第一章 約束の言葉

   1


 世界が都合良く出来ていたら良かったのに、と依澄は恨めしい視線を空に送った。

 五月二十一日の昼下がり、依澄は幽霊となってからいつも居る河川敷に、一人だった。昨夜「未練を探す」と決意をしたものの、何処から情報を仕入ればいいのか分からず、ほとほと困り果てていたのだ。

 まず根本的な所から躓いていた。

 基本的に死者が生者の目に映る事はない。幽霊とは魂だけの存在であり、実体を持たないからだ。幽霊が人の姿で居るのはその姿の時が一番印象に残っているためである。稀に見る霊感の持ち主とやらは例外だが、それだって一度も出会った事はなかった。その状態では未練探したるものもやりようがない。

 だったら、と次に考えたのは生者では無く死者に尋ねるという方法だ。しかしそれも上手くは行かなかった。

 この世に留まる理由はただ一つ。未練だ。それを果たさなければやがて『悪霊』になり、永遠に救われる事はない。だからこそ皆、自分の事で手一杯なのだ。一刻も早く未練を絶ちあの世へいかなければ、死神に刈られてしまうから。

 依澄は無意識にため息を吐いた。

 幽霊止まりならまだ慈悲がある方だと思う。悪霊と化したら死神だって情けはかけられない。生者に悪影響を及ぼすとなれば、排除するしか方法がないのだ。理解してしまうと、死神は人間の味方なのではないかと考えてしまう。しかし死神にとってそれは"仕事"でしかないため、その考えも正しいわけじゃない。

 それに、と依澄はある死神の姿を頭に思い描いた。毎度依澄の元に現れる、黒いコートの死神だ。

 「……死神さんは、感情が薄れてるし」

 情が湧く、なんて事にはならなさそうだ。

 これからどう行動すれば良いのだろう。思わず首を捻った。過去を振り返って死ぬまでの人生を思い出そうとしたが、死ぬ一週間前くらいからの記憶が曖昧だ。何かをしなければと思っていたはず。だがその『何か』が分からない。恐らくその一週間の間にあった出来事が関係しているのだろうが、依澄にはそれ以上の推測など出来なかった。

 「事故ですって」

 うだうだ考えている依澄の耳に物騒な言葉が入った。思わずぴくりと聞く耳を立てる。

 「そこの交差点であったのよ。居眠り運転だったそうで、高校生が一人轢かれたんだって」

 「まあ……! まだ若いのにねえ」

 「可哀想ねえ、本当。世の中物騒になったものだわ」

 「ここ最近事件が多いし、子供たちには注意しておかなくちゃ」

 「そうね」

 そそくさと囁き声で河川敷を去っていく主婦が二人。主婦たちの手にはスーパーの袋が握られており、野菜や冷凍食品などが詰めてあった。

 会話を聞いたのは今この場で、恐らく依澄だけであろう。子供も遊ばない、大人もほとんど通らない場所で、ましてや平日の真っ昼間だ。寂れた河川敷を通るなんてよっぽど急いでいるか、周りが見えていないかのどちらかだ。主婦たちが早足でこの場を去った事が何よりの証拠だった。

 主婦たちの姿が豆粒のように遠ざかったのを確認して、依澄は消えかけた足をある方向に動かす。

 「……もしかしたら、未練探しの手がかりになるかもしれない」

 向かう先は主婦たちの会話に出てきたあの場所へ。きっとまだ、あそこで彷徨っている者がいるはずだ。自分と同じ境遇になってしまった、状況も掴めぬ哀れな魂が。



 例えば、生きることに絶望したとき。例えば、疲れてぼんやりしていたとき。例えば、自分を犠牲にして他者を守ったとき。人が死ぬときは、何かしら理由があるのだ。自殺も他殺も事故も、全てがそれぞれの理由で動いた結果である。

 目的地と思しき場所には、大勢の人々が行き交っていた。地面に垂直な信号機が、色が変わるごとに二、三度の点滅を繰り返す。そして信号の色が赤から青へ切り替わると同時に、まるで比例するように一斉に動き出す足、足、足。

 そんな目まぐるしい光景に若干の違和感を覚え、訝しげに首を傾げる。それは人々があまりに平然としすぎているからだった。

 事故があったのは此処ではなかったのだろうか。そんな不安さえ湧く。

 事故現場には救急車をも囲う野次馬が密集する。過去に何回もその現場を目撃した事がある依澄は、救急車が去ったであろう事故現場に誰も見向きしないのは、とても不可解に思った。いや、もしかして事が全て終わったあとなのかもしれない。その説でいくと歩行者が平然としているのには納得せざるを得ない。

 道路に車の破片が散らばっているわけでもなく、血だらけで横たわっている人もいないのだ。警察は数人いるが見張りのようなもので、辺りに目を走らせて交通の様子を確認しているだけ。

 やはり来るのが遅かった。自分と同じ死者が見当たらないし、と肩を落とす。

 死神はいつも『仕事』が早い。依澄は幽霊となって三日間放置されていたというのに、今では「日々魂をあの世へ案内するのが死神の仕事だ」の一点張り。依澄の場合何か事情があったのだろうが、それでも一人で彷徨うのは嫌だったのだ。この仕打ちはあんまりじゃないか。

 不満が募りかけてはっとする。

 負の感情に取り込まれぬよう、感情を吐き出せ——死神に言われた言葉だ。曰く、負の感情は幽霊に悪影響を及ぼすものであり、その感情が溜まりに溜まると、悪霊になるそうだ。悪霊になると、もう二度とこの世に生まれてくる事はないのだと言っていた。

 しかし。

 「愚痴も言えないからな……」

 なんて窮屈な在り方か。自由気ままに過ごせない上に、我儘も許されないなんて。十四歳の依澄は突然路上に放り出されたようなものだ。

 そもそも不満が出るのは死神関連だ。関係している者にそう言われても、素直に「わかった」とは頷けない。死神は酷く簡単にものを言う。依澄は不服そうに視線を落とした。

 「夕凪依澄? 此処で何をしている。あの河川敷から離れることが出来たのか」

 依澄に声をかけたのは、黒コートを身に纏い、フードで顔を隠したままの男。死神だ。

 「……死神さん。私、あの河川敷の地縛霊じゃないんだけど」

 一体何処から現れたのだろう。相変わらず神出鬼没な男だ。

 対立するように会話する二人に、道行く人々は見向きもしない。視えていないのだから当然か、と何の気なしに考えてみる。

 「知っている。地縛霊なら我も放って置いたりはせん。単純にあの場所に思い入れがあって離れないのだと思っていたまでだ」

 「違うよ。行く当てがないから、なんとなく留まってただけ。だから思い入れはない」

 そう言ってから、気付く。今のは未練が分からないと言っているのと同じではないか。目的がないと、自白してしまったようなもの。

 案の定死神は怪訝な声で尋ねた。

 「"行く当てがない"? 未練はどうした? 我は言ったはずだ。時間は限られていると。そう自由にしていたら取り返しのつかぬ事態を招くぞ」

 「ち、違うって。言い間違えたの! 行く当てはあるけど、行く気になれないって言いたかったんだよ」

 言いわけとしては苦しかっただろうか。不安に思いながらも、依澄は平静を装って話題を変える。

 「それよりここで事故があったって聞いたんだけど、本当?」

 「何処で聞いたのかは知らぬが、本当だな。四日前の事だ」

 やはり来るのが遅かったらしい。

 残念だと落胆する依澄に対し、死神は顎に手を当てて考える素振りを見せた。

 「夕凪依澄、家族はどうしたのだ? 大抵、亡者は生前の記憶を頼りに親しい者に会いに行くが、お前はいつもあの河川敷から離れぬではないか。データでは両親も兄もご健在だ、何故行かぬ」

