第二章 千切れぬ糸

   1


 朝日が昇る頃、依澄は河川敷で死神を待っていた。

 昨夜、黒澤蓮の魂をあの世へ連れていったきり、彼は一向に姿を見せていない。幽霊は眠らないといえど、依澄にとっては徹夜のような時を過ごした気分である。

 五月も終盤に差し掛かる時期だ。梅雨が訪れるのも時間の問題だろう。西の空から灰色の雲が近付いて来るのが伺える。

 そんな景色をぼんやりと眺めながら、依澄はある事を思い出していた。

 『俺が、君を殺したんだ』

 昨日、織部郁という青年は確かにそう言った。後ろめたい感情を秘めた瞳をこちらへ向け、切なげに歪んだ表情で。……本当、なのだろう。少なくとも彼はそれが真実だと思い、言ったのだ。依澄は何も覚えていないが、自分が高い所から落下する瞬間の記憶は蘇った。織部の言葉と照らし合わせて考えると、依澄は突き落とされた事になる。自分でもその情景が容易に浮かび、真である気がしていた。

 「……だけど」

 どうして突き落とされたのだろう。

 あの後、織部は続きを話そうと口を開いた。しかし織部が声を発するより先に、彼の黒パーカーのポケットから着信音が鳴ったのだ。電話の内容はどうやら中々帰って来ない織部を心配した父親のもので、通話を終えた織部は依澄に帰らなければならないと話した。依澄としては話の続きを知りたかったところだが、親から心配の電話をされた人を無理に引き止めるわけにいかない。織部はまた会った時に話す、とその場を去った。依澄は問い詰めたい気持ちを抑え、その背を見送った。

 夜が明けた今、依澄は何故あの時訊かなかったのだろう、と後悔した。あそこで引き止めていれば、自分の抜け落ちた記憶について何か分かったかもしれないのに。

 まだまだ分からない事がいっぱいある。死ぬ前の一週間の記憶も、未練も、全て思い出すにはもう少しかかりそうだ。

 残された時間はあと二十六日。そう悠長に構えていられない。

 いつかのように決意を固くした依澄の目前に、黒いコートを羽織った男が現れたのは、その時だった。

 「夕凪依澄、全て話してもらうぞ」

 開口一番に感情の乗っていない声で名を呼んだのは、お待ちかねの死神。依澄が織部に対して出来なかった問い詰めるという行為もあっさりとやってのけた。

 「……うん」

 依澄はしっかりと死神の目を見て、今まで隠し続けて来た事を全て話した。

 死ぬ前の一週間が思い出せない事、死んだ理由が分からない事、死後、気付けばこの河川敷に居た事、未練があるはずなのに、それが何なのか分かっていない事、黒澤の件でやっと自分の死ぬ瞬間を思い出した事。洗いざらい吐き出した。隠していた事に対して後ろめたさはあるものの、依澄は気負わず、むしろ清々した気分で打ち明けれた。

 死神は黙って依澄の話に耳を傾けていた。大きな反応はなかったが何かしら思う事はあるのだろう。複雑な表情をしていた。

 「……理解した」

 全てを聞き終わった死神はそう一言告げた。

 「え、それだけ?」

 もっとあるだろう、と見返す。死神は事も無げに言った。

 「大方、予想はついていたのだ。前々から不自然だと思う事はあったが、黒澤蓮の一件で確信した。お前自身が未練を分かっておらぬとな。我がそれに気付かぬほど鈍いとでも?」

 片眉を上げて心外だと訴える死神。

 「……思ってた」依澄は本音をこぼす。「死神さん抜けてるとこあるから、気付いてないって過信してたよ」

 「失礼だな」死神が微かに口角を上げる。「我には"ばればれ"だ」

 「……じゃあ死神さんは、勘付いてて何も言わなかったの?」

 「まあ、そうなるな。暫くは様子見をするつもりだった」

 「無理矢理、私をあの世へ連れていったりしない?」

 「何を言っている。無理に連れていこうにもそう容易には出来ぬのだぞ。あれは危機感を与えるために言ったのだ」

 「……」

 紛らわしいと思う反面、まだもう少し彼と話せると嬉しく思う自分が居た。

 「ところで、夕凪依澄。織部郁に何か言われなかったか? あの者は女好きな故、生者も亡者も関係なく声をかけるのだ。そして我の仕事を邪魔する。お前は我の管轄だからな。何かあれば困る」

 真っ先に頭に浮かんだのは、昨日のやり取り。これは隠さず、正直に答えた。

 「『俺が君を殺した』って言われたよ」

 フードから覗き見える目が僅かに開かれた。予想外だったらしい。

 「ねえ、死神さん。私の死因って何なの?」

 「転落死だ」

 事故、自殺、他殺。一体どれなのだろう。

 「ただ」依澄が訊ねようと口を開く前に、死神が声を出す。「お前の場合、特殊なのだ」

 「特殊?」

 「ああ。詳しくは我も分からぬが——お前は本来、死ぬはずではなかった人間だ」

 思考が止まる。

 織部といい、死神といい、どうしてこうも人が動揺することを言うのだろう。理解が追いつかなくなる。

 依澄が瞠目して固まっていると、死神は「仕事の時間だから」と申し訳なさそうに去ろうとする。その様子に我に返った依澄は今度こそ引き止めるべく、死神に手を伸ばす。

 「待って‼︎」

 伸ばした手は、空を切った。手が届く距離に居た死神の姿はもう何処にもない。一足遅かった事に呆然と立ち尽くす。

 「……っ。そんな顔するなら、待ってくれたって良いじゃん」

 言うだけ言って消えるなんて、都合が良すぎるではないか。

 形容し難い気持ちが胸に広がる。

 この場に居るのも居た堪れなくなり、依澄はこれまであまり足を運ばなかった住宅街へ、逃げるように歩いて行った。

 足はもう、膝下まで色を失っていた。



 どれほど歩いただろう。疲れはしないが、見慣れない場所に勢いで来てしまった。

 河川敷とは違い、住宅街には人の気配があった。建ち並ぶ家々から聞こえる人の声。なんだか懐かしい。

 ふと、電柱の陰に誰かが居ると気付いた。

 赤い屋根の家を見たまま動かない"誰か"を確認しようと恐る恐る近付くと、 焦げ臭い匂いが鼻をくすぐった。何処かの家で料理を失敗したのだろうか。匂いの出処を探すようにキョロキョロと辺りを見渡す。

 「そこの貴女」

 その時、電柱の陰で声がした。声の主は肩で切り揃えた髪を揺らして依澄に視線を向けている。ばちっと目が合った。そして悟る。

 「貴女も幽霊なのね?」

 電柱の陰から出てきた女性の姿は透けており、風によって揺れる草木の横で一ミリたりとも動かない髪や服が、依澄と同じ存在であると示していた。


   ✴︎✴︎✴︎


 「驚かせてごめんなさいね。あの赤い屋根の家、私の家だったの。死んでから娘のことが心配で様子を伺っていたのよ。紛らわしかったかしら?」

 にこりと微笑む女性は遠坂とおさか弘美ひろみと名乗った。正真正銘の幽霊だ。

 先ほど、道の真ん中で話すのもどうかと言って近所の公園へ案内してくれたのも遠坂だった。彼女はそのまま、依澄をベンチへ座るよう促す。

 数人の子供が砂場で遊んでいる様子が真っ先に目に入ったが、親らしい人は見当たらなかった。最近は事件が多いのに随分と不用心だな、と感想を抱く。

 「いえ。あの、遠坂さんはどうして幽霊に……?」

 長話をするつもりはなかったが、この場を去るつもりもなかったため、会話を続けた。

 「そうねえ。私は事故、みたいなものよ。そういう貴女は?」

 「私は……」

 転落死だと、死神は言った。しかし、同時に依澄は"特殊"で"死ぬはずではなかった人間だ"とも言ったのだ。その言葉の意味を計り兼ねている今、何と言えば良いものか。

 黙り込んだ依澄に遠坂は眉を下げて謝った。

 「ごめんなさい、辛いことを思い出させちゃったわね。貴女はまだ若いもの。その歳で亡くなってしまったなら、そりゃあ思うところもあるわよね」

 どうやら依澄が口を閉ざした理由は死因を思い出してだと思ったようだ。実際は違うが、まあ触れないでおこう。

 「こちらこそ、突然失礼なことを聞いてすみません」

 「いいのよ。ところで、どうして貴女は足が消えているの? 身体が透けるているだけなら分かるけれど」

 「多分、期限が近いからだと思います。前に死神さんが言ってました。私の身体は壊れかけているって」

 「あら。期限が近いと消えるのね。それは知らなかったわ」

 あっさりとした返事に、今まで関わったことのないタイプだと直感する。消える事を知らなかったなら驚くなり何なり、何らかの反応をするだろうに。

 「貴女、中学生? そう言えば名前も聞いてなかったわね」

 「はい、中学二年でした。名前は夕凪依澄と言います」

 「なら、依澄ちゃんと呼ぼうかしら」

 なんとなく慣れないテンションに居心地が悪くなる。そろそろ立ち退こうかと腰を上げかけた依澄を、まるで逃がさないとでも言うように遠坂は畳み掛けた。

 「ねえ依澄ちゃん。ここまで話を聞いてくれたのだから、折角だし私の未練を果たすの、手伝ってくれない? 大丈夫、悪いようにはしないから」

 にんまりと口角を上げる遠坂は、依澄の腕を掴む。思いの外強い力で掴まれた腕は、振り払おうとしても出来ない。さり気なく遠坂の手を剥がそうと空いている手を動かしても無意味だった。遠坂は依澄の逃げたいという気持ちに気付いてて腕を離さないつもりらしい。依澄は自分に拒否権がないと悟る。

