきたのよ」
絶対に何かあると思った、と優里は人差し指を立てた。
「実は八日前、依澄ちゃんが居なくなって捜してたところなんだ」
折角だから協力してもらおうと織部は事情を語った。
「……そうだったんだ。あたしも捜すよ。依澄ちゃんには、お母さんの事でお世話になったから」
優里が優しい顔つきで頷いた。
「あたしより年下なのにしっかりしてる子だもの。きっとあの子も一人で抱え込むタイプなんでしょうね」
その呟きに死神がピクリと反応する。
「……」
顎に手を当てて死神が思案する間、織部は優里と話を進めていた。
「依澄ちゃんの身体が消えかけてるのは、あの子の魂が壊れそうだからだ。完全に壊れるのも時間の問題で、負担が重くなるほど脆くなる」
「お母さんを止めようとしてくれた時、あの子、お母さんに触れて指先が消えたのよね?」
「うん。それに、依澄ちゃんは未練に関するものや死ぬ前の記憶もない。だから危険なんだ。……俺は今まで幽霊を視てきたけど、あんなに不安定な魂は初めてだ」
笑顔でいる姿を見る度、彼女の身体が薄れていく事に心が痛んだ。
「……全部、俺を、庇ったせいだ」
織部を庇わなければ、こんな事には。優里は織部の表情を一瞥し、そして一喝した。
「うじうじして情けないわね! 事情は知らないけど、依澄ちゃんを捜すって決めたんなら、行動するのみでしょ。それ以外にする事あるわけ?」
「っえ、あ。え。ない、です」
教師以外の人に叱咤される経験が少ない織部はたじたじとなった。
「居なくなった人を想う気持ちは分かるよ。それが大切な人だったら尚更。あたしもそうだったから。絶望して、生きる事が辛くなって、もう何もかもがどうでもよくなっちゃうの」
だが依澄達のおかげで、"ふり"じゃない、本当の意味で前を見る事が出来たのだと、優里は真っ直ぐな目を向けた。
「借りがあるなら返そうよ。助けてもらったなら、『ごめん』じゃなくて『ありがとう』って言おう」
「!」
だから早く捜さなきゃ。優里がそう囁いた時、それまで会話に入らず考え込んでいた死神が勢い良く顔を上げた。豪雨は続く。風も強くなってきた。
「そうか……だから我にも分からず、見つからなかったのか……」
ぶつぶつ何かを口にし、思考がまとまったのか、死神は一言。
「夕凪依澄は廃ビルに居る」
「…………え」織部と優里の声が重なった。
「織部郁が行った時にも、彼奴はそこに居たはずだ。ただ視えぬだけで」
「どっ、どういう」織部は『視える』のに。
「話は後だ。時間がない。織部郁は夕凪依澄の兄を廃ビルに連れて来い。遠坂優里はそれに付き添い、道中事情を説明する手助けを頼む」
こちらの疑問などお構いなしでテキパキと指示を出す。
「織部郁、お前の体質も話すのだ。強引で申し訳ないが、そうせねば夕凪透真は来ぬ」
「はあ? そんないきなり」
「夕凪依澄のためだ」
きっぱりと言い切る死神に反論しようとしたが、織部は彼の顔を見てそれを止めた。
「……分かった」
覚悟を決め、死神を見返す。死神は「任せたぞ」と言い残し、依澄の居るであろう廃ビルへ向かった。一瞬にして消えた死神に優里は口をあんぐりと開けていたが、はっと我に返り、織部と視線を合わせる。
考えている事は一緒だ。依澄が心配なのは、死神も同じ。
「行こう」
「うん」
織部は一度携帯電話で連絡を入れ、返信を待つ間もなく、走り出した。優里はその後に続く。時間がない。死神の言う通りだ。
「……」
走りながら織部は思い出していた。
依澄のためとはっきり口にした彼の表情。死神にとって依澄はもう、"一つの魂"ではなくなっているのだろう。それは恐らく、依澄が死神に抱く感情と同じものが彼の中で芽生え始めたからだ。