 無機質な声にも関わらず、依澄は死神の疑問に思う気持ちを真っ直ぐに汲み取った。

 「会いに行ったよ。貴方が知らないだけで」

 死神は知らない。依澄が死んだその日の内に、すでに家族に会いに行っていた事を。何かの手違いで死神が現れなかったために、幽霊となった直後の依澄の行動は誰も知らない。

 「けどね、家族のみんなは、私を見なかった」

 その日の時刻は夕方の六時を回っていたから、「ただいま」と言えば「おかえり」という声があるはずだった。だが生活音は聞こえているものの、依澄の声に応える人は誰も居なかった。玄関のドアノブに触れなかった時点で自分が死んだと瞬間的に理解したが、家族は気付いてくれると微かな希望を持ってしまったのだ。

 「……ううん。みんな、私が視えなかったの」

 結果は、大切な家族に「お前は死んだ」と現実を突きつけられただけだった。

 「だからもう会わないでおこうと思ったの。会ってしまったら、また辛くなる。……また、変な希望を抱いてしまうから」

 以来、自分の死について重く考えないように思考を追い立てた。家族から気付かれなかった悲しみも、自分の記憶がないことによる不安も、一人でいる寂しさも。極力考えないようにすれば、何も怖くないと。不自然な行動なのかもしれないが、その時の依澄にとって最善な方法だった。

 むしろ日に日に笑みを浮かべて明るく振舞っていると、相対して心が悲鳴を上げていく事の方がよっぽど不自然だ。止めようにも歯止めが効かなくなっているのも、危険なのかもしれない。

 沈黙したままの死神が依澄の目を捉えた。あまりにも無感情で、無慈悲な視線。一瞬、居心地が悪くなり、もう去ってしまおうかという考えが頭に過る。

 そんな中、死神の声が空気を震わせた。

 「今は家族に会う事も、未練を果たす気にもなれぬのだな?」

 「何の確認……? まあ今のところはないけど」

 そもそも果たせないしね、覚えてないから。心中で呟く。

 「そうか。——ならば、我を手伝ってはくれまいか」

 ……手伝い、とは。

 思わぬ展開に目を丸くした。そんな依澄に構うことなく、死神は言葉を続ける。

 「実は今受け持っている魂の一つが、自分はまだ死んでないと中々認めぬ。事実としてその者の"器"を見せてやったのだが、それでも信じないと言うのだ。早々に未練を絶ち切り現世を去れば良いものを、何故頑ななのか全く見当もつかぬ」

 やれやれといった風に首を横に振る。そして。

 「故に、お前にはその者の説得を手伝ってほしい」真面目な顔でそう言い切った。

 「ま、待って待って。"器"って確か体の事だよね? 遺体を見せたの? 魂……その人に」

 「ああ。事実を教えるのは正しい事であろう。我は何か間違った事をしてしまったか? それと人ではない、亡者だ」

 ご丁寧に訂正を入れながら本気で分からないと言う彼を見て、見知らぬ幽霊に同情した。いきなり自分の遺体を見せられて可哀想に。確かにそれは現実が受け入れ難くもなるだろう。

 「ほんっとに人間の気持ちが分からないんだ……」

 呆れ気味に大きなため息を吐いた。いきなり「あなたは死んでいる」と言っても「はい信じます」なんて思えるわけがない。

 「何だ。文句でもあるのか? 仕方がないだろう。我は死神だ、人間は理解できん。たとえ死んだとしても、それは変わらぬ」

 むっとした口調に聞こえるのは、依澄の気のせいか。死神は感情が乏しいし、表情を見間違えただけだと考え直す。

 「まあ確かに理解できない人を説得しよう、なんて無茶振りだと思うよ」

 死神と死んだばかりの人間の会話は温度差が酷い。たまに見かけるが、死神は落ち着き払って話していても人間は大抵上の空、あるいは取り乱し、終いにはキレる者もいる。真面目に話が噛み合うのは精神年齢が高い人だけである。

 そこまで考えてあれ、と思った。イメージし難いが、死神って結構大変な役回りだな、と。話を聞かない人まで相手にしないといけないなんて、過酷過ぎる。依澄には無理だ。

 「……うん。分かった。手伝うよ。まだ少し時間はある」

 自分の未練を見つけなければいけないが、それ以前に死神が不憫に見えてきた。幽霊となった依澄にまで助力を願い出るとは、それほど難解であるという事に違いない。

 「本当か。ありがたい」

 無表情だとしても、彼の言葉には嘘がないと思っている。

 「情報をちょうだい。その人の名前とか年齢とか、そういうのについて詳しく知りたいの」

 「分かっている。だが本当は秘密にしなくてはならぬ情報だ。誰にも口外せぬように、気をつけよ」

 死神の言葉に無言で首肯した。



 交差点を抜けた先にある傾斜が緩やかな坂道を上ると、右の歩道からこの市でそこそこ名の知れた高校が姿を見せた。何年か前に新設したそうで、遠くから見てもその外観は立派なものである。

 坂道を上りきり、依澄は高校の名前が記されている表札の前に来ると、見覚えがある文字に思わず目を瞬いた。大きな木々が自然の匂いを運び、日に照らされている下で、葉っぱの形をした影がまるでこの学校のシンボルであるかのように表札の文字と重なり映っている。そこに書いてあるのは、たったの四文字。

 「神代高校」

 それは依澄の実兄が通っている高校の名前だった。


   ✴︎✴︎✴︎


 依澄と死神は神代高校の校舎に立ち入り、「視えていないから」と隠れる事もなく堂々と廊下を通った。時刻は午後二時三十分過ぎ。暖かい陽光が反射して窓硝子がきらりと光り、場を飾っているようだった。

 まだ生徒は授業を受けている最中だろう。教室を横切ると時折話し声が聞こえるが、どれもこれも教師の説明が入り混じっている。決して生徒も悪ふざけをしないためか、自分たち以外人の気配がない廊下はひどく閑散としていた。

 依澄の実兄、夕凪透真はこの神代高校の生徒であり、依澄とは三つ歳が離れている。

 そういえば自分が幽霊となった日に自宅に行った時、兄だけが居なかった。家族と言葉を交わせると思ったが、両親が依澄の存在に気付かなかったという事に気を取られ、兄に会いに行くのも億劫となっていたのだ。

 「……まあ、今会いに行ったところで兄さんも私が視えないんだろうけど」

 呟いた依澄に反応したのは、隣を歩く死神。

 「何か言ったか?」

 問いかける彼に何でもないと伝え、小さく頭を振った。今は自分の事じゃなく、死神の手伝いに専念しなければ。

 まず情報を整理しようと此処に来る途中で死神から聞いた話を思い返し、考えた。

 死神が説得したいと言っていた幽霊の名前は、黒澤蓮。話を聞く限りどうやら黒澤は、依澄の兄と同じ神代高校に通う男子生徒で、驚いた事に、二人は歳も同じだという事が分かった。

 黒澤は一年の頃、運動神経が良く、勉強面でもそこそこな成績を残した生徒だった。しかしその評価が崩れだしたのは去年の秋。ちょっとした暴力事件に巻き込まれ、手を出した"加害者"として停学処分となったのだ。そして停学明けに登校してきた黒澤を周りは白い目で見たり、こそこそと陰口を叩いたりしていたようで、黒澤は徐々に学校へ来なくなったのだとか。