 抵抗をやめた依澄に、遠坂はもっと笑みを深くした。

 「ありがとう! 助かるわ!」

 依澄は精一杯の愛想笑いを浮かべた。心の中でタチが悪いな、この人……と思っているのを覆い隠すように。

 いつの間にか、死神への言い表せないような感情は消えていた。


   2


 死神は仕事である"魂回収"を行った後、また別の場所へ移動していた。

 "魂回収"には主に三つの種類がある。

 一つは、未練がない亡者をあの世へ案内する事。生者が死者へと変わる瞬間に、人間の器である肉体と魂は分離される。器は人間に任せられるが、魂はそうはいかない。未練がないのに現世を彷徨うなどあってはならないのだ。その魂はあの世へいくまで生前の姿に形を模すが、死神の案内が終わるとその形は崩れ、あるべき姿へ戻る。本来の形になった魂はまた別の死神に渡す事となっている。

 二つは、未練がある亡者をあの世へ案内する事。多くの人間は未練を抱えて彷徨う。その未練を果たさせねば死神とてあの世へ連れていけない。それほどの力は持っていないためである。故に時々亡者を手助けする事もあるが、それは致し方ない。未練を絶てばあの世へ案内できる。必要な事だ。

 三つは、期限である四十九日を過ぎて尚、未練を果たせず彷徨っている亡者を刈る事。期限を過ぎれば亡者の記憶は曖昧になり、精神が崩壊していき、やがて"悪霊"と呼ばれるまでに至る。悪霊は亡者と違い、生者に危害を加える恐れがあるのだ。それは自然の摂理に反する故、死神特有の鎌でその魂を切り裂く。刈った魂はもう来世がなく、跡形もなく消滅するが、これも致し方ない。

 そして悪霊になるのは、何も期限が過ぎるだけでない。憎悪や怨恨、殺意を胸に抱えた亡者は死後間もなく悪霊と化す。過度な絶望を抱えた者も可能性は高い。

 それら三種類の仕事をこなす死神は、『死神』の中でも下っ端の位だった。

 しかし最近、その仕事を邪魔する者が現れた。

 織部郁と夕凪依澄。片方は生者で、もう片方は亡者。生者の方はとても珍しい"眼"を持っている。対して亡者の方は死ぬ一週間前と未練が記憶にない状態だと言う。しかも織部郁は死神の管轄である町に住み、夕凪依澄は魂回収に当てられた一人である。全く手に負えない事態だ。

 心労が絶えないと思いながら通りかかった神代高校。昨夜、あの世へ案内した黒澤蓮は此処に通っていた。授業はまだ始まっていないようだ。まだ出歩く生徒が多い。そう言えばこの高校には夕凪依澄の実兄も通っているのだったか、と再確認した時。

 「し、に、が、み、サ〜ン」

 こそっと声をかけてきた人物を確かめるべく、視線を動かす。フードで暗い視界の端に、栗色の髪が映った。

 「……お前か」

 「そんな嫌そーにしなくても。別に今日は何も邪魔しねえよ? これホント」

 「……」

 「いや黙るなよ」

 話しかけられた事に鬱陶しく思い、死神は無視して姿をくらまそうと画策する。しかしその直前、織部郁の口から放たれた名に死神の計画は崩れた。

 「っていうか、依澄ちゃんの事で話あるんだけど。今、時間いい?」

 次の仕事がある、と考える前に、夕凪依澄の未練をどうにかしなければならないという気持ちが勝ってしまった。気付けば死神は「少しだけだぞ」と口走っており、自分が仕事を後回しにしたと自覚すると、驚きの感情が広がった。幸い、表情には出ていない。

 結局、死神は自分の発言を撤回せず、織部郁から記憶が抜け落ちて困っている彼女の話を聞く事にした。

 死神はそこで初めて、夕凪依澄の『本来なかったはずの死』の理由を知る。


   ✴︎✴︎✴︎


 空が灰色の雲で覆い尽くされた。草木の色もどこか薄暗い。

 公園で遊んでいた子供達は依澄と遠坂が話し込んでいる内に帰って行った。まだ昼前だが、雨が降ると思ったのだろう。子供達の母親が迎えに来ていた。

 遠坂はそんな風景を眺めながら、自分の未練について語った。

 ——一年前に夫が亡くなった。そして母親である自分まで死んでしまった。たった一人の娘をこの世に残し、本当に申し訳ないと思っている。けれど毎日毎日今にも死にそうな顔で娘が弱っていく姿が見ていられないのだ。このままでは娘も死んでしまう。だから何とかして娘を元気付けたい。

 哀しげに話す遠坂の声は決意に満ち溢れ、使命感を帯びていた。

 「あの子は一人で抱え込む癖があるから、心配なの。私が生きていたら抱き締めて慰める事も出来るのに、今では出来ないでしょう。それにあの子を弱らせた原因は母親である私よ。……本当に、どうして置いて行ってしまったのかしら」

 眉を下げて言う遠坂に、依澄はふと、自分の母を思い出した。立場は逆だが、母も遠坂の娘と同じように哀しんでいるのだろうか。そうであるならば、それだけ依澄を想ってくれているという点では物凄く嬉しい。しかし、それで衰弱しているのなら今すぐにでも駆けつけ、私なら大丈夫だと伝えたい。自分のせいで哀しむ母の姿なんて見ていて胸が張り裂けそうだ。

 「死んだこと、後悔してますか」

 素朴な疑問だった。彼女の死因は事故だ。あまりに突然の出来事のはず。

 「後悔と言えば、そうね。してるわ。どうして死んでしまったのかって何回も思うもの」

 けれど、と遠坂は依澄に言い聞かせるように言葉を紡いだ。

 「けれどね。過ぎてしまった事はもう、どうしようもないのよ。取り戻せないのよ。どうして、どうしてって幾ら嘆いても、問いかけても、過去は変えられないし、答えも出ないわ。私は死んだから哀しいわけじゃないの。私はあの子を一人にしてしまった。……それが一番哀しいのよ」

 依澄は何も言えず、ただ黙って話を聞いていた。

 遠坂の未練は母親としての責任があるようだった。死して尚も我が子を思いやる彼女の手伝いをしようと、依澄は心に決めた。

 曇り空の下、遠坂が空気を切り替えるようにパンっと手を叩いた。

 「ごめんなさい、湿っぽい話になっちゃったわね。ここからは明るくいきましょう!」

 この悲喜が激しい感じがどうも性に合わない。まるで自由奔放な自分を見ているみたいだ。想像してしまい、即行で打ち消した。

 「遠坂さんの未練を果たすために、私はどうすれば良いですか? 娘さんに霊感はないんですよね」

 「そう! そこが問題なの。あの子は私が視えないわ。だからどうやって元気にしようか悩むのよ」

 「誰かに頼むというのは?」

 死神や織部の顔を頭に浮かべる。あの二人なら、黒澤の時のようにこちらの言葉を伝えれるのではないかと思ったのだ。死神と会うのは少々気まずいし、織部ともあまり会いたくないが、遠坂の未練のためだ。自分の気持ちには一旦蓋をしよう。

 依澄はそう考えた。遠坂はいいえ、と首を横に振る。

 「出来ればあまり関係ない人を巻き込みたくないわ。依澄ちゃんと私で出来る事を考えましょう」

 自分も十分関係ない人だ、とは流石に言えなかった。

 「とりあえず、娘さんがどんな状態なのか確認してから案を出しましょう。私はその娘さんの事を何も知りませんから」

 その提案に、遠坂は目を細めて笑った。

 「ええ。そうしようと思ってたところよ」

 依澄は遠坂に手を引かれながら、彼女の娘の元へ向かった。



 公園から少し離れた所にある廃れたビルを通り過ぎた先に、海が見える展望台がある。展望台の高さは地上から約六メートル。この辺りに住んでいる人は一度は行ったことのある場所だ。有名でなくとも、そこそこ人気であると言えよう。

 遠坂が展望台を前に足を止めた。依澄の手を握ったままだ。その様子に違和感を覚えた。

 「あの子は休みの日は、よくここでのんびり過ごしていたわ。それに今日は学校、創立記念日で休みなのよ。だからここに居るはずよ」

 そう言って展望台に続く階段を上がる。手を離してもらえないため、依澄はそのまま後をついて行った。

 「——……優里ゆうり

 展望台には一人の少女が海を眺めて立っていた。手すりを掴んでじっと動かない少女の名を、遠坂が呼ぶ。しかし優里と呼ばれた少女は声に反応しなかった。さざ波の音が静寂に響き、優しい風が優里の髪を揺らす。高い位置にまとめて結ってある水色のシュシュが海の色と合って涼しさを強調する。

 優里に母の声は聞こえない。それが、彼女が生者だという証だ。

 「やっと、近くに来れた……」

 かすれるほど小さな呟きが依澄の耳に入る。

 「ああ……やっと……」

 ぶつぶつと聞き取れない言葉を吐く声。同時に、依澄の手を掴んでいた遠坂の手が一気に濁った紫へ変色する。黒い靄がその場に漂い始めた。

 「遠坂さん……?」

 様子がおかしい。

 遠坂を呼びかける。だが依澄の声は届かなかった。す、と音もなく依澄から遠坂の手が離れた。

 「ふふ、あはは……っ。やっと、やっと! この時が来たっ! ふふ、あはは、あははははっ!」

 依澄は目の前の光景が信じられなかった。

 漂う黒い靄が狂ったように笑う彼女を取り巻き、やがて彼女の体を蝕むように全ての肌の色は変色していった。依澄の心に底知れぬ恐怖が広がる。

 まるで別人だ。にっこり微笑むあの表情も、娘が心配だと悲しんでいた母の顔も、変わり果てたおぞましい姿には似ても似つかない。最初からそんな出来事は無かったかのようだ。