だから、やはりお互い、信頼しているのだと思う。
✴︎✴︎✴︎
沢山の人に支えられて生きた。
忘れっぽいのだと自認していたし、周りも優しく、『普通』のように接してくれた。
けれど、迷惑はかけた。仲が良い友達の名前を忘れたり、顔を思い出せなくなったり、遊ぶ約束をすっぽかしてしまったり。勉強面で覚えていた事が気付けば何処かへ行ってしまったり、生活面で小さい頃から身につけてきた走るという動作が分からなくなったりもした。
ただ、どれだけ記憶が戻らなくても、周囲の人は嫌な顔もせずまた教えてくれた。陰口だってほとんど言われなかった。虐めもない、普通以上に恵まれた環境だった。
それなのに、何故だろうか。
毎日楽しいはずなのに。毎日人の温もりに触れてきたのに。
しんどいと感じてしまった。
優しい言葉で溢れた空間。それが自分のせいで壊れ、また記憶から跡形も無く消え去る気がした。
怖くてしょうがなかった。それほど遠くない未来で、周りの人も忘れてしまうのではないかと震えが止まらなかった。
一つ忘れ、また一つ記憶が転がり落ちる。手の届く範囲には、落とした記憶が多過ぎて抱え切れない。
そうしている内に、罪の意識が芽生えた。忘れてしまう罪悪感が、心の中で居座り続ける。
段々と人に迷惑を背負わせているとしか思えなくなった。覚えていない事ばかりで、クラスや家族の空気が悪くなっている気がした。その空間に居るだけで息が詰まり、そんな風に考える自分が嫌で嫌で堪らなくて、この気持ちを早く捨ててしまいたかった。
だから、いっそ消えてしまえたらいいのにと望んだんだ。
——一人は嫌だよ。ひとりはイヤ。
——忘れたくて忘れてるんじゃない。
——覚えていたいのに、いつもどっか行っちゃう。
——私は人に忘れられる事も、人を忘れる事も、どっちも怖いんだ。
死の世界に興味を持ち始めたのは中学に入ってからだ。小さい頃は周りと違う事に怯え、兄に頼っていた。隠れん坊でさえ嫌っていたのだ。鬼側も隠れる側も、自分がどちらかの立場になったとして、一緒に遊んでいた子達の存在がいきなり記憶から消えてしまったらと思うと、とても呑気に遊んでいられないから。
頼ることも怖くなったのは、何時からだったろう。
「死の世界への興味が失せた」なんて、どの口が言えるか。『生』に手を伸ばすこともせず、自ら望んでいた状況へ身を委ねたのだ。夕空の中で落ちてゆく際、恐怖とは別の、やっと消えれるという安堵を抱いたように。
だが、自分はどうしても孤独を恐れてしまうらしい。
消えたいと願っていた反面、独りにはなりたくないともう一人の自分が叫んでいるのだから。
✴︎✴︎✴︎
死神は廃れたビルの中でその姿を形作った。
目の前ではここ数日間捜し回っていた者の姿があり、膝に顔をうずめている。まだこちらの気配に気付いていないようだ。死神はそっと彼女の前に片膝をついた。
もっと早く此処へ訪れていれば。
織部と分担した捜索範囲を思い返し、そんなことを考える。
彼女は膝を抱えてはいるが、その膝から上も既に無く、指先だけが無くなっていた手ももう腕まで消えかかっていた。今は余力でギリギリ姿を保っているのだろう。気を抜けば、きっと彼女は呆気なく空気に溶けてしまう。
死神はなるべく驚かせないよう、短く言った。「見つけたぞ」
6
見つけたぞ。
死神が声をかけると、依澄は勢いよく顔を上げ、その目を大きく見開いた。「どうして此処に」という視線が刺さる。
「捜していた」
「……誰が、誰を?」ぼんやりとした声だ。
「我が、夕凪依澄を。決まっているだろう」
「……どうして」
「此処が判った、か? ふむ。なんと言えば良いか……」