 依澄が昼間に聞いた事故の話は、どうやら黒澤の事だったらしい。長らく外出を控えていた黒澤は久しぶりに外へ出て、運悪くあの交差点で轢かれてしまった。言うまでもなく、死因は交通事故だ。

 「一つ尋ねたいのだが」

 二階、三階へと続く階段を上がりながら、死神が沈黙を破った。

 お互いが何を考えているのか分からない状況下で、黙々と黒澤が居るという屋上に向かう事に若干の気まずさを感じていたため、死神が話を持ちかけてきて少しほっとした。

 依澄は柔らかい表情のまま、死神に返事をする。

 「何か気になる事でもあった?」

 一段ずつ確実に階段を踏み歩いているのに、俯いてみると見えるのは薄っすらと形が残っている足。これではただ浮いているようなものだと、遠い意識で考える。

 「お前にも友人は居るだろう。家族と会いに行かぬわけは承知したが、友にも何故会いに行かんのだ。それも同じ理由なのか?」

 思わず顔を上げた。

 「そう、だよね。なんで私、会いに行ってないんだろう……?」

 死後、一度でも友達の事を考えただろうか? いや、今日死神に言われるまで、友達の事に考えが至らなかった。それはやはり、思い出せない未練の事で頭がいっぱいだったからだ。

 家族のことは真っ先に思い至った。だから自分が死んだその日に会いに行った。しかし、仲の良かった友達の事は本当に一度も思い出さなかった。頭に過る事さえなかったのだ。

 ——どうして、友達に会いたいと思わなかったんだろう。

 「分からぬか? 自分の事だぞ」

 不信な眼差しを向けられ、言葉に詰まる。

 「成る程。つまりお前の未練は、友人が関係していないものなのだな」

 依澄が黙っていると、不意に死神が合点がいったと、納得の意を示した。

 「なんで、そう思うの?」

 ぽつりと訊く依澄の言葉を拾って、死神が確信のある声を出した。

 「亡者の未練は大抵、死んだ直後に浮かんだものが関わるからだ。だがお前は友人を思い浮かべなかった。それなら頑なに言わぬお前の未練はその他にあるという事だろう」

 死んだ直後に浮かんだものが、未練に関わる。初耳だ。だがそれが本当なら。

 「私の未練は、家族が関係してるってこと……?」

 自信はない。けれど十分にあり得る話だ。

 「事実そうであろう。何故驚いている」

 死神は依澄が未練を思い出せないのを知らない。だから彼の目には今の自分の姿が不思議に見えている事だろう。

 「よく分かったなって思って。びっくりしちゃった」

 そうやってまた誤魔化して笑う自分に、少しだけ嫌気がさした。



 屋上へ着いた依澄と死神を出迎えたのは、雲一つない青空と天高く輝く太陽だった。依澄は外の眩しさに思わず目を細める。なんならずっと目を閉じていたいくらいだったが、今はそれより先にするべきことがある。

 「我が説得したい亡者はあの者だ」

 真っ直ぐ前を見据える死神の瞳を見て、依澄は彼の視線の先を辿った。すると其処には、神代高校の制服である灰色のブレザーを羽織るように着た一人の男子生徒が、空を仰いで佇んでいた。髪色は限りなく赤に近い茶色で、陽光に照らされているせいか仄かに光って見える。

 男子生徒の姿は全体的に輪郭がぼやけており、彼が死神の言う"亡者"であると気付くまでに時間はかからなかった。

 死神が男子生徒に歩み寄る。依澄は慌ててその背を追った。

 「——自称死神」

 ふと、前方から聞こえた低い声。誰の声だろうと考えた時、その声の主はこちらを振り返って言った。

 「あんた、なんで俺の居場所が分かった?」

 どうやら男子生徒は死神にしか気付いていないらしかった。死神の背にちょうど重なって依澄の姿が確認できていないのだろう。その証拠に依澄については何も触れようとしない。

 「何故……言ったはずだがな。我は死神である。故に、我が担当する魂の情報はこちらが何もせずとも入ってくる。この話は二度もしたが、次はないぞ」

 淡々と話す死神を男子生徒は怒気のこもった目で睨みつけた。

 「俺は死んでねえって言っただろ」

 「だがそれが現実というものだ。認めぬわけにはいかぬだろう」

 「だから認めろって? ふざけんな! 俺はまだ生きてるんだっ」

 ほら言っただろ、と言いたげに死神が依澄に視線を送った。

 第三者が関係して良いものなのか不安だが、意を決して依澄はそろっと死神の影から抜け出し、男子生徒の前に姿を現した。

 彼は、自分の姿を見てどんな顔をするだろう。

 死んで間もない者にとっては典型的な"幽霊"、もしくは恐怖の対象となってしまうのだろうか。前者はまだ良いが、後者は面倒だ。話が滞りなく進まなくなる。

 いきなり現れた依澄に男子生徒は一瞬驚いたような表情を見せた。が、すぐに顔を引き締めた。良かった。杞憂だったようだ。

 「誰だ? あんたもこの自称死神と馬鹿げた事を言いに来たのか? 悪いが帰っ……」

 「夕凪依澄、我は次の仕事に行かねばならん。後を頼めるか?」

 「……ちっ」

 男子生徒は言葉を遮られたことに眉根を寄せ、舌を打った。

 「死神さんは戻ってくるんだよね。だったらいいよ」

 「ああ。夕暮れには戻るつもりだ。任せたぞ」

 「はーい」

 そう返事をした次の瞬間。死神の姿は、空気に溶け込むかのように跡形もなくなっていた。相変わらず素早い動きだ。何故それを依澄の時にしてくれなかったのだろう。だが疑問を持ったとしてもその時の記憶が曖昧なのだから、死神を悪く言える権利は今のところ無に等しいだろう。いっそ恨み言の一つや二つ送り付けられたら、こうして自分の未練について悩むこともなかったかもしれない。

 だが、そんな立場でない事も、分かっているつもりだ。

 死神が屋上を去った後、必然的な沈黙が生まれた。まあそれもそうだろう。お互いが初対面なのだ。何から話せば良いのか戸惑ってしまう。

 「なあ」

 先に沈黙を裂いた彼は依澄に鋭い視線を向けた。

 「あんたは死んでんのか」

 思ったより直球な言葉だった。

 「うん。そうだよ。私も死んでる」

 遠回しに貴方もだと強調すると、相手は依澄の思惑に気付いたようでまた舌打ちをする。正直怖い。

 「言っとくが、俺は死んでねえから。あんたがそうでも俺は違う。死神に言われて来たんだろ? だったら帰れ」

 「えーと、それはちょっと無理なんだよね」

 「は? 何でだよ」

 「ごめんなさい……事情があって言えないの」

 これでは彼も心を許してくれないだろう。だが、死神の手伝い以外に、自分の未練が分からないから手がかりを掴むために此処へ訪れたなんて、言えるわけがない。

 「……そーかよ。勝手にしろ」

 男子生徒は吐き捨てるように声を出すと、依澄に背を向けた。話しかけるなという意思表示だ。しかし依澄はどうしても確認しておきたい事があった。今更だと言われるかもしれないが、思い切って目先の背に尋ねる。