 遠坂は優里に一歩一歩近付く。視えない優里は海に顔を向けたまま。

 「優里……優里……ああ、あなたをやっとこの手で殺せるのね。お母さん待ちくたびれたわぁ……あなたには何故か近付けなかったから……」

 うわ言のように虚ろな目で囁く遠坂の言葉を聞き、依澄は無意識の内に震えていた身体を奮い立たせた。

 何がどうしてこんな事態になったのか分からないが、遠坂を止めなくてはならないのは一目瞭然だ。

 「遠坂さん!」

 名を呼びながら、黒い靄に包まれた手を掴む。ビリッと電流のような痛みが走った。

 「邪魔するな‼︎」

 遠坂が手を振り払う。その拍子に依澄は階段を超えた所へ弾き飛ばされた。かつてないほどの疲労感と痛みが襲ってき、視界が定まらない。幽霊のはずなのに、と不思議がっている暇もない。

 あっという間に遠坂の手が優里の背へ伸びる。

 最早止める術がないと分かっていながら、動かない身体が最後の力を振り絞ろうとする。届かない距離に居ても、止めようと手を伸ばしかける。遠坂の指が、優里の背中に触れようとした。

 全てがスローモーションに映った。

 そんな現実と交差して、依澄の脳裏に断片的な光景が流れ込んだ。



 廃れたビル。

 高い場所から見える真っ赤な空。

 誰かと静かに言葉を交わす自身の声。

 ぐらりと揺れた視界。

 誰かが依澄の名を叫ぶ。



 自分以外の、二つの人影。



 「——依澄ちゃん‼︎」

 はっと現実に意識が戻る。栗色の髪が視界に入った。

 「おり、べ、かおる……」

 何故、彼が? そう疑問を抱くと共に、自分が置かれている状況を思い出す。

 「そうだ! 遠坂さんを止めないと!」

 優里がいた方角に視線を向ける。

 「え」

 またしても思わぬ人物の姿を目にし、依澄は間抜けな声を漏らした。

 そんな依澄を他所に、展望台では黒いコートに身を包む男が優里の背に触れかけていた遠坂の手を強く掴み、身動きが取れないようにしていた。

 「死神さん?」

 事態が把握しきれない。

 戸惑い混乱する依澄に対して織部は大丈夫と繰り返した。

 「くそっ! 私の邪魔をするなっ!」

 悔しそうにもがく遠坂に、死神が冷たい声音で告げる。遠くからでもその声は明瞭に聞こえた。

 「悪霊が生者に手をかけてはならぬ。これは規則であり、この世の摂理だ。よってお前をここで刈る」

 依澄は驚愕で目を見開く。遠坂が悪霊だったとは露ほど思わなかったのだ。自分のように足が消えかけていた訳でもなかったのに。

 「はっ! 冗談じゃないわ! 私を刈るなら、その前に優里を殺して、そこの女の子も消してやるっ!」

 その"女の子"が依澄だと気付くのに時間はかからなかった。

 依澄が遠坂の発言に狼狽えた時、遠坂の手は死神から離れていた。そのまま強い風を巻き起こして姿をくらます。

 「絶対に殺してやる」そう言い残して、遠坂は去った。

 展望台には何も知らずに立つ優里。その視線の先に居る織部。それぞれ近くにいる依澄と死神の姿は、彼女の目に映っていなかった。

 「あなた、一人で何してるんですか。意味わからない事言って……まさか、ストーカー⁈」

 先ほどの出来事を目の当たりにしていない優里からしてみれば、織部は不審者そのものであった。

 軽蔑の眼差しを受けた織部は最悪、と独りごちる。


   3


 適当に言い訳をし、形振り構わず織部は優里から逃げた。逃げ足が速いのか織部の姿はもう見当たらない。依澄はふらふらと立ち上がる。激しい疲労感も痛みもすっかり消えていた。遠坂の周りを漂っていた濃く黒い靄が原因だったのだろうと考察する。

 呆然としている優里を放って置くわけにはいかず、依澄はそのまま彼女を見守ることにした。いつ何時、また遠坂が襲って来るのか分からない。死神もそう思ったのか、姿を消すことはなかった。

 展望台の階段を降りて、死神は依澄に声をかけた。

 「触れたのか」

 視線は依澄の手に向けられていた。

 「それって遠坂さんにって事?」

 「ああ。このままでは、お前は期限より先に消えてしまうかもしれぬ」

 「ねえ。今朝もだけどさ、ちゃんと理由を話してから結論を言ってくれる? どうして私が期限より先に消えるの。確かに身体は消えかけてるけど……」

 思い出した感情に顔をしかめて自分の姿を見る。足は相変わらず消えかけている。けれど、決定的に今までと違うものを見つけた。

 "それ"を目にし驚いている依澄に、死神は淡々と言った。

 「悪霊に触れた故、指先が消えたのだ。いや、壊れたと言うべきか。元々お前の身体は壊れかけていた。これ以上の負担は耐え難いはずだ」

 その言葉を聞くと、依澄は弾かれたように口を開いた。

 「遠坂さんは期限を過ぎてたの?」

 遠坂の身体は何処も消えてなんかいなかった。半透明であるだけで、そこらにうようよといる霊と何ら変わりない。しかし彼女は悪霊だった。

 では、何故。

 「アレは我の管轄外である魂だ。詳しい情報は知らぬ。だが間違いなく期限を過ぎ、死神から逃げ続けている亡者だ」

 ——何故、期限が過ぎていない依澄の身体は消えかけているのだろう。

 ずっと時間が来てるという知らせだと思っていた。依澄は愕然とする。

 「おい、夕凪依澄。悪いが話は後にしてもらえるか。先にアレを刈らねばならん。お前は何故アレと共に居たのだ?」

 死神の言う"アレ"が遠坂のことであると気付くのに少々時間を要した。最も、依澄が我に返るまでが一番長かったが。

 依澄が問いに答えようとした時、展望台の階段から優里が降りてきた。数分の間に去ってしまった織部を気にしているのか、その表情は険しい。本当に不審者だと思っているような目つきだ。

 周辺に目を光らせつつ、優里は歩き出した。死神が依澄の答えを聞く前に、行くぞ、と言った。ついて来いという意味らしかった。依澄は首肯し、死神と並んで優里の後を追った。

 道中、死神は依澄に言い聞かせるようにして語った。

 「お前は死ぬべき人間ではなかった。だが、亡者になったという事実は変わらぬ。織部郁の言葉で混乱しているのも察するが、彼奴は彼奴で全てを話そうと覚悟を決めていた。この件が無事に片付く頃に話し合えるはずだ」

 織部の言葉を引き摺っているのは確かだ。だがそれよりも、死神が依澄に何か隠しているのが気に入らない。

 「なら早く片付けてもらわないと困るよ」

 「拗ねているのか? 口を尖らせても何も出さぬぞ」

 「べっつにー」

 どうやらまだ当分、依澄は自分のことを知れないらしい。

 「夕凪依澄」死神が話をすり替える。「アレと共に居た理由は何だ」

 悪霊の名すら呼ぼうとしないのか。新たな発見に一驚する。

 「成り行き」依澄は通り過ぎた電柱を横目に言った。「ぶらぶら歩いてたら偶然会って、未練を果たすのを手伝ってほしいって言われたの」

 乗り気になってはいたものの、元々は強制させられていたんだったな、と当時を思い出して遠い目をする。前方を歩く優里の足取りには迷いがない。

 「悪霊と気付いていたわけではなかったようだが、何か話したか?」

 「娘が心配だって何度も言ってたくらいだよ。あ、あと、事故みたいなもので死んだって話してくれた。だから私は普通に交通事故とかかなって思ったんだ。最近、そういう事故多いから。でも全部嘘だったのかな」

 母の顔をしていたのも、全てこちらを騙すための演技だったのだろうか。

 「そうか。手がかりが少ないな……」

 死神が眉間に皺を寄せて考え込む。依澄は呟いた。

 「こうしてる間も、遠坂さんは娘を殺そうと必死なんだよね」

 「悪霊になった者は負の感情に囚われるからな。ある個体に強い憎しみを抱く事もあれば、この世を恨み、呪う事もある。アレの場合、実娘に憎悪を抱いているようだった」

 何が遠坂をそうさせたのか。止め処なく疑問が湧いてくる。

 「今は手元に詳しいデータがない。情報を得るまで迂闊に動けぬ。それに我がアレの娘の側に居れば姿を見せれぬだろう。亡者は刈られたくないと言うからな。我が居るまでは問題なかろう」

 死神は落ち着いた態度を徹していた。焦らず、狼狽えず。まるで狩人が獲物を確実に仕留めようとしているような、そんな目だ。

 「死神さんが言うデータってあれだよね。個人情報が乗ってるやつ。それがない状態でどうやって情報を?」

 このまま優里を追うだけではきっと大した情報も手に入らない。死神も同じ事を思っていたのか、思案するように口を閉ざした。

 ふと、優里が立ち止まる。そこは依澄と遠坂が出会った場所だ。目が合った瞬間を思い出させる電柱の前に、赤い屋根が目立つ二階建ての家が建っている。表札には遠坂と文字が彫られていた。

 優里が玄関のドアを開けて家の中に入る。依澄はただいま、とか細い声を耳で拾った。

 「成程」

 死神が不意にぽつりと納得の意を示す。

 「何か分かった?」

 依澄が尋ねると、死神は「アレがこの家に入れないという事なら分かった」と口元を綻ばせた。

 「娘を殺そうとするなら、外でなくて良いはずだと思っていた。それこそ人間が気を抜く瞬間など幾らでもあるのでな。安心出来る家で寝ている時なんかがそうだ。だが、アレはその瞬間を逃している。わざわざこの家から離れた展望台で手にかけようとした」

 「単にそこまで考えが及ばなかったとかじゃない?」

 「それも可能性としてはあるかもしれぬが、今回は違うだろう。此処では襲えない理由があったはずだ」

 「襲えない理由?」

 「ああ。この家は守られている。微力ながらに悪霊が入れないよう、"守りたい"と強く願った者が居たのだろう。だからアレは此処で娘を殺せなかった」

 依澄は遠坂と出会った瞬間を頭に思い描く。遠坂は電柱の陰に隠れ、じっと目の前の家を見ていた。一瞬たりとも動かないまま、じっと。

 娘を見守っていると言っていたが、ただあの家に入れなかっただけだとしたら、依澄は面倒な場面に立ち会ってしまったのか。逃がさないと強く腕を掴まれた感触を思い出し、ぶるっと体を震わせる。今更その言葉の真意を汲み取ったのだ。あれは正に、犯人が目撃者を口封じする時と同じだった。