死神は確信を持って此処へ来た。だがそれを説明するとなると、少々難しい。元々人間と話すのは苦手だ。
「きっかけはそうだな、遠坂優里の情報だ。お前がこの辺りに居たと聞いた。それで考えてみた。八日も捜して見つからなかったのに、どうして此処でお前が目撃されたか」
視えぬはずの優里の友人にも、僅かであったが視認出来た理由。それも関係していると踏んだ。
「お前は特殊だ。命を落とす羽目になった上、身体が壊れる事など前例がないからな。という事は、夕凪依澄はもう生者の目には映らなくなっている可能性がある。現に、織部郁が此処へ捜しに来た時、お前を認識しなかった。違うか」
依澄はコクリと頷いた。
「だが遠坂優里の友人には視えた。恐らく、魂が不安定なのだ。視えぬ者に視え、視える者に視えぬ理由はそれに限る」
それ以外あり得ないと死神は断言する。依澄は依然と彼の話に耳を傾けていた。
「ならば簡単な事だ。織部郁が捜索していた範囲であるのは当然で、その内のお前が足を運ぶような、他の亡者に気取られぬ場所は此処しかないと思った」
説明が上手くいった、と無表情と噛み合わない得意げな声で死神が話を締める。
「……え。それだけ、なの?」
ぽかんと口を開けて依澄が死神を見ていた。
織部の捜索範囲とやらは存じないが、それだけで判るものなのか。そう尋ねると、死神は「夕凪依澄の考えなど、読むに容易いのだ」と微かに笑った。
「死神さん」
短い沈黙の後、依澄は八日前の事を話した。
「——って感じで全部、思い出したの」
死神は依澄の隣に腰掛けた。二人で塗装が剥がれ落ちた壁にもたれるようにして座る様は、傍から見れば仲良しだと思われかねない。
「未練も分かったのか」死神は穏やかだった。「果たしには行けなかったようだが」
「うん。やっと未練が分かったのに、身体を動かす事が思ったより辛くて……どうにか屋上から一階まで降りたんだけど、そこで力尽きちゃった」
あはは、と乾いた笑い声がその場に響く。くすんだ窓硝子の奥では未だに雨が降り止まない。
「死神さんには言うよ。私の未練。お世話になったからね」
「ああ、毎日世話をしたな」
「……なんか馬鹿にされてる気がする」
口を尖らせるものの、死神が反応する訳もなく、素知らぬふりで誤魔化された。
「まあいいや。お世話されたのは事実だし。それで……何だっけ」
「未練」
「そうそう、私の未練の話。……家族と織部さんに謝りたかったんだ。いっぱい迷惑かけたし、親孝行する前に死んじゃったから……。直接会って、ごめんって言いたかった」
もう消えて視えなくなった手を強く握った。感覚だけは一丁前にあるのだ。
「それから、ありがとうとも言いたいの。ずっと支えてくれた事に対して、私はまだ恩を返してないから。織部さんにも、面白い話を聞かせてもらった恩がある」
「織部郁の恩はもう返しただろう」
一瞬、死神の言っている事が分からなかった。だが彼の言わんとする事に気付き、依澄は微笑む。「そうかもね」
「これが私の未練だよ。果たすのはもう無理そうなんだけど」
「そうだな。お前の身体はあと数時間も保たないようだ」
期限までは猶予があるのに、身体が壊れる時間は呆気ないほど短い。薄々勘付いていたが、死神に言われるのとでは信憑性が違う。
「あっ。そう言えば死神さんに持っておいてほしい物があるんだった」
訝しがる彼に、ポケットから取り出した物を差し出す。手が消えているため、物だけが宙に浮いたように見える。可笑しな光景だ。
「これは……」
「ストラップ付きの携帯だよ」
ストラップは星型で、織部から貰った物だ。
「今、何でって思ったでしょ」
悪戯が成功した子供の顔で笑う。