 「あの。貴方が黒澤蓮で合ってます?」

 男子生徒は目線だけをこちらに寄越し、短く返答した。「ああ」

 二人の会話はそれきりだった。


   2


 夕暮れ時の河川敷は茜色の空や夕陽に染まり、水面が赤く煌めいて見える。昼や夜とはまた一風変わった景色だ。日没までぼーっとその綺麗な光景に見惚れていたいと思うが、そろそろ死神が来る頃のはずだ。あまりのんびりしていると「何をしている」とあの感情の無い声で尋ねられるだろう。それはなんだか釈然としない。

 依澄は死神を待つ間、神代高校の出来事を頭に浮かべた。

 黒澤に名を確認したその後、残念な事に、二人が言葉を交わすことはなかった。相手も関わらないでくれと鋭い目つきをしたままだし、依澄としても何から尋ねていいものか悩んだ。そうして何度か『悩んで、声をかけようとして、踏みとどまる』を繰り返し、いつの間にか下校時間を知らせるチャイムが鳴り響いていた。

 時間とは早いものだ。空が色を変えていることに気付いていたのに、まだ時間があるから大丈夫と思い込んでいた。そしてこのざまだ。何も聞き出せず、自分の未練を果たすための手がかりすら掴めなかった。

 死神は何と言うだろう。呆れるだろうか。それとも、もういいと諦めるだろうか? 手伝えると思ったが、自分では役不足かもしれない。そんな後ろ向きな考えが頭を過る。

 「……ううん」

 こんな風に考えるのは止そう。大丈夫だと信じるんだ。

 「そうだよ。きっと大丈夫」

 「何がだ?」

 口からこぼれた心の声に、何者かが反応する。驚いて言葉に詰まる。一体どこから、と周りを見渡そうとした矢先、目の前に黒いコートを身に纏った男が現れた。

 空気がざわつき、夕焼けを背に佇むその姿はどこか異質で、とても恐ろしい人ならざる者の匂いを撒き散らしている。夕陽が彼から逃げるかの如く沈んでいく。東の空はもう茜色ではなくなった。

 まるで彼が世界の色を変えたようだ。

 「死神さん」

 図らずとも声が出る。

 日が昇っている間は何も感じないのに、夜が近づくと畏れを感じるのは何故だろう。つい先ほどまで考えていた事も吹き飛んでしまった。

 「何かあったのか、夕凪依澄? 随分としおらしくなっていたようだが」

 我に返り、返答を口にする。

 「と、特に何も。黒澤さんの事考えてただけだよ。あの人、自分が死んだって全然認めようとしないんだもの。今のところちゃんとした情報は掴めそうにないんだよね」

 だがまだ諦めたわけではないと告げた。

 「我からしてみればとても助かるが、無理を強いるつもりはないぞ。本当に良いのだな?」

 「うん。私は無理してるわけじゃないし。自分の意思で手伝いたいって思ったから、最後までやり遂げたいの」

 月はまだ雲に隠れている。夕陽が山間に消えてゆく中、河川敷の人影は二つ。どちらも生きた人間ではない。

 そんな風景を目の当たりにしながら、依澄はほっとしていた。死神の手伝いを続けられることに、安心を感じたのだ。これで自分の未練もつつがなく探せるだろう。

 「それにしても黒澤さん、何であそこまで死んでないって否定するんだろう。ずっと屋上から動かないし、あの場所に何か思うところがあるのかな。ねえ死神さん、どう思う?」

 「それが分からぬ故、お前に手伝いを申し出たのだ。……だがまあ、その考え自体は悪くない。データには何も書いておらぬが、可能性としては十分あり得る話であろう。我も一度は考えた」

 考えたのか。

 「結論は?」

 「我には分からぬ話だという事が分かった」

 「それ何も分かってないじゃん……」真顔で言う死神に依澄は脱力した様子で返す。

 ゴホン。死神が誤魔化すように咳払いをした。

 「我のことは良いのだ。それより夕凪依澄、お前こそどう思う? お前は思い入れもないのにこの河川敷に居るのだろう。それは何故だ? 黒澤蓮も同じような理由かもしれんぞ」

 「さあ……? どうだろうねえ」

 そもそも自分は何故、此処に居るんだったか。なんとなく? いや、もっと他にあるはず。

 依澄は死後、自分が何を思ってどう行動したのか思い出そうと消えゆく夕陽に目を向けた。

 あの日も確か、真っ赤な夕焼けが街を染めていた。



 頭が痛い。

 依澄は朦朧とした暗い意識の中で、ふと、此処は何処だろうと考えた。

 左右上下を見ても黒一色の空間。否、"見た"というのはおかしい。そもそも目を開いている状態なのかも分からないのだから。だが自分の姿は"見えている"。どういう事だろう。

 浮いているのか、地に足がついているのか。確かめるために右足を前に出すと、その瞬間、空間に色が着いた。

 緑色の葉を揺らす木々が立ち並んでいる道に居ると気づいたのは、数分経ってからだった。右には住宅街。左には河川敷。その向こうには右と同じように住宅が建っている。前にはただ道が続いているだけ。また、後ろも同様である。

 もう一度、此処は何処だろうと考えた。先程とはまた違っている場所だ。人が全く通らないのも不可解である。それに未だ続く頭痛の原因もさっぱりだ。

 クァア。クァア。頭上を飛んでいく二匹の烏が夕陽に向かって鳴いている。その光景は、夜が近づいているのを知らせているように思えた。

 依澄はスカートのポケットに携帯している携帯電話を手に取る。その拍子に携帯電話に付けられている星型ストラップが静かに揺れた。電源は入らない。現在地を調べようと思ったのだが、どうやらそれは叶わないらしい。

 一つため息を吐くと、自分の勘だけで家に帰ろうと前を向いて歩き出した。そうして暫く経ち、なんとか自宅に辿り着いた時にはもう、違和感が爆発寸前だった。

 道行く人々に道を尋ねても返事が帰って来るどころか無視をされた事や、夕暮れとはいえ混んでいる交差点でサラリーマンの人とぶつかりそうになったのに、痛みもなく回避できた事。しかも自分が回避する動きをした記憶もない。さらに道も分からぬままデタラメに歩いているといつの間にか目の前に自宅があった事。

 それ以外にも違和感を抱いた些細な出来事が沢山あった。

 何故? その思いが雪のように心に積もる。頭痛もまだ治らない。

 しかし自分が今どういった状況に置かれているのか、薄々と気が付いていた。それを決定付けたのは、依澄が自宅を前に安堵し、玄関扉のドアノブに触れようと手を伸ばした時だった。

 依澄の手がドアノブをすり抜けたのだ。それも空ぶったわけじゃない。ただ最初からそうであったかのように、手の色が薄れ、輪郭がぼやけ、ドアノブに触れる事が出来なかった。見た目は触れているのに。

 その時、驚愕でも恐怖でもない、ああやっぱりと腑に落ちる感覚を覚えた。やっぱり自分は、生きた人間の体ではなくなっていたのだ、と。それならば沢山の違和感も説明がつくし、辻褄も合う。

 けれどそれでも家族に期待を寄せていた依澄は、今度はドアノブに触れる事もせず、玄関扉をすり抜けて家の中に入った。「ただいま」と言った。いつも通りなら、期待通りなら、「おかえり」と家族の声が返ってくる。そう信じた。——信じて、いたかったのに。

 依澄の声は誰にも届くことなく、空気に紛れて消えた。

 それから何もかもがどうでもよくなり、ふらふらとした足取りでまたあの河川敷に向かっていた。一人になりたかったから、体が勝手に動いたのかもしれない。

 河川敷の草原に座り込むと、地面に接した体の一部がぼやっと靄のようになった。生きている人間には確実にあり得ない現象。本当に生きていないのだと言われているようで、なおさら悲しくなった。

 いっそこのまま自分も消えてしまえばいい。そうしたらこんな風に独りでくよくよする必要もないというのに。

 そこまで思考を巡らせ、ふっと幾つかの疑問が湧いた。

 はっきりと認めたくはないが、自分は死んだから、こうして生きた人間の目に晒されることなく存在している。まあつまるところ幽霊といったものであろう。だとしたらいつ何時命を落としたのか?