 「遠坂優里、だったか? その娘が家の中に居る間は大丈夫だ。アレは襲えない」

 それはつまり、死神が居なくても問題ないという意味で。

 「その間に情報収集するって事か」

 依澄は指先が消えかけた手をぽんっと打った。死神がその言葉に頷く。当たりのようだ。

 「我はデータを探す。お前は」死神は一度考える素振りをした後、「この家の近くに居るべきだ。アレは娘だけじゃなく、お前も狙っている。万が一遭遇した時は中に入れ。そうすれば安全だ」

 「うん。分かった」

 下手に動いて死神の邪魔をするよりマシだ。依澄は快く了承した。決して楽したいからではない。

 「夕凪依澄、今朝の事はこの件が終われば続きを話す。待っていろ」

 死神が姿を消す直前にそう言ったのを聞き、依澄は目を丸くさせた。けれどもすぐに笑顔を浮かべて「待ってる」と返す。幾許か表情を和らげて、死神は煙のように姿を消した。


   ✴︎✴︎✴︎


 織部は展望台から逃げるように走り去った。

 不審者と疑う気持ちは分かるが、言いがかりを付けられるのは好かない。大した言いわけも出来なかったが、逃げることしか選択肢がないと思った。あの場に依澄を置いてきたのは唯一の気がかりだ。死神も居るから大丈夫だろうが、依澄は危なっかしい。織部と死神が偶然通り掛からなかったら、あのまま悪霊に消されていたかもしれないと考えると肝が冷える。生前から一人は嫌だと言う割に、一人で自由に行動する事の方が多かったからだろうか。

 そんな事を考えながら一旦、足を休める。乱れた息も深呼吸して整えた。

 「あー……っんとに疲れた……」

 走るのは慣れていない。普段から体育以外で走っていないにしても、それはその必要性を感じないためである。つまるところ、幽霊や妖怪から追いかけられる事がないからだ。視える体質は時に厄介だが、織部自身、その類から危害を加えられた事は今まで一度もなかった。これは祖母がそういう体質だったという理由が大きい。両親はこの体質を受け継いでいない。受け継いだのは自分だった。

 死神は触れるし、話せる。幽霊は触れられないが、言葉は通じる。だがどちらの存在も普通の人には視えない。道端にいる尾が二本の猫も、空を駆ける烏に混じって黒い翼を羽ばたかせる天狗も、通行人に紛れて彷徨う霊も、そんな霊と会話する全身黒に身を包む男や女も、全て。自分だけの眼が、それらを捉えれた。

 死神の言葉通り、彼らを利用し、金を稼いでいたのは事実だ。そんな織部が『視える』を理由に彼らを責めるのは筋違いというもの。

 休憩をとってからほどなくして織部は歩き出した。依澄と死神の元へ引き返そうかと思ったが、即座にその考えを頭の隅に追いやる。自分の出る幕はない。織部はさっと切り替えた。

 「学校サボっちゃったし、どうすっかなー」

 制服姿でいると近所で不良だと噂されそうだ、と考える。それはそれで面白いが、親に何を言われるか。

 「おっと」

 曲がり角を右折しようとした時、向こうからも人が来ていて危うくぶつかりそうになった。お互いが転ばないよう、さり気なく一歩、後退する。

 「すんません」

 反省の色が見えないような軽い口調で謝罪する。相手は「こちらこそすみません」と礼儀正しく言った。そこで気付く。

 「透真くん?」織部が軽く会釈した相手の名を呼んだ。

 「織部か?」相手は黒い髪を揺らして顔を上げる。

 「何でここに」真っ先に浮かんだ疑問を口に出す。「今日は学校じゃん」

 織部が透真と呼んだ男は、呆れたように片眉を上げて、「母さんが熱出たから看病。父さんは出張で家を空けてるから、俺が代わりに」と右手に持っているドラッグストアの袋を胸の前に掲げた。

 「お前はサボりか? 相変わらずだな」

 空いている左手で黒縁眼鏡を正す。会釈した時に少しズレたのだろう。

 「出席日数の事はちゃんと計算してサボってるし」

 「いや、そもそも学校行けよ。計算も数学の授業でやればいい」

 「あのジイさんの授業、分かんねーもん」

 「"もん"とかよくその歳で言えるな。正直引くぞ」

 「……相変わらず冷たいねえ」

 素っ気なく言ってやれば、先ほどの軽口を叩く空気が変わったのを感じ取った。透真は視線を下げる。

 「……俺はまだ許したわけじゃない」

 何の事かは訊かなくても悟る。織部は「知ってる。透真くんは俺を恨んで正解だよ」と返した。

 彼の妹は、織部を忘れていた。彼女は恨んですらくれなかった。それが鋭利な刃となり、織部の胸に突き刺さる。この兄妹には酷い事をしたと何度思っただろう。

 「母さんの様子が心配だから、一旦帰るよ」

 一旦、ということは、また後で話があるという意味に解釈すれば良いのだろうか。思わず首を傾げた。

 「お前が思ってる意味と、多分、同じだな」

 顔に出ていたのか、透真が肯定する。それと同時に空気が軽くなったように感じた。

 「じゃあ、あそこで待ってるよ。話すなら、そこが最適だろ」

 「ああ。そうしてくれ」

 透真は織部の横を通り過ぎる。

 「そうだ」数歩離れた位置で透真が振り返った。「話すって言っても、あの時の事じゃないからな。俺が聞きたいのは、その前の話だ。いつから妹と知り合ったのか、とかな」

 「分かってる」織部は貼り付けた笑みを見せる。「先に言っておくよ。知り合ったのは、あの事件が起きる一週間前」

 「そうか。——あいつが死んだのはお前のせいじゃない。だが好奇心旺盛なあいつを刺激したのはお前だ。それを忘れるな」

 透真は織部の友人としてではなく、兄の顔をして目を細めた。



 遠ざかる透真の背中を見送る。

 彼は織部が視える事を知らないが、元々友人で居れた人だ。仲は良い方だった。

 友人という関係にヒビが入ったのは、やはり、彼の妹——依澄が転落死してからだった。

 あれ以来、織部は透真と話す事を避けていた。顔を合わせると、「友人として笑い合うのは許されない」「自分が許せない」という思いが体中を駆け巡るのだ。何気に今日が一番まともに話せたのではないだろうか。それぐらい避けていた。

 それなのに、と織部は俯く。それなのに、透真くんは俺に嫌味を言うだけで、一度も責め立てたりしない。


   4


 死神が去った後、依澄は優里が入っていった家へお邪魔する事にした。一応「お邪魔します」と一声かけたが、もちろん意味は成さなかった。

 家の中はがらんとしていた。静まり返った廊下には明かりもない。一階の部屋から遠坂に関する情報はないものかと探る。物には触れないため、目で確認することの繰り返しだ。

 玄関に近い客間から順に、リビング、浴室、トイレとドアをすり抜けていく。一階を見終わると、階段を上がって二階を探索する。幽霊だから許される行為だ、と冒険心が湧いて少し愉快な気分になる。

 二階は寝室、書斎、優里の部屋があった。優里が居たのは自室である。彼女は机の上に問題集を広げて黙々とシャーペンを動かしていた。

 机の上にはペンケースとノートが二冊重なって置いてある。他にも本が数冊並んでいたりした。中でも目を惹いたのは、茶色の縁の写真立てだ。写真の左には落ち着いた笑みを浮かべる女性が、右側には凛々しい眉を和らげて笑う男性が。そして真ん中には、中学生くらいの少女が幸せそうな表情でこちらに向かってピースしている。正に『幸せな家族』という言葉が似合う写真だ。

 遠坂を思い出す。彼女は娘に憎しみを抱いているようだった。写真ではこんなにも幸せそうなのに、一体どこで歯車が狂ってしまったのだろう。

 時計の針がカチカチ、と微かな音を鳴らして動く。特に理由もなく部屋を見渡した。

 「……?」

 ベッドに視線をやった時、下の方で何かが覗いて見えた。屈んでどんな物か確認しようと手を伸ばす。だが、依澄の手はそれに触れることなく、空を掴む。第一関節まで消えた半透明の指を視覚が捉えた。

 そうだ。触れないのだった。落胆して息を吐く。

 「あ、でもアルバムって書いてる」

 優里の机上にあるような、微笑ましい光景を撮った写真があるのかもしれない。

 依澄がそう考えた時、キイと椅子を引く音がした。音の出所に顔を向けると、優里が部屋を出ようと立ち上がったところだった。

 この部屋に居ても自分に出来る事はないと判断し、部屋から出ていった優里の後をついて行く。



 リビングで水が入ったコップを片手に、優里はソファに座ってテレビを見始めた。勉強に飽きたようだ。バラエティー番組で声を出して笑っていた。

 依澄は生前からテレビ番組にはあまり興味が湧かなかったため、ただつまらなさそうに傍観していた。

 この件が解決すれば、自分の事が分かるんだよね。心の中で呟く。記憶が蘇らなくても、死神や織部から話を聞けば自分の事が大半分かるはずだ。だから早く解決させたい。それに。

 「会いたくなっちゃったしなぁ……」

 遠坂と関わっている内に、依澄は自分の家族に想いを馳せてしまった。今まで何とか「会いたい」と思うのを避けていたのに、この前兄を見た時から、もう一度家族四人で笑い合いたいと感じてしまった。それは多分、抑えていたものが一気に溢れ出た感覚に近い。