「私が居たっていう証を、貴方に持っておいてほしいの。忘れたっていいから、これだけは持ってて。……お願い」
「夕凪依澄」
目が合う。ああ、これは心配している目だ。死神も出来るように、依澄にも死神の思考を読み取る事が少し出来るようだ。
「大丈夫。大丈夫だよ。覚悟は出来てるの」
「……それは、消える覚悟か」
「そうだよ」
その時の死神の顔は忘れないと思う。置いていかれた子供のようにあどけなく、泣きそうな表情。普段の死神からは想像も難しい。
彼は無自覚だろうが、情が湧く、なんて事はないと思っていた。
「我は死神だ」
「うん、知ってる」
「……忘れるやもしれぬぞ」
「うん。いいよ」
「……消えるのが嫌なのではなかったのか」
「そうだね。嫌だった。でもね、それは誰かに知られた状態なら嫌じゃないんだ」
僅かに死神が目を瞠る。
「死神さんが知ってるなら、私は消えてもいいの」
その言葉に驚いているらしい。死神が口を引き結んでいる間、依澄は続けた。
「全部思い出した今だから言えるんだけど、私は死にたかったんじゃない。消えたかったの。それに、家族が今まで以上に幸せになってくれれば、私は消えたって良い。だからこれは本望なんだ」
ゆっくりと死神の手が携帯電話に伸びる。しかし、受け取る前にその手は止まった。死神が開口した。
「ところで」いつもの彼に戻っている。「何故そこまで力を消耗しているのだ」
「へ?」
「我なりに考えた。本来なかったはずの死、生前からの記憶の欠落。お前の消滅を望む気持ちがその魂に亀裂を生んだのだろうと。ならば、一人は嫌だと言ったお前が、未練を自覚してじっとしているわけがない」
違っていたらすまぬと断りを入れてから、彼は告げた。
「お前は、家族に会いに行ったな」
✴︎✴︎✴︎
「そこに行けばいいのか」
レインコートに袖を通しながら、透真が尋ねた。あまりにもあっけらかんとした物言いに、勇気を出して事情を説明した織部と優里は困惑する。視える事や依澄の事を話したが、そこまで簡単に信じてくれるとは思わなかったのだ。
「う、うん。一緒に来てほしい」
戸惑いつつも織部は答えた。優里がその後ろで小さく頷く。その様子を尻目に、透真は外出の準備を終え、足早に歩き出した。
「俺は何をすれば良いんだ?」
「死神サンに連れて来いって言われただけだから……」
「そうか」
織部は優里と密かに顔を見合わせた。どうして無条件で信じてくれたのだろう。考える事は同じだった。八日前、織部の発言に取り乱していた透真はもう居ないみたいだ。妹が霊体となっていると信じて疑わない兄だけが此処に居るかのような、そんな気配を感じ取る。
必然的に沈黙が場を支配する。それを解いたのは優里だった。
「あの。どうして信じてくれたんですか。依澄ちゃんの事」
「……夢を」と透真が応えた。「夢を見たんだ」
「夢?」
「依澄が俺に向かって言うんだ。日記を読め。そうしたら織部の秘密が分かる。だから信じてあげて、自分はもう大丈夫だからって。それから、幸せになってほしいって笑うんだ」
大雨で声が聞き取りにくい。だが、聞こえた。
「母さんも父さんも、同じような夢を見たらしい。揃って最後はあいつが幸せになってほしいって笑うんだと。だから信じようと思ったんだ。依澄の日記にもそれっぽい事が書かれてあったしな。友達ならともかく、妹を疑うのは嫌なんだ」
シスコン、と織部がぼそっと呟くと、透真は「そうかもな」と微笑んだ。
✴︎✴︎✴︎
「なんで、バレちゃうかな」
眉を八の字にしてため息を吐く。
隠し通せると高をくくっていた。自分でも嫌気がさすくらいの誤魔化しの笑みが、まさか死神に通じないとは。いや、別に全てを誤魔化せるなんて自惚れてはいないが。