 意識が曖昧なものから明瞭になった時、自分が身につけていた携帯電話には触れた。だが自宅の扉は触れなかった。ここから考えられるのは、生前身につけていた物だけは、幽霊となった今でも触れるのではないかという事だ。

 そして幽霊となってしまった原因、言うなれば死因も疑問が湧く。依澄が本当に死んだのなら、その死因は一体何だ?

 時間が許す限り思案したが、結局、死因が分からなかった。いや、正確に言うと"覚えていなかった"。それに死因だけじゃなく、今日から数えてちょうど一週間前の出来事がすっぽり記憶から抜けている。

 どうして? 全く理解が追いつかない。

 疑問が解決しないばかりか、それを処理する脳を持ち合わせていないため、依澄は頭痛が酷くなるのを感じた。これもそうだ。どうして時間が経った今でも痛いままなのか。幽霊でもまだ痛みが感じるなんて。

 分からない事が多過ぎて段々と苛々が募っていくのを抑えられない。

 そして三日が過ぎた頃、依澄は夕陽に照らされているこの河川敷で、真っ黒なコートを風になびかせ佇む、目尻深くフードを被った男と出会った。

 不思議な事に、その時を境に暫く頭痛はしなくなった。



 長い回想を終えた依澄は静かに瞬きをする。

 そうだ。あの時、独りでいることしか出来なかった依澄を見つけてくれたのは、他の誰でもない死神で、彼だけが手を差し伸べてくれたのだ。

 此処は死神と初めて会った場所。だから此処に居れば独りではないと感じた。この河川敷に居れば、また見つけてくれると。それがたとえ『死神』の仕事だとしても、独りになるよりは良いと思惟した。

 「どうだ? 何か思い当たる節でもあるか?」

 死神が問う。黙ったままの依澄が何かに気付いたと思ったのだろう。しかし依澄は首を横に振った。

 自分がこの河川敷に留まる理由は自覚したが、黒澤はそうとは限らない。確実な情報が得られるまで、不用意な発言は控えておくのが懸命だろう。

 「今はまだ分からない。だけど明日も黒澤さんがあの屋上に居るなら、きっとその場所に何かがあるんだと思う」

 そう言うと、死神は依澄の曖昧過ぎる物言いに呆れたのか、それとも、あの屋上に思うところがあるという考えに同意したのか、口許を綻ばせた気がした。


   3


 翌日。依澄が午前中に屋上を訪れると、先客が居た。言うまでもなく黒澤である。

 深く息を吸い込んで黒澤に話しかける。

 「黒澤さん!」

 「あ?」

 名を呼ぶと、返事の代わりに厳しい目つきを投げかけられた。ほんと怖い。昨日から思っていたが、格好からしても、死神から聞いた話からしても、黒澤はまさに"不良"という言葉が合う人物だろう。

 依澄は震えそうになる体をどうにかして奮い立たせ、笑みを作り、言葉を紡いだ。

 「どうしてこの屋上に居るの?」

 言い終えてから、率直過ぎたかもしれないと後悔した。しかし言ってしまったものはもう取り消せない。依澄は祈るような気持ちで返答を待つ。

 「なんだよ。いきなり来て文句か?」

 黒澤は眉間に皺を寄せたまま、問いかけの真意を探ろうとする。依澄は慌てて「私もある河川敷によく居るから、黒澤さんも同じ理由で此処に居るのかなって気になっただけなの」と素直に話した。

 黒澤はまだ半信半疑な様子だったが、納得はしたのか口を開いてくれた。

 「あんたがどんな理由でその河川敷に居るのかは知らねえが、俺はある人と出会って、約束をしたんだ。その約束を果たすために今はここに居る」

 これで満足か? と鼻で笑い、黒澤はまた顔を背けようとした。

 「——同じだよ」

 依澄の言葉に黒澤が動きを止める。ゆっくりとこちらに視線を向けた彼は、相当驚いているらしかった。僅かに目が見開かれている。気にせず続けた。

 「私もその河川敷で、ある人と出会った。黒澤さんと違って約束はしてないけど、そこに居ればその人はいつも会いに来てくれた」

 目を閉じると死神の姿が瞼の裏に浮かぶ。

 「だけど、その人にとって私に会いに行くのは仕事でしかない。約束もしてないわけだし、私は幽霊だからいつかは居なくなる。だから時間が惜しくて、まだこの世から離れられないの」

 死神は恐らく、負い目を感じているのだと思う。何かの手違いで三日間放置してしまった幽霊は、今まで居なかったから。もしかすると、自責の念に駆られているかもしれない。

 依澄は死神の苦悩する様を頭に思い描いたが、即座に自責の念はないな、と想像を打ち消した。黒澤は目の前で黙り込んでいる。

 「おかしい?」

 依澄が笑いながら言うと、黒澤はこれでもかというくらい顔をしかめた。今笑うのはおかしいだろう、と言いたげだった。

 「でも、笑わないとやっていけないからね。特に死んだ後は大変だったよ。気付いたら何故か体が透けてて、未練も分からないのにこの世に残っ……」

 はっと口をつぐんだ。隠し通そうとしていた事情を自らバラしてしまい、心に焦りが生じる。

 「未練が分からない……?」

 黒澤が呟くと、依澄は静かに顔を逸らした。はっきりと聞こえていたらしい。それに聞き逃してはくれないようだ。説明を求めるといった風に依澄をじっと見据える黒澤には、きっと誤魔化しも効かない。言いわけなんて以ての外だ。

 長い沈黙が屋上に広がるとともに、青空の中を白い雲が通り過ぎていく。太陽の光がとても眩しく、手で目を庇おうとしたが、止めた。そうして互いが何の行動も示さないまま、屋上にチャイムは響き渡った。HRの合図である。

 依澄は沈黙と無言の圧力に耐えきれなくなり、とうとう口を割った。

 「……そうだよ。私は自分の未練が分からないの。……こんな身体になっても、この世を去る事が出来ない」

 依澄の身体は半透明な上に足に質感を持っていないが、同じ幽霊のはずの黒澤は、見た目はまだ生きている時とそう変わりなかった。これは死後どれほどの時が経ったのか、という表れであると依澄は解釈している。

 「死神さんから聞いたでしょ。人は死んでしまったら、あの世へ逝くのが決まりなの。だけどこの世に強い思いを抱いていると、あの世へは逝けない。だから未練は早々に絶ち切るべきだって、死神さんに何度も言われた」

 だが、それでも自分の未練が分からなかった。消えゆく身体を見るたびに時間がないと思い知らされ、思い出そうとする時は必ず頭が痛くなる。そんな事の繰り返しで、到底手掛かりも掴めそうにないのだ。

 「この世に居られるのは死後二十一日まで、長く見ても四十九日間だけ。それを超えると、もう後戻りは出来ない『悪霊』になって、死神に排除されてしまう。その前に私は未練を果たさないといけないんだけど……そうしている内に、今日で二十二日目になっちゃった」