 こんなにも焦がれている。生きた人達に、生きた世界に。だから余計に虚しくなる。

 「っふふ、あはは」

 優里の笑い声が空気を震わせて耳に届く。そこでようやく違和感に気付いた。

 無理して笑っている。声音から読み取れた。表情は酷い事になっていると思い、見ないようにした。笑っているような、泣いているような、ないまぜになった顔をしているだろうから。

 依澄は居心地が悪くなる。空元気な空気は苦手だ。幾ら相手が自分を認識しないとはいえ、優里が一人で居る時に無理して笑っていると知ってしまえば、心苦しくなって目を背けたくなる。

 『あの子は一人で抱え込む癖があるから、心配なの』

 優里の母親である遠坂との会話が頭を過ぎった。今思えば、会話の中で現実とちぐはぐなおかしな箇所は幾らでも見つかった。しかし無理に笑う優里に、遠坂の言葉が全て偽りだとは思えなくなってきた。

 「なら、何が嘘で、何が本当なの……?」

 遠坂と交わした言葉を思い出す。出来るだけ詳しく、正確に。

 心配だと言ったのは嘘か。娘が死にそうな顔をしているから元気付けたいと言ったのは本当か。死んだ事を後悔していると言ったのは? 娘が気になって様子を伺っていたというのは? 自分のせいで娘が弱っていると、死んでしまうと哀しげだったのは? 依澄に疑われないための布石だったのなら、嘘でも娘を残して逝った自分を責めたり出来ないはず。そもそも、何故殺そうとするのだ。

 確かめなくては、と思った。遠坂は自我を失っているだけで、まだ良心があるなら救われるだろうと。死神はまだ戻らない。彼は一刻も早く悪霊を刈ろうとしているだろう。依澄はじっとなんてしていられなかった。

 だが今、遠坂本人に話を持ちかけるのは危険だ。もう指先が消えてしまった。これ以上の接触は死神にもバレるし、迷惑をかける。他に遠坂の真意を知る方法はないかと思考を巡らせる。

 「……!」

 閃いたと言うより、思い出した。神代高校の校舎で、氷室という女性教師と依澄の身体がぶつかった時のことを。その時視えた見知らぬ光景もまだ記憶に新しい。どうして忘れていたのだろう。

 上手くいくかは定かでない。しかしやってみる価値はある。

 無理に喉から笑い声を絞り出す優里との距離を詰めていく。触れられる程度近付けば、あとは重なるようにぶつかるだけ。

 「よし」頭に流れ込むであろう膨大な情報量に備える。「ちょっと失礼します」

 依澄は思い切ってソファに腰掛ける優里に身を投げた。

 途端に知らない記憶が次々と浮かび上がる。会話はなかった。音声のない映画を早送りで観ているようだ。頭が締めつけられるように痛い。耳の奥で甲高い音が一定に鳴り続ける。これ以上は無理だと、依澄は優里から離れた。よろつきながら情報を整理する。

 最初に幼い少女と両親が視えた。三人はテーブルを囲むように座る。きゃっきゃとはしゃぐ少女を見守る母親と父親。母親が少女の話に相槌を打ち、父親は優しい手つきで少女の頭を撫でる。穏やかな空間だ。

 次は中学生くらいに成長した少女と両親が視えた。遊園地に来ているようだ。アトラクションに乗って悲喜を体現する少女と、顔が青くなる父親。母親は少女の隣で楽しんでいた。様々なアトラクションを回り、空が暗くなる前に撮った幸せそうな写真。これは優里の机に飾ってあった写真と同じだった。

 その次に視たのは、同じ時期に展望台で写真を撮っていた姿だ。少女は誕生日なのか両親から水色のシュシュと手紙を贈られていた。少女は「今時手紙って」と呆れたように言い、けれど、照れ臭そうでもあった。両親は笑顔を絶やさず、少女を抱きしめる。彼らは少女が生まれたことを祝福していた。

 そして次。誰かの葬式が視えた。母親が肩を震わせて嗚咽をあげている。少女はまた一段と成長していたが、その表情は歪み、悲哀が浮かんでいた。父親の姿はない。遺影には、凛々しい眉を和らげて笑う男が写っていた。その日はずっと雨が降っていた。

 最後に、壊れたように動かない母親とそれをただ眺めている少女が視えた。少女は悔しそうに唇を噛み、その瞳を悲しみと怒りで彩っていた。母親は少女の声にも反応しない。生気を失い、虚ろな瞳が世界を拒絶した。少女の存在が母親の中で消えたかのように、母親は亡き夫の名だけに未練がましく縋っている。その後視えたのは、ロープで首を吊った母親の姿だった。少女はその日、体温のない母親を前に絶望した。

 物語ならばこれは確実にバッドエンドだ。依澄は頭を押さえて思う。

 母親——遠坂は、確かに娘を愛していた。少女——優里もまた、母と父が大好きだった。文字通り『幸せな家族』だったのだ。父親が命を落とすまでは。

 依澄は未だに無理して笑う優里に目を向ける。彼女は今、自ら命を絶った母をどう思っているだろう。

 疲労感を抱えながらあらゆる疑問を整理する。情報と照らし合わせてみても、得られる答えはなかった。

 依澄がしゃがんで深い息を吐く。その直後、目の前に何者かの足が現れた。これには流石に驚き、反射的に見上げる。そこには黒いコートに身を包み、フードで顔半分を隠している死神が居た。ただし、依澄は今しゃがんでいるため、死神の顔は丸見えである。

 「死神さん⁉︎」

 もう来てしまった。来てくれて良かった。そんな真逆の感情を同時に持ち合わせた。

 「夕凪依澄、アレの名前は遠坂弘美で合っているか?」

 死神は依澄の動揺に触れず、確認するかのように問う。

 「う、うん。合ってるよ。資料が見つかったの?」

 「ああ。手間はかかったが、見つけた。一応お前にも教えよう。口外せぬようにな」

 「うん」

 何時ぞやのやり取りを思い出す。

 「遠坂弘美は自殺だ。事故ではなかった。生前は極一般的な生活をしていたが、夫が命を落とした日から精神が壊れていった。娘もいたが、死のうとした時はその存在を考える事はなかったようだ」

 依澄が視た記憶と同じだ。死神は言葉を紡ぐ。

 「当時の魂回収を行おうとした者によれば、遠坂弘美は死んだ事を後悔していたらしい。生きたまま娘の傍に居てやれば良かったと何度も口にしていたそうだ。だがある日突然、娘が憎いと言い残して、姿をくらませた」

 「"ある日突然"? どうして」

 「それは分からぬ。恐らく何かがあったのだろう」

 一体、遠坂の身に何があったのか。依澄と死神は二人して首を捻った。


   ✴︎✴︎✴︎


 廃れたビルの塀の前に、花束が幾つか添えられているのを見て、織部は胸がチリチリと痛んだ。

 立ち入り禁止の黄色いテープが未だに道を塞いでいる。人が転落して命を落としたため、出入りできないように厳重に警備しているのだ。ビルの中から少数人の声が聞こえる。警備員だ。ちょうど先ほど、織部の姿を見て一人の警備員が慌てたように駆けつけ、「入らないように」と注意してきたばかりだった。素直に従った織部だが、此処で透真と落ち合う事になっている。黄色いテープを跨ぐ事はせずとも、その前で待たせてもらおう。

 それに此処は、織部にとって罪悪の意識を呼び起こす場所でもある。完全なる部外者じゃなく、関係者だったのだから。

 織部がぼんやりと思考を動かしていると、お待ちかねの相手がようやく姿を見せた。

 「待たせた」急いだ様子もなく透真が言う。

 「急いでなさそうな割には早かったねー。もうちょい遅いと思った。透真くんの母さん、体調大丈夫なんだ?」

 「ああ。ただの風邪だしな。あと、織部の言う通り急いでは来てない。無駄に待たせてやろうと思って。失敗したけど」

 爽やかな笑顔で言うものだから、織部は何も言い返せなかった。

 「……このビル、まだ中に入れないんだな」

 ぽつりと独り言のように透真が呟く。その視線は、どこもかしくも色が剥がれ落ちてボロボロなビルの屋上に注がれていた。きっと彼もあの日の出来事を思い出しているのだろう。織部がそうであったように。

 「入りたかった? 事件からまだ一ヶ月も経ってないのに、入れるわけないけど」

 敢えて冷たい口振りで言ってやった。しかしそんな挑発じみた言葉に一切反応せず、透真は織部に向き直る。織部の口から語られる事柄を受け止めるのに、相応の覚悟を決めた顔だ。

 茶化すのをやめ、織部は静かに口を開いた。

 「……人気のない河川敷があんの、知ってる? あそこで出会ったんだ。事件の日から一週間前くらいに」

 たまたまその日は、幽霊が払えるとか言って憑かれていた男をカモに金を稼いでいた。その幽霊は織部が四日でいいから男から距離をとって憑くのをやめてくれと説得したのだ。幽霊は物分かりが良く、男は中々にチョロいもので、早々に金銭を頂いたため記憶に残っている。

 その一部始終を見られたのだ。彼女は視えない体質だったが、男から金銭を受け取っている姿は見える。だから彼女から声をかけてきたのだ。好奇心に満ちた瞳をして、一体何をやっているのかと。

 もちろん今話している透真も視えない体質だ。出会った時の出来事も、その辺りは作り話で誤魔化している。

 「そん時はまだ透真くんの妹だとは思わなかった。今思えば、そっくりなのにね。髪の色も、目元も。性格には違いがあったけどさ。でも、俺はそん時全然気付かなかった」

 気付かないまま、彼女と話した。会話を許した理由はこれと言ってなかった。ただ訊かれたから答えただけ。それを繰り返していただけ。けれど織部は彼女と言葉を交わすうちに、今まで会ったこともないタイプの子だと確信した。それからはもう成り行きだ。何となくその河川敷に行けば、また会えると思った。案の定彼女は河川敷に来ていた。だからその日から、なんとなく、互いの学校が終われば顔を合わせていた。あの、人が居ない場所で。