「言ったろう。お前の考えはお見通しだ」
「……そのようで」
一旦、携帯電話をポケットに直した。この状況で彼が受け取ってくれる訳がない。
「なあ、夕凪依澄」と死神が切り出す。「何故隠した?」
まるで取調室で刑事に尋問されている犯人の気分だ。
「何故嘘を吐いた?」
次々と疑問をぶつけられる。依澄は黙秘を貫くつもりであった。
「何故言わなかった?」
黙秘を貫くつもり。
「何故、我を頼らなかった?」
黙秘を……。
「何故お前は」
「あーもう! 何故何故って、ちょっと口閉じて!」
新手の嫌がらせだろうか。こうも理由を問われるとうんざりする。睨むように死神に視線を向けると、彼は眉間に皺を寄せてこちらを見ていた。言葉に詰まり、慌てて視線を逸らす。
「ほ、ほら、未練が果たせてないのは事実だから、言う必要ないかなって思って言わなかったんだよ、うん!」
今日の死神はおかしい。表情も、声音も、発言だっていつもと違う。あの無表情、無感情な死神は何処に行ってしまったのだ。
「言いわけを聞くために訊ねたのではない。お前の未練は家族や織部郁への謝罪と恩返し以外に何かあるのだろう」
むすっとした言い方を止めてくれないだろうか。心が落ち着かない。
「分かった。言う、言うよ! だからちょっと、その、えと、勘弁してくれませんか」
お願いだから! と我を通す依澄に、死神が小さく首を傾げる。——これ分かってないやつだ。とはいえ、前言撤回が出来る雰囲気ではない。
よし、と意を決して口を開いた。
「死神さんと、話したかったの」
言いながら、未練とは無関係だと言った過去の自分を思い出す。家族やお世話になった人が幸せになってくれるのなら、自らを消してと天に祈ったくらいだ。黒澤と会話した時は、これも未練だとは露ほども思わなかった。
死神の反応が怖くて表情を伺えない。縮こまるように下を向く。
その時、がらんとした廃ビルへ近付いてくる足音が聞こえた。雨音に混じって聞こえてくるその音は、一人のものではない。
入口に顔を向けると、ちょうど誰かが入ってきた所だった。一応、此処は立入禁止の域なのだが、などと考え、その人を視界に入れた瞬間、依澄は言葉を失った。
今まさに眼鏡を整えている黒髪の青年は、依澄の兄だった。その後ろでは織部と優里が傘を閉じている。
疑問に思うより先に気付く。死神が呼んだのだと。
「死神サン。依澄ちゃんは……?」
織部が開口一番に尋ねる。視える彼でも、依澄の姿は捉えられていない。
「我の隣に居る」
端的に応えた死神は「二十秒だ」と言った。同時に視える二人と依澄が首を傾げる。
「二十秒だけ人の目に視えるよう、何とかする」
どうやら話したい事があるなら話しとけという事らしい。
織部が透真にそう伝えると、透真は依澄と死神が居る壁の方に視線を寄越した。
何を言われるだろう。不安や期待が入り混じってよく分からない気持ちだ。
屋内というのに何処からともなく風が吹いた。冷たく柔らかな風は生者の髪や衣服を揺らす。
深呼吸をした透真が瞬きをした刹那、依澄は兄の瞳に自分の姿を見た。
「依澄、なのか」
「……! 兄さん」
視えている。もう二度と話せないと思っていた家族と、会話が出来る。
今すぐにでも駆け寄りたい気持ちを抑えて、依澄は笑顔を見せた。動けない事を察した透真は依澄の傍に近寄り、目線を合わせるため、しゃがみ込んだ。隣に居る死神など目にくれず、依澄に語りかける。
「日記、読んだぞ。何回か書き直した跡があったし、何ページか破ったろ」
「うん。あんまり残したくなかった事、書いたから」
触れられないと分かっているだろうに、透真は依澄の頭に手をやった。体温は感じないが、ふわっと曖昧な風のようなものを感じる。