 残りあと二十七日。それまでには必ず——。

 黒澤は依澄の話に愕然としていた。暫くすると余裕を取り戻したが、彼の中には未だに動揺が残っていた。

 「……話すつもりなかったのにな……」

 思いもせぬ状況になり、苦々しく言葉をこぼす。

 元よりこちらが黒澤の事情を探っていたのだ。それなのに自分の事を話す羽目になっている。失態を犯してしまったと自分の口を恨んだ。

 「で、でもよ、あんた言っただろ。時間が惜しくてこの世から離れられないって。嘘だったのかよ?」

 「ううん。嘘じゃないよ。だけどその人は私が死んでから出会った人だから、未練とは無関係なの」

 未練であるならば、死神と生前に出会っていなければならなくなる。少し記憶がないとは言え、本当に出会っているなら死神が言うはずだ。依澄と知り合いであったと。死神は出会った時から無愛想で、淡々としていた。故にそれが未練だというのはあり得ないのだ。

 喋らなくなった黒澤は考え込むように視線を落とす。そして雲が陽光を遮った時、目を瞑って言った。

 「俺は、約束した人と会いたい。会って話がしたい。そんでもって、約束は守ったぞって言ってやるんだ」

 唐突の言葉には熱がこもっており、絶対に成し遂げてみせるといった強い意志が感じられた。しかし放った言葉とは裏腹に、彼の声は寂しさを帯びていた。

 彼を突き動かしている感情は一体何なのだろう。

 「これで公平だろ。あんたの話は誰にも言わねえ。だから、俺の話も言うな。自称死神にもだ! いいな」

 黒澤は釘を刺すように、一言一句丁寧に力強く言った。

 どうやら依澄の話を浮き彫りにさせてしまったから、黒澤も自分だけが黙っているわけにはいかないと思い、少しだけ胸の内を打ち明けてくれたようだった。依澄は頷く。

 そんな折、一限目開始のチャイムが鳴り響いた。

 「あんた」黒澤が依澄に呼びかける。「名前は?」

 「夕凪依澄。呼び方にこだわりはないけど、『夕ちゃん』とか『いずみっち』とかでもいいよ」

 軽く笑みを浮かべながら冗談を言えるほど、黒澤への印象が変わっていた。彼は優しい。

 「んな名前で呼ぶわけねえだろ。普通に夕凪って呼ぶ」

 荒々しい口調は出会った当初から何も変わりはないが、少し、表情が柔らかくなった。ように見える。



 時は流れ、現在の時刻は午後一時前。

 あれから少しずつ黒澤と話すようになった。依澄は意外とすんなり事が運び、若干困惑していた。だが世間話が出来るようになったなら、それはそれで進歩と言えよう。

 依澄は世間話の延長のつもりで、兄の事を少し話した。優しくて賢い兄は黒澤と同じように神代高校に通っている、くらいの事に過ぎないが。

 「へえ。夕凪の兄貴もこの学校なんだな。俺と同じ学年か?」

 「うん。同じ高校二年生」

 もしかしたら同じクラスなのかもしれないと淡い期待を寄せた。兄がどうしているのか聞けるだろう、と。暫く会っていないからか、無性に寂しさを感じたのだ。我ながら子供っぽい。

 「……やっぱ、自称死神から俺の事、聞いたんだな」

 隣で黒澤がぽつりと囁くように言った。

 「手伝いをするって決めたから、相手を知っておかないと話せないかなって思ったの。勝手にごめんなさい」

 プライバシー侵害、という言葉が頭に浮かぶ。死者は訴えられないだろうがそれに相当する事をしてしまったのでは、と今更気付き、不安が湧いた。

 「いや、それについては許す。俺もあんたの話、無理矢理聞き出そうとしたからな。あいこだ」

 思わずほっと胸を撫で下ろした。

 やはり彼は優しい。怖い不良のような存在感があり、近寄ることさえ躊躇してしまったのに、今は普通に言葉を交わしてくれている。その口調も幾分か柔らかいものになった。

 しかしそれとこれとは別、と言うかのように黒澤は依然として自分が死んだと認めない。その話題を振ろうとすると、『話すな』と鋭い眼光を向けられた。自分がもう生きた人間じゃないと理解している節は見受けられるが、口では否定を続けるのだ。どうしてだろう。

 「——会いに行くか。あんたの兄貴に」

 考え事をしていた依澄は耳を疑った。一瞬、幻聴かと思った。

 「え?」思考が止まる。

 「ふん。聞こえなかったのかよ。もう一度言うぞ。あんたの兄貴んとこに行くか?」

 黒澤は一度鼻で笑うと、さっきと同じように尋ねた。間違いなく幻聴じゃない。『行きたいか』ではなく、『行くか』と訊いた。

 「い、いいよ。別に」

 会いに行ったところで、それは何の意味も成さないのだ。そう考えて依澄は折角の話を遠慮した。

 「何でだよ。会いたいから俺に話したんだろ」

 心底分からないと言いたげな表情をされて、逆にこちらも戸惑う。黒澤の言う通り、兄に会いたいから話をしたのだろうか。だったら会いに行くべき? いや、でも相手は視えないし。

 依澄が返答に迷って口籠っていると、見兼ねた黒澤が強引に話を進めた。

 「よし。行くぞ」

 「あ、ちょ、ちょっと待って!」

 依澄は屋上を去ろうと動き出した彼の後を慌てて追った。

 誰も居なくなった屋上で静かに風が吹く。空は、澄み切った青のままだ。


   ✴︎✴︎✴︎


 「ねえ黒澤さん。本当に死んでないって言うの?」

 依澄は廊下を進みながら屋上を出る直前のある出来事を思い返し、斜め前を歩く黒澤に声をかけた。その目はジトーとしていたが、訊かれた本人は何も応えず、ちらりと横目で依澄の表情を確認するだけ。ため息を吐きそうになり、寸でのところで抑えた。

 ある出来事というのは、数分前に起きた。

 依澄に『兄貴に会いに行くぞ』と言い、黒澤は屋上を出ようとした。その際、生きていれば必ずドアを開ける行為をするはずなのに、黒澤は迷わず閉じたままのドアをすり抜けたのだ。ここで一つの矛盾が生じる。

 黒澤は自分が死んだと認めていない。だがこの行動は生者ではあり得ないことであり、幽霊の依澄にしてみればもう慣れた行動である。言動がちぐはぐな彼に問い詰めるような事をするのは仕方がないと言えよう。

 彼は理解しているのだ。自分が今、どんな状況であるのかを。

 「なあ。夕凪の兄貴、何組? 俺のクラスじゃねえと思うけど」

 黒澤が夕凪なんて苗字聞いたことないし、と独りごちる。

 暢気なのか慎重なのか。分からないなあ、と心中でぼやきながら依澄が短く言葉を口にする。

 「多分、三組」

 「多分かよ。つーか俺、同じクラスだったわ」

 「えっ。そうなの?」

 驚いた。まさか兄と同じクラスの人だったとは。『夕凪』の苗字を聞いたことがないと言っていたが、恐らくそれほど学校に来なかったからだろう。死神の話の一部、黒澤が不登校だったという事の裏付けになった。

 「まだ授業中っぽいね」

 三組の教室を窓越しに覗き込むと、腰まで長い黒髪を揺らした女性教師が黒板に文字を書き込んでいるところだった。兄の席は……窓際の一番前だ。近視の兄にとって良い席かもしれないな、と感想を抱く。