 「あ、安心して透真くん。恋愛感情はなかったよ。お互い。毎日会ってたけど。草原に座って、日が暮れるまで駄弁って。……多分、俺もあの子もそれぞれ話す内容に物珍しさを感じたんだと思う。じゃねえと俺、そもそも会って話を聞きたいとか考えない」

 透真は口を挟まず、織部の話に耳を傾けてくれている。織部は尚更、全てを話さなければという思いに駆られた。彼女との会話もだが、自分のこの"体質"のことも、今なら打ち明けれる気さえした。

 「——貴方、私が視えるわよねぇ?」

 脈絡もなく漂ってきた焦げ臭い匂いが鼻腔をかすめ、おぞましい何者かの声が聞こえた。はっとして過去を語る口を閉ざし、周囲を見渡す。

 「おい、どうした? 急に黙るな」

 透真が困惑の表情でこちらに呼びかける。しかし、織部はそれどころじゃなかった。

 「視えるわよねえ、視えるでしょう? 貴方あの場に居たものね! 目を逸らしても無駄よおぉ」

 ニタリと唇を歪めて狂ったように嗤う女が、織部の前に立ちはだかっていた。黒い靄を執拗に身体に纏って、異様な存在感を放っている。女の肌が紫黒く変色しているのも相まって、背筋がぞわりと冷えた。頭の中で激しく警報が鳴っている。こいつは危険だと全身が拒絶しているようだ。展望台の時よりも恐怖心を抱く。

 「逃げちゃ駄目。もし逃げたら、貴方の隣に居る男の子を殺しちゃうかも! あはは、あはははは‼︎」

 冷や汗が垂れる。女は織部に攻撃が効かないと分かっているらしい。だから、透真を人質にしてきた。

 「おい、おい! 織部‼︎」

 様子がおかしいと気付いた透真は、何もない空中を見て体を震わせている顔面蒼白な織部の腕を掴み、駆け出した。織部が自分に見えていない『何か』に怯えている。それを察知したのだ。

 「と、透真くん……! 駄目だ。逃げたら、逃げたらお前がっ!」

 腕を引かれるままに織部が声を張る。だが、後ろから追ってくる女が視えていない透真に伝わるはずもない。彼はただひたすら『何か』から逃げなければいけないという本能に従っていた。

 透真は織部の声を聞こえていながら、あえて無視し、地面を蹴る。そうしなければ、恐ろしい『何か』を振り切れないと思った。

 「——逃げちゃ駄目って言ったのに」

 地を這うような声が、織部の耳をすり抜けた。

 「やめろ‼︎」

 織部が力一杯叫ぶ。



 ぐしゃり。

 嫌な音と共に、目の前が真っ黒に染まった。



   ✴︎✴︎✴︎


 依澄は暫くの間死神と唸っていたが、結局、悪霊になる前の遠坂に何があったのか答えを出せなかった。

 「分っかんないなあ。もう本人に訊くしかないかもね」

 依澄が本心をこぼす。死神が顔をしかめた。

 「お前に危機感はないのか。遠坂弘美に狙われているともっと自覚を持て」

 「これでも持ってますよー。ただ、やっぱり親が娘に手をかけるなんてあんまりだと思うんだよね。だって遠坂さんは私に言ったの。娘を一人にしたことが一番哀しいって」

 「殺してやる、とも言っていたな」

 「で、でも、その時は悪霊としての考えだったかもしれないじゃん!」

 死神は意味が分からないとでも言いたげな表情を浮かべる。しかし数秒経って、依澄が言わんとすることに気付いたようだ。

 「悪霊は自我を失った状態を意味する。故に殺してやると言ったのは、自我を保っていた頃に抱いてしまった憎しみが増幅した結果だと、そう言いたいのか」

 「そう!」依澄が頷く。「だから、遠坂さんに語りかければ自我を思い出すんじゃないかな」

 ただしこれには条件がある。依澄は死神の目を見て言った。

 「多分だけど、語りかけるだけじゃ駄目なはずなんだよ。私や死神さんなら尚更ね。そこで遠坂さんの娘である優里さんにお願いしたいの」

 「つまり、我にどうにかしろと? 無茶を言うな。そもそも何故悪霊にそこまでするのだ」

 刈ってしまえば終わりだろう、と遠回しに言っている。

 確かにそうだ。死神が手を下せば何もかも終わる。生きてる人にも被害は及ばないだろう。

 それでも。

 「……遠坂さんも傷ついてるから。少しでも、楽にしてあげたいの」

 夫が亡くなったと知った時、彼女は深く絶望した。この世界に生きる意味はないと言うかのように、動かなくなった。そして自らの命を手放した。その後、彼女はとてつもない後悔に襲われたのだ。本来母親として寄り添わなければならなかった娘を置き去りにしてしまったから。

 知ったからには放っておくなんて薄情な真似はしたくない。言ってしまえば、遠坂を助けたいと思うのは依澄の我儘だ。死神は偽善だと笑うかもしれない。だがバッドエンドなままは嫌なのだ。

 「あのね、死神さん」

 だから死神に打ち明ける事にした。黒澤の一件で偶然得た、他人の記憶を視る方法を。視えた記憶の景色を、包み隠さず。

 依澄の話を聞き終わった死神はこめかみを抑えた。「夕凪依澄がそこまで他人に感情移入する人間だとは思っていなかった」と呆れたらしい言葉を添えて。きっとまだ色々と言いたい事はあるだろう。そんな表情をしている。

 「びっくりした?」

 「茶化すな」

 ぴしゃりと跳ね返される。

 不意に、テレビを観ていた優里がソファを離れた。リモコンのボタンを押し、電源を切る。手に持っているコップは流し台へ。視線は時計を一瞥した後、玄関のある方向へと向けられた。時計の長針が十二になる。「ただいま」と見知らぬ女性の声が聞こえた。

 「え、ちょ、死神さん! 誰か帰って来るなんて聞いてないんだけど」

 予想もしていなかった事態に動揺する。

 「慌てずとも相手には我らを認識出来ぬ。それに遠坂優里は両親が他界したからな、面倒を見る者くらい居るだろう」

 「そ……そっか。視えないもんね。でも面倒を見る者って」

 依澄と死神がそんな会話を交わす中、リビングに買い物袋を持った女性が入って来た。優里はその女性に「おかえりなさい、叔母さん」と声をかける。

 「ええ、ただいま。優里ちゃん」

 「叔母さん、あたしちょっと出かけてくるね。勉強に飽きちゃって」

 「……そう。分かったわ」

 にこりと微笑む女性の表情がある人と重なる。

 依澄は思わず死神に視線をやった。死神は視線を受け、「この人間は遠坂弘美の妹だ」と説明してくれた。依澄がやっぱり、と納得の意を示す。

 優里が身支度を終えて家を出た。依澄は死神と後を追った。

 目的地は決まっているのか、しっかりとした足取りで歩く。優里の後ろを歩いている依澄は周りの風景に既視感を覚えた。この道はあの展望台へ行く道ではないか。

 「……ん?」

 焦げた匂いが鼻を刺した。死神も気付いたようだ。鼻を抑えることはなくても、眉を寄せて嫌悪感を表している。前を歩く優里はそんな匂いにものともせず、足を動かし続ける。嗅覚が鈍いのでは、と思ったが、それは違うと直ぐに分かった。

 すれ違った老人も赤ちゃん連れの女性も、匂いには気付いていなかったのだ。こんなにもはっきりと鼻を燻るのに。

 「夕凪依澄、この匂い、覚えがないか」

 唐突に死神がそんなことを口にする。覚えがない、と言いかけて、ある出来事が頭に掘り起こされた。

 「遠坂さんと出会った時——同じような匂いがした」

 すれ違う人が居なくなった道に、大きく振り被るような突風が駆け抜けた。いつもなら何ともない風。だが、何故か依澄にも風を感じることが出来た。

 嫌な予感がする。

 そう思った時、前方に見覚えがある二人を見つけた。一人は依澄と同じ黒い髪の眼鏡をした男。もう一人は、黒髪の男に手を引かれて共に走る、栗色の髪の男。そして同時に、その後ろから空気を伝って感じる異色な気配。

 「なんで……」

 つい、そんな言葉が吐き出される。

 何故、貴方がそこに居るの。どうして織部郁と一緒に、彼女に追われているの?

 ドクドクと心臓が脈打つ。

 次の瞬間、異色な気配を醸し出す遠坂が狂ったように嗤いながら、織部の横をすり抜けた。

 「やめろ‼︎」織部が声を張り上げる。

 「兄さん‼︎」叫んだ依澄の声が重なった。

 刹那、視界に黒い何かが横切る。

 ——ぐしゃり。

 まるで林檎を片手で握り潰したような音が、空間に飛び散った。



 黒いコートだけが冷静に目の前で揺れている。



   5


 『お母さん!』

 今でも思い出す。幼い娘が笑顔でこちらに歩み寄って来る姿。遠坂弘美が最愛の夫と共に、娘を抱きしめた様を。

 記憶の中はこんなにも思い出で溢れ返っている。

 だからこそ。母として、死ぬべきではなかったと後悔していた。

 父も母も居なくなったあの子の世界は、どれだけ色がないだろうかと毎日気が気でなかった。

 元気付けたい。しかし、置いて逝った身勝手な自分が会いにゆく資格などない。たとえあの子に自分の姿が視えなかったとしても、だ。

 ——それなのに。

 遠坂弘美のそんな考えは、ある瞬間にいとも容易く壊れていった。



 今でも思い出す。

 数え切れないほどの愛しい思い出を上塗りするかのようにして蘇る、あの光景を——





 「——悪霊のお前が生者に手をかける事は許さぬ、と言ったはずだが」

 黒いコートを翻して死神が遠坂の腕を掴む。幽霊に痛覚があるのかは定かでないが、遠坂の腕は死神の手により、生きていたら確実に骨が砕けていただろう音を出した。最早霊体というのが救いなほどだ。