「ごめんな。お前の事、俺はちゃんと見れてなかった。毎日気ぃ張って過ごしてても、お前の最期を思い出して泣きそうになるんだ。しんどかったんだよな。ごめん、気付いてやれなくて。兄失格かな」
「そうだよ。兄さん失格だよ。何で今、そんな事言うの。これじゃあ私……っ」
消えたいと願った。消えてしまえたら幾分か楽になれると。だけど、その決意が揺らぎそうだ。
「でも、そんな俺に会いに来てくれたんだな。母さんと父さんも依澄の笑顔を見たって嬉しそうだった。ありがとう。織部の事も、俺が誤解しないように心配してくれたんだろ?」
「だって、織部さんは兄さんの唯一の友達だもん」
「いや、織部以外にも友達はいるぞ……?」
「織部さんが居なくなったら、兄さんぼっちになっちゃうし」
「聞けよ」
通常運転の依澄に透真は苦笑する。
「まあ、とにかくだ。——ありがとな、依澄。お前は優しい妹だ」
反則だ。最後の最後にそんな事を言うなんて聞いてない。
「母さん達にも何かあれば聞いとくぞ」
もう時間だ。
「今までありがとうって伝えて、兄さん」
透真の瞳から依澄が消えた。視えなくなったのだ。「分かった」と透真は静かに立ち上がり、名残惜しそうに自身の手を見つめる。
「依澄」ぎゅっと拳を握る。「死神とやらと、最後まで仲良くするんだぞ」
余計なお世話だ、と思ったが、兄は兄なりに思いやったのだろう。何も言わず、依澄はまた笑みを浮かべた。消えるこの身が惜しいが、これで彼らが幸せになるのなら、やはり。
「織部、俺はもう帰る」
「えっ。早くない? 何だったら俺も何か依澄ちゃんに言いたいんだけど」
「誰が一緒に帰るって? 俺が忘れない内に、あいつの言葉を母さん達に伝えたいんだ」
「……さいですか。じゃ、また。透真くん」
「ああ、またな。織部」
晴れ晴れとした顔つきで透真は廃ビルを去った。依澄も元気な兄を見て喜ばしく思う。
「依澄ちゃん」重なった声が聞こえた。織部と優里だ。二人は言いたい事が決まっているのか、同時に口を開いた。「ごめん。それから、ありがとう」
見事なシンクロとその言葉に胸が温かくなる。二人の表情は柔らかかった。けれど、二人とも、目の縁には涙が溜まっていた。依澄はもらい泣きしそうな事を隠すために俯くと、ある事に気付いて、はっとした。
身体が微かに光り、消えていっている。それも今までにないスピードで。光の粒のように消散し、どんどん形が失われていく。思わず死神を振り返った。
「これって……!」
「魂が限界を迎えたのだろう。お前の身体はもう保たぬ。……未練を果たせた故、あの世へ連れていけると思ったのだが——どうやら遅かったようだ」
既に形が無くなった手も足も感覚がない。死神が依澄に手を伸ばすが、その場所も呆気なく消えた。
「夕凪依澄には、借りがある」
「狩り? え、何、私狩られるの?」
焦った頭ではお粗末な考えをしてしまう。脈絡のない言葉を吐いた死神は依澄の動揺を把握しながらも、発声する。
「黒澤蓮の件もそうだが、初めて会った日、見つけるのが遅くなってしまった事を許してくれたろう。助かった、感謝する」
微かに目尻を下げた。
「我は借りを返す主義だ。故に、お前には正直に応えよう」
徐々にぼんやりとする視界の中、死神の姿が目に焼きつく。
「我は夕凪依澄を特別に思っている。これが何の感情かは分からぬが、お前に情を抱いているのは事実だ」
だから。
「我もお前と話したかった」
さっきの話の返事だ、と点と点が繋がった時、待っていたと言わんばかりのタイミングで意識が遠のいた。
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