 「で? 夕凪の兄貴は居たか」

 「うん。ほら、窓際の一番前の席。眼鏡してる人が居るでしょ。その人」

 「へえ。もやしみてえな奴だな。しかもガリ勉っぽい面だ」揶揄う声色で黒澤が言った。

 「もやしって……ひょろひょろってこと? それなら否定は出来ないなぁ。その通りだし。でもガリ勉はちょっと違う。兄さんは読書よりゲーム派なの」

 「眼鏡してんのに?」

 「眼鏡は関係ないよ」笑ってしまった。

 「兄さんが家で勉強してるところってあんまり見たことないんだ。あるのはたまに宿題してるところかな。それでテストも良い点なんだから、羨ましいくらいだよ」

 兄には勉強で分からない問題を教えてもらっていた。理解が遅くなり時間がかかった問題も中にはあったが、呆れる事なく分かりやすく言葉を選んで説明してくれた。その様子に両親は仲が良くて安心すると笑みを浮かべていた。あの家族団欒の日々が今では懐かしく、切なく感じる。一度でももうその景色を目に映す事はないのだと考えてしまうと、寂しさで胸が一杯になった。

 何故自分は死んでしまったのだろう。そう思わずにはいられない。

 「天才肌って奴か。夕凪も?」

 表情に影を落とした依澄を見遣り、黒澤は気付かないふりをして口を開いた。

 「ううん。私は全っ然! 兄妹なのにそこは違うんだよね」

 依澄は空元気な声が出てないか不安を拭いきれていない。

 「……ま、そんなもんだろ。俺は一人っ子だから分かんねえけど」

 黒澤の声が静かな廊下に余韻を残す。大勢いる生徒はこちらに気付くことなく、彼の低い声はチャイムの音で半分かき消された。

 「お、俺は戻るぞ! ここに居たいならしばらく居ればいい。じゃあな」

 チャイムが鳴り、依澄に聞こえるようにそう言った黒澤は、どこか焦っているようだった。ただ単に屋上へ戻りたいだけなのかもしれないが、直感的にそれだけではないはずだと思った。

 依澄は走り出さんとする勢いで去っていく黒澤に制止の声を上げようとする。出来なかったのは、先ほどまで覗き込んでいた窓の横の引き戸が開かれたからだ。ざわざわと話し声が教室に沸き起こる中、引き戸を開けた黒髪の女性教師が廊下に出る。その時、依澄の身体と女性教師の体が重なり合い、ふわっとした感覚に襲われた。

 黒澤は振り返らず、ずんずんと階段へ向かう。依澄は女性教師から距離を取り、自分の不安定な身体を見つめた。そしてうずくまるように膝を抱え、深く息を吐いた。

 女性教師は依澄と幸か不幸かぶつかる事はなかった——あり得なかった——が、実体を持たぬ依澄と重なってしまった。そのせいだろう。脳裏に知りもしない光景が、まるで早送りの映画を見ているように過ぎったのだ。依澄は予想外すぎる展開と情報に頭を抑える。

 一方、女性教師は風か何かが吹いたのだろうかと閉め切られた廊下に怪訝な表情を浮かべ、首を傾げていた。


   ✴︎✴︎✴︎


 「喧嘩した理由は何かな」

 夕陽が山間に姿を隠す様子が窓からよく見える。教室には人が二人、向かい合って立っていた。

 一人は腰まで長い黒髪の女性。切れ長の目が威圧感を醸し出し、その目で睨まれた人はどうしたって萎縮してしまうほどだ。黒いスーツを着こなした彼女は教卓に立ったまま、さっき発した言葉を同じように口にした。

 「喧嘩した理由は何かな。黒澤」

 黒澤と呼ばれた彼——その場に居たもう一人——は黙りを決め込んでいる。制服の袖から固く握り締めた拳がちらちらと覗く。夕焼けが終わる頃であっても、彼の茶髪はとても赤く、まるで火が灯っているみたいだ。顔に前髪がかかり、その目はより一層伏せられる。彼女と彼の視線は未だに合わない。

 「相手は受験生だ。話は今しか聞かないよ。手を出したのは君が先という事になっているし、今更と思うかもしれないが、処罰は軽くしてもらうよう掛け合う事は出来る」

 そう言っても黒澤は何も語ろうとしない。時計の針が動く音が規則正しく教室に響く。

 「君が暴行したと彼らは言っていた。仲良くしようと話しかけたら、急に殴りかかってきたとね。君が暴行したところを目撃した人が居たそうだし、ほとんどの教員は彼らの言葉を信じてる」

 だから今の内なんだ。彼女は黒澤に語りかける。びく、と黒澤の肩が揺れた。

 「正直な話、私は信じられない。彼らが言った事の顛末がどうも嘘くさくてね。仲良くしようと話しかけたというのも信じ難いが、何より君は急に殴るなんて事をしないだろう」

 確信を秘めた声色に黒澤はのそりと顔を上げた。彼女と黒澤の目がようやく合う。

 「…………理由なく殴ったんじゃねえよ」

 最初は言うかどうか迷っているような素振りを見せていたが、最終的に黒澤はぽつりと零した。そして次ははっきりと告げた。

 「氷室ひむろ先生。俺は確かに手ぇ出しちゃったけど、話しかけられたからやったんじゃねえ」

 真摯な色を映す瞳に、氷室先生と呼ばれた彼女は満足げに頷いた。

 「じゃあ、聞かせて。どうして彼らに手を出してしまったのか」

 氷室は黒澤の話を真剣に、口を挟まず聞いていた。事実上被害者となっている受験生数名から聞いた話と、今目の前で語る加害者となっている一人の生徒の話。双方の話で食い違っている点を頭に整理しながら、黒澤の声に耳を傾けていた。

 語り終えた黒澤に「話してくれてありがとう」と笑みを向けると、氷室は最後にもう一度口を開いた。

 「私は君を信じるよ」


   ✴︎✴︎✴︎


 あれから依澄はずっとしゃがんだままだった。

 頭がくらくらする。死んだはずなのに、どうして痛覚や疲労感が未だに存在しているのか。最近、おおよそ予想がついて来た。きっとこの痛みは精神的な疲労を意味するのだ。幽霊であっても元は普通の人間。生前の感覚は頭が記憶し、思い出させているのだろう。記憶しているところが頭だから、未練を思い出そうとする時もその箇所だけ痛みが出る。仕組みは全くもって理解出来ないが、恐らくそうだ。

 ふらふらと立ち上がってそのまま屋上に続く階段へ体の向きを変える。屋上に居るはずの黒澤の姿を想像し、投げかける疑問を綺麗にまとめていく。

 どこまでも広がる青空は不穏なほどに赤くなっていた。閉め切られた窓はいつの間にか開かれ、涼しい風が廊下の空気を冷ました。依澄にはそれが感じられなかった。

 直に頭痛も治る。

 数時間前、兄や両親のことで悲しくなっていたのが嘘みたいだ。今はとにかく幾つかの疑問を解決したいという気持ちが依澄を急かしていた。その時。

 「夕凪依澄、少しいいか」

 「だ、だれ……⁈」

 突如現れた黒い影が窓越しに依澄と重なる。咄嗟に動きを止めた。依澄に軽い混乱を招いた声は、開いた窓のすぐ外から聞こえたものだった。

 「間抜けな顔をしてどうした? いや、それより耳寄りな情報を掴んだのだ。話しても構わぬか」

 黒いコートにフードで目元を隠している男。冷たい風が吹くたびに揺れる、フードからはみ出した黒い髪。そして何よりも、重くのしかかるような低い無感情の声で、男が名乗らずとも死神だと気付いた。