 それにどうやら効き目はあったらしい。遠坂は声にならない叫びを訴え、死神を振り払おうと風を巻き起こした。先ほど依澄が感じることが出来た風も遠坂によるものだろう。久しぶりに体感した風は悪寒が走るくらいに恐怖を煽った。

 依澄は兄が遠坂から逃れられた事を確認すると、ほっと胸を撫で下ろした。兄に手を引かれていた織部も同様だ。優里は透真と織部がどうして急いで走っていたのか分からず、戸惑っていた。

 「また邪魔を……! 離せ死神!」

 遠坂から発せられる声には優しさがなかった。本当に自我がなくなっているのだ。予想はしていたが、やはり悲しいものである。

 「遠坂さん、どうして無関係の人を……?」

 疑問の声は届いたようだ。遠坂は依澄に顔を向けた。

 「どうして」首を傾げて遠坂が言う。「そんなの決まっているでしょう? 負の感情を喰べるためよぉ。それを喰べると力が漲ってくるの。それに逃げたのだから、喰べて欲しいって言っているようなものじゃないぃ」

 うふふと不気味に口角を上げる。

 「だからって——」

 「うるさいわねえぇ! 私ノこと何モ知らナイくせニっ!」

 食い下がろうとする依澄に、目を吊り上げた遠坂が怒鳴った。いや、癇癪を起こしたと言うべきか。遠坂は自分のする事に口出しするなとでも言いたげに顔を歪める。口調に異変が現れ始めたのもその時だった。

 「貴女何サマなの⁈ サッきかラ邪魔ばかリ! 死神も貴女も居なクナればイいんダわ!」

 遠坂の口から吐き出される言葉が所々ノイズ音と重なる。耳が痛くなるような音だった。死神は変わらず涼しい顔をしていたが、依澄と織部は耐えきれず耳を塞いだ。

 頭に響く金切り声はやがて、悲痛を帯びた叫びに変わる。

 「要ラナい。イらナイ、アナタたち皆イラナイ‼︎ わたシはタだ、アノ子ヲこッチニ連レて来たいダケ! 何がダメナノ⁈ そレくらイ良いジャない……ッ」

 「駄目です!」

 気付けば依澄はそう口走っていた。痛くなる耳を抑えながら、遠坂に向かって言葉を放つ。

 「駄目です、遠坂さん。言ってたじゃないですか。娘を元気付けたいって! 道連れにしてどうするんですか‼︎」

 「ウるサい黙レ黙レ‼︎」

 キッとこちらを睨みつける。死神が手を離さない限り襲って来れないだろうが、殺意に満ちた眼差しを受け、身体が震えた。

 「夕凪依澄、大丈夫か?」

 冷静に様子を問う死神。織部も心配そうな視線を依澄に送っていた。

 大丈夫。依澄がそう答えようとした時。

 「——織部? どこ見てるんだ? もう逃げなくても大丈夫なのか?」

 兄の声に言葉が詰まる。

 滅多に聞かない、落ち着きない声音。連鎖的に"何か"を思い出しそうになったが、激しい痛みが依澄を襲い、思わず膝をついた。地面と触れる肌がぼやっと靄のように薄れる。

 ぐるぐると得体の知れないものが頭に巣食っているような気分だ。

 突然地面に座り込んだ依澄に、死神が「どうした⁉︎」と声をかける。依澄は何も答えられなかった。

 「離セ‼︎」

 動揺した死神の隙を突いて遠坂が解放される。彼女はそのまま死神を突風で煽り距離を空け、優里の方へ素早く移動した。依澄たちに邪魔される前に殺してしまおうと考えているのが筒抜けだった。

 「ねエ、優里」遠坂が大きく右手を振りかぶる。「——お母サン、もウ限界ナの」

 「駄目だ!」織部が優里を守ろうと手を伸ばす。「殺しちゃいけない!」

 曇り空の下、キラリとナイフのように光る鋭利な爪。

 それが優里に届く前に、依澄は二人の間に割って入った。頭痛は治まってくれない。振り下ろされる手がぶれて見えた瞬間、依澄は目を瞑った。次に来る衝撃に備えたのだ。

 ところが、与えられたのは痛みによる衝撃ではなかった。

 指先も足も消えかけている依澄に攻撃は当たらず、そのまま遠坂と身体が重なってしまったのだ。奇しくも霊同士だと言うのに、ぶつかる事はなかった。

 依澄は呆然とする。

 自分に与えられたのは、間違いなく遠坂の記憶だったのだから。



 遠坂弘美は死んだ事を後悔した。夫を亡くしたショックで娘を居ないものとして扱ったこともあるが、死んだ今では愚かな事だと後ろめたさが芽生えた。

 娘の傍に寄り添い、夫の分も生きるという選択をしていれば良かった。何度そう思っただろう。

 どれほど悔いても、もう戻れない。過去に遡りたくても、やり直したくても、そんな夢は叶わないのだ。

 娘の姿を見るのが怖くて遠坂弘美は会いに行かなかった。未練は娘に関係するものであったが、会う資格がないと思ったのだ。

 そうして死後一ヶ月が経った頃、偶然娘を見かけた。

 学校の帰り道を歩く娘は思ったよりも元気で、明るく見えた。友人と一緒に言葉を交わすその姿は微笑ましいものである。その日から遠坂弘美は度々、娘の様子を遠目から見守るようになった。

 ある日は学校の様子を。またある日は家で過ごす様子を。展望台でのんびりとしている様子も見守った事がある。

 とある昼下がり、娘は部屋でノートに文字を綴っていた。

 勉強しているのだろうかと思い、娘がちょうど席を立ったタイミングで窓越しに覗いた。今思えば、その行動が仇となったのだ。

 ノートには目を瞠るものが書かれていた。

 ——お母さんなんか嫌い。大っ嫌い。

 次の文も、その次の文も、全て母親である遠坂弘美への悪態が続いていた。次のページにも続いていたようだが、ショックが大きくて遠坂弘美はそれに気にも留めなかった。

 そして目の前が真っ暗になったと共に、ある感情が湧いた。何処へ居ても笑う娘が、自分に恨みを向ける娘が、途端に憎たらしく、嫌になったのだ。

 憎い。憎い。亡き母などどうでも良いように妹と笑って過ごす貴女が憎い。夫が死んだ時も泣かなかったのは、嫌いだったからじゃないか。きっと自分が死んだ時も、娘は泣いていないのだろう。むしろ喜んでいたかもしれない。

 許せなかった。親が死んでも哀しまずに、のうのうと生きている娘の姿がどうしようもなく憎悪を引き立てた。生前、自分や夫に向けていた笑顔は嘘だったのかと怒りを覚える。

 許さない。……ああそうだ。

 あの子もこちら側に来てもらおう。そしてやり直すのだ。夫もこちら側なのだから、娘も連れて来て、また一緒に過ごせるはず。

 無理でも良い。

 あの子が死ぬのなら、もうそれで良い。

 『絶対にこの手で殺してあげる』

 その想いだけが心に根付いた。


   ✴︎✴︎✴︎


 「お母さ、ん……?」

 放心した力なき声に依澄は我に返る。声がしたのは背後から——つまり、優里からだ。

 振り下ろされる遠坂の手がピタリと止まった。娘が口にした言葉に反応したのだろう。遠坂はぽつりと優里の名を呟き、目を見開いた。

 その隙に死神がまた遠坂の動きを封じる。しかし遠坂は悔しそうに顔を歪めただけで、暴れはしなかった。

 「お母さんだよね……?」

 優里が問う。遠坂は口を閉ざしたまま。

 依澄はそっと二人の間から身を引いた。今なら遠坂が自我を取り戻せると思ったのだ。

 「お母さん、聞いて」優里が遠坂に近付く。「ずっと言いたかった事があるんだ」

 依澄と死神の視線が合った。

 これが望んでいた事か。そう訊かれた気がして、頷いた。

 「あたし、お母さんの事」

 遠坂の目が一瞬、希望に満ちた。

 ああ、これは謝ってくれるのではないだろうか。そんな考えが遠坂の心に芽生える。



 「——大っ嫌い」



 時が止まったかと錯覚するほど、静かになった。依澄にとっても衝撃だった。その場に居た誰もが予想していなかった言葉を吐いた優里は、母親を睨みつける。

 「あああ、あああアアアアアァァ!」

 彼女は死神に動きを抑えられている身でありながら暴れ出した。何度も何度も「殺してやる」と喉が枯れるくらいに声を絞り出し、必死に優里の命を奪おうと手を宙に彷徨わせる。

 こんなはずじゃ、と依澄に焦りが生じた。当の優里はそんな現実を目の当たりにして少し恐がっている素振りを見せたが、間もなく口を開き、感情的に悪態を吐く。

 「あんたなんか嫌いよ。何、好きって言うとでも思った? 残念でした! 死んで清々したよ! いっつも鬱陶しかったんだから! 母親らしい事もせずに勝手に死んでったくせに"殺してやる"? 馬鹿じゃないの⁉︎ ほんっとそういうとこ嫌い!」

 「ウルサイウルサイィィ」

 「あたしの事、置いてったくせに! お父さんが居なくなってから、あたしをちっとも見なかったくせに! そんな人、嫌いにならない方が辛いわよ!」

 まだ言い足りないと口を動かそうとする優里。それを意図せず止めたのは、死神だった。

 「夕凪依澄っ、もう限界だ!」

 フードの下で切迫した表情を覗かせる死神の言葉の意味は、考えなくても察する事が出来た。遠坂はそれを合図とするかのように壊れ出す。

 「ウルサイウルサイウルサイダマレダマレダマレコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤル」

 彼女の声は最早"声"ではなくなっていた。ノイズ音が幾十にも重なり、聞き取るのさえ困難だ。遠坂を取り巻く靄はドス黒さを増す。依澄はそんな姿に胸が痛くなる。もしかしなくとも、取り返しのつかない事態になってしまったのだ、と。

 「一人で死んでったあんたに、あたしの気持ちなんて分かんないわよ……」

 優里がそう吐き捨てた。それが遠坂に届く、最後の言葉。

 未だ襲いかからんと暴れ狂う遠坂の周りが黒い靄で完全に覆われる前に、死神は何処からか取り出した鎌を振り上げる。数秒も経たぬうちに、黒光りする切っ先は勢いをつけて遠坂の心臓へ達した。

 誰もが静まり返る場にふっと実感する。

 遠坂弘美の魂は、消滅したのだと。


   6


 「——っていうかあんたたち誰⁈ しかもその子身体透けてんじゃん! 怖っ!」

 はっと我に返った優里が依澄らを指差す。混乱しているらしく、続く言葉は「え」や「は」ばかり。織部は事情が分からず状況に置いてけぼりの透真に話しかけていた。

 「えーと。透真くん? 今どんな状況か分かる?」

 「分からん。というかあの女の子は何言ってるんだ? 身体が透けてる子なんて居ないじゃないか」

 「あー……うん。とりあえず透真くんは帰った方が良いよ。今日の話はまた後日するから、ね? ほら、お母さんのことも心配だろ」

 怪訝な眼差しを受けながら織部は透真の背をぐいぐいと押す。あまりに帰ってほしそうだったからか、それとも、母が心配という言葉に反応したのか、透真は釈然としない様子でその場を去っていった。この場には生者の織部と優里、死者の依澄、そして死神の四人が残った。

 依澄と死神は視線を交わす。今度は、優里にどう事情を説明しようかと悩みを共有するためだ。

 生きている人間じゃない自分たちを直視して驚いている彼女に説明するのは些か無理があるだろう。だからここで優里に事情を説明するのは、彼が最適だ。

 目と目で会話し、意見が一致したところで死神が織部に言った。

 「織部郁、遠坂優里に事情を話せ」

 死神の有無を言わせぬ物言いに呆気に取られる。織部は仕方がないといった風に優里と向き直った。彼も彼で、こちらの意思を読み取ったようだ。

 「生者と生者の方が会話はしやすいだろう。夕凪依澄は死者、我はそもそも人間ではないのだからな。話は通じぬ」

 「まあ、任せた方がいいよね」

 依澄が同調する。織部は二人の言葉を聞き逃しつつ、口を開いた。

 事の発端、つまり、遠坂が展望台で本性を現した時の事。その時にも依澄と死神が居た事。遠坂弘美が何らかの理由で娘を憎んでいた事。この場で遠坂弘美が透真を殺そうとした事。母親が視えるようになった優里の言葉が彼女の引き金になった事。彼女の魂が跡形もなく消滅した事。織部は順番に話した。

 事情を聞き終わった優里は第一声、「ごめん」と謝った。相手は織部だった。

 「ストーカー扱いして本当にごめん。それと、意味分かんないとかも……ごめ」

 「ああ、良いよ良いよ。別に。慣れてるし。それに謝られても逆に困るっつーか。ほら、女の子は笑顔でいなきゃ。ね?」

 優里を遮って織部が謝罪を跳ね除ける。それが優里の心を軽くした。

 落ち着きを取り戻した優里は改めて依澄と死神を見た。

 「依澄ちゃん、だっけ。ごめんね。怖いとか言って。君もお母さんと同じなんだってね」

 「正確には同じじゃないけどね。遠坂さんは悪霊で、私は普通の幽霊」

 本来死ぬはずでなかったというオプション付きである。

 「ええと……し、死神、さん……、助けてくれて、えと、あ、ありがとうございました」

 怯えたような態度には触れないでおこう。死神自身も怖がられていると気付き、目を合わせないように下を向く。そこで気遣うんだ、と新たな発見をした。

 「そう言えば、どうして優里さんはいきなり遠坂さんを視ることが出来たの?」

 黒澤の時のように、死神が何か手を加えたのだろうか。そう思ったが……。

 「臨死体験ってやつだよ、依澄ちゃん」

 依澄の疑問は織部によって答えへ導かれたのだった。

 「よく言うじゃん。一度死にかけた人は今まで視えなかったものが視えるようになるって。優里チャンは殺されかけたから、死神サンや依澄ちゃんの事が目視出来るようになったんだよ」

 なるほど。思わず素直に頷きかけ、反応を止めた。ナチュラルに会話に入っているが、この男は依澄を殺したと言った張本人である。警戒は怠らないようにしなければ。

 明らさまに距離を取った依澄に織部は一瞬、寂しそうな顔をした。生憎依澄はそれに気付かない。

 「遠坂優里」死神が言った。「まだ遠坂弘美に言いたそうだったが、これで良かったか」

 確かに。依澄は感情的に悪態を吐く優里を思い出した。彼女はまだ何か言おうとしていたはずだ。

 「これで良いわ。死神さんが言う通り、まだ恨みを言いたかったけど。……あの人にはあんな言葉しか届かないから」

 視線を落として笑う。その時、彼女の髪を束ねる水色のシュシュが目に入った。依澄ははっとした。あの水色のシュシュは、優里が中学生の頃の誕生日に両親から贈られたプレゼントの一つだ。

 展望台で渡されたあのシュシュを彼女はずっと使っていたのだろうか。だとしたら優里は。

 「とにかく、色々ありがとね。お母さんに言いたい事は言えたから、すっきりした」

 あっけらかんと言う優里に、依澄はついさっき考えた事を頭から振り払った。彼女が母親をどう思っていようと、それは部外者の自分が口出しして良い問題じゃないと思ったのだ。

 「最後に一ついいか」

 そろそろ帰ろうとしていた優里を引き止めたのは、意外にも死神で。織部も依澄と同様、ぎょっとした。

 「な、何ですか」

 若干の怯えを含む声音で死神を促す。

 「遠坂弘美は駄目だったが、もう一人は無事、あの世に居る。お前の家もその者が守っている故、安心するといい」

 優里はキョトンと首を傾げたが、すぐに「ああ」と理解を示した。

 「見守ってくれてたら、一言言っといてよ。これからもあたしたちの家を守ってって!」

 そう言って年相応の笑顔を見せる優里。もう無理をしていないようだった。

 「承知した」

 死神が頷くと、優里は別れの挨拶をして自宅へ歩き出した。その背を見送り、依澄は死神に問いかける。

 「何の話してたの?」

 もう一人は無事だとか、家を守っているから安心するといいだとか……。

 「覚えてないか? 遠坂優里の家は何者かに守られていると言っただろう」

 「……ああ!」

 完全に話の全容が分からない織部は頭に?マークを浮かべている。

 「誰が家を守ってるのか分かったんだ」

 「ああ、先刻な」死神は断言した。「——遠坂優里の父親だ」



 曇った空は何処までも続く。

 そしてこの広い空の下には、数え切れない『家族』が存在している。

 たとえ、親と死別していても。離れ離れになってまで、子を見守ろうとしても。その在り方は当人によって形作られるのだ。

 そうやって繋がり、また次なる世へ継がれてゆく。

 『家族』の糸は決して、千切れぬままに。





 遠坂の件が解決して三日が過ぎた頃、早朝に河川敷に居る依澄を訪ねる者が二人。

 「待ちくたびれたよ。死神さん。……織部郁も」

 「あれ。俺ってついでなの? 死神サンより依澄ちゃんの詳しい情報持ってるつもりなんだけど」

 茶化す織部に眉が寄ったのは言うまでもない。

 「遅くなったのは詫びる。すまなかった」

 生真面目に謝る死神。こういうところが人間味あるんだよなあ、とふと考える。

 「織部郁の話は長くなる。我からまず、あの時の続きを話そう」

 あの時の続き——三日前の『依澄は本来、死ぬはずではなかった人間だ』という発言の事かと、一秒もかけず思い至る。

 「夕凪依澄は死ぬはずではなかった。本来ならば、もう何十年も先の話だったのだ」

 死神がご丁寧に前置きを入れる。

 「覚えているか? お前は死後、記憶が曖昧になりながらも彷徨い、この場に辿り着いた。その三日後、我がお前を見つけた事」

 もちろん覚えている。忘れるはずがない。あの瞬間に死神が声をかけてくれて、どれだけ救われたと思ったか。わざわざ訊いてくる辺り、この人にはまだ伝わっていないらしい。

 「何故夕凪依澄の死が我ら死神に知らされていなかったか。否、何故それを知らず、魂回収に遅れたのか。答えは一つだ」

 死神は依澄に真実を告げる。

 「本来死ぬべき人間をお前が庇ったからだ、夕凪依澄」死神は柄にもなく優しい声をしていた。「この世の摂理に逆らった代償として、お前が身代わりになった」

 死ぬべき人を庇った。摂理に逆らった代償。身代わり。

 『俺が、君を殺したんだ』

 ——ああ。そういう事だったのか。

 唐突に理解した。分かってしまえば、織部を警戒する必要もなくなった。

 「……私が、織部郁を庇ったんだね」

 だから彼は初対面の時、傷ついた顔をしたのだ。いや、そもそも初対面でも何でもなかったのだろう。依澄が覚えていないだけで、彼はずっと覚えていたのだから。

 「そういう事。じゃあ、君が死因を分かったところで、今度は俺の番だね」

 声色と表情が合っていないまま口を動かす織部。その姿に何だか既視感を覚えて、知らない記憶が脳裏に一瞬、形成される。

 『ごめん、依澄ちゃん』

 栗毛を揺らして笑みを見せる彼の声は泣きそうだった。今、目の前に居る織部がそうであるように。

 "知らない記憶"なんて事はない。知っているのに、記憶が戻って来ないだけなのだ。

 「全部、話すよ」織部が言う。

 依澄は静かに唾を吞みこんだ。すっぽり抜けた記憶の欠片が、今、音を立てて集まって来る気がした。

 一方、織部から事の次第を粗方聞いていた死神は、もう何も言うまいと川面を見る。曇り空で輝きを失った水が、留まる事を知らずに流れ続けていた。

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