 間抜けな顔とは失礼な、と思ったが、耳寄りな情報と聞いて依澄は死神へと身を乗り出す。死神は空中に立ったまま、発話した。

 「此処に来なくなった黒澤蓮を気にかけていた女人が一人居る。氷室という名だ。その者は黒澤蓮と何らかの約束をし、そして、黒澤蓮は約束の途中で事故を起こした。屋上に居る事も、約束や女人が関わっている可能性が高い」

 「約束って……?」依澄が問う。

 「我には分からぬ」死神は静かに首を振った。

 分からないのか。依澄は驚いてみせる。死神が咳払いをした。

 「これから訊ねるのだろう? 黒澤蓮が語るやもしれん」

 「えー。訊いても答えてくれるかどうか……。やってみるけど」

 「その意気だ。今回はお前に任せてばかりだからな。何かあれば呼ぶといい。直ぐにとはいかぬが、仕事の合間を見計らって来よう」

 「うん。あ、何もなくても呼ぶかも。その時はごめんね」

 依澄の冗談と形だけの謝罪に死神は呆れたように息を吐いた。

 「お前はいつもそうだな……まあ良い。我からの話は以上だ」

 「わざわざありがとう、死神さん。助かったよ」

 「そうか。それは良かった」

 いつもの感情の無い声が少しだけ明るく聞こえ、思わず死神の顔を凝視すると、微かに口角が上がって見えた。依澄は喜んでいるのだろうか、と瞬きを三度繰り返す。

 三度目の瞬きの後、死神は忽然と姿を消した。外は変わらず赤い空のままで、時折、烏の鳴き声が耳へ届いた。

 「黒澤さん、屋上に居るかな」依澄は落ち着いていた。今まで得た情報を元に考えると、屋上とは別の場所に居るかもしれない。

 痛みが消えた頭でそんなことを考慮しつつ、歩き始めた。


   4


 「ちょっと俺の話、聞いてほしいんだけど」

 予想と反して黒澤は屋上に居た。てっきり氷室の元に居るかと思ったが、見当外れだったようだ。黒澤は陽が落ちる様子を見ているのか、こちらには目もくれず背を向けたまま。

 一羽の烏が依澄の頭上を駆けてゆく。夕焼けに向かって黒い羽を大きく広げ、夜の知らせを空へ届けていた。赤の空にあてられて淡くオレンジに染まる雲は優しく流れている。

 ふと、"知っている"という思いが思考を満たした。

 夕暮れなんて何処に居たって見れるだろうに、この高い場所からの赤い空は何かが違うと思った。このような位置から見る夕空を、自分は知っている。

 依澄が空に目を奪われていると、黒澤がブレザーのポケットに気怠げに手を突っ込み、ぶっきら棒に声を発した。

 「俺さ、去年の秋から学校来てなかったんだ。もう自称死神から聞いてんのかもしれねえけど、受験生に手ぇ出して、停学処分。まあそれは五日もなかったけどな」

 我に返った依澄は思考を切り替え、口を挟まぬよう、静かに黒澤の話に耳を傾けた。

 「この学校は体裁を気にすんだよ。だから俺が悪い、急に暴れ出すイカれた奴なんだって全責任まる投げ。でも俺だけが悪いんじゃねえ。その受験生は俺と同じクラスだった奴から金を巻き上げてたんだ」

 紅葉が町に彩りを与える頃、黒澤はたまたま昼休みに屋上で友達と昼食をとっていた。雑談をしたりして暇を潰し、予鈴が鳴る前に友達は先に日直やら先生に呼ばれているやらで各々屋上から去っていった。

 屋上は立ち入り禁止というわけでもないのに人の出入りが少なく、黒澤にとって疲れを落とせる場所であった。そろそろ予鈴が鳴ると思い、腰を上げると、同じタイミングで屋上のドアが開く。ガヤガヤと話し声が聞こえ、咄嗟に寝ているふりをした。どうして寝たふりをしてしまったのか自分で疑問に思いながら、黒澤は起きるに起きれず盗み聞きをしてしまった。

 偶然だった。今月金欠なんだよ。金貸して。いつも俺らが仲良くしてやってんだぞ。貸さなかったらどうなるか分かるよな。そんな一方的な会話が耳に入った。

 黒澤が寝ていると本気で思っているのか、それとも会話に夢中で気付いていないのか、とにかく聞いていて胸糞悪い話だ。薄っすらと目を開けて様子を伺うと、同じクラスの本ばかり読んでいる大人しい男子が金をせびられていた。ニヤニヤ気持ちの悪い笑みを浮かべているガタイのいい男子を筆頭に、三、四人が金を貸せと唾を散らしてる。黒澤は起き上がり、今にも暴力を振るわれそうな同じクラスの男子を庇うようにして、間に割って入った。

 最初は口頭だけの注意をするつもりだった。しかし、相手は額に青筋を立て、やがて声を荒らげた。俺らは仲良く話してるだけだ、邪魔するな。そう言って顔を真っ赤にして怒るガタイのいい男子が、手を振り上げる。黒澤は迫り来る拳が当たる前に顔を庇おうと腕を動かした。しかし慣れない事をして緊張したからか、誤って拳を作ってしまい、偶然にも動かした腕がガタイのいい男子の顎に直撃した。派手な音を立てて倒れ、先ほどまで金、金と言って囃し立てていた奴らも黙り込む。そしてまた偶然が重なり、屋上のドアを開けた途端にその様子だけを見てしまった生徒が先生に報告した。

 「そいつらが受験生って知ったのは放課後、生徒指導の先生に呼び出されてからだ。他の先生はみんな俺が悪いと決めつけて停学処分にするべきだって」

 酷い話だろ、と黒澤が力なく笑う。

 死神から聞いていた去年の秋に起きた暴力事件。全容は分からなかったが、黒澤が"加害者"と言っていたため、依澄は黒澤と話す前まで彼が不良だと思っていた。怖くて凶暴で、気に触ることを言おうものなら容赦なく暴力を振るう。そんな非道な人を想像していた。

 「……やっぱり違ったんだね」

 ぽろりと口から落ちた言葉は彼に届かない。

 兄の教室を訪れた時、女性教師と重なり、脳裏を過った光景。黒澤がどうして手を出したのか女性教師に真実を語っていた事と、今彼の口から語られた事は辻褄が合う。

 「この話はまだ終わらねえ……あんたには聞いてほしいんだ。それで、俺はどうするべきだったのか教えてくれよ。年下に情けねえ頼みしてるって分かってるけど、考えても俺じゃ答えが出ねえんだ」

 隠そうとしても滲みでる震えた声には気付かないふりをして、依澄は話を促した。黒澤はまた語り始める。



 生徒指導の先生は黒澤の話を親身になって聞いてくれた。停学処分もどうにか出来るかもしれないと校長にまで話を通し、味方でいてくれた。しかし校長の説得は上手くいかず、黒澤はそのまま停学。学校では黒澤の良くない噂が広まっていった。

 停学明けに学校へ来ると、周りからは白い目で見られた。

 この間の暴力事件、あいつがやったんでしょ。あり得ない。なんで普通に学校に来てんの。殴った相手、三年生だって。うそ、怖すぎ。また誰か殴るんじゃね。マジかよ。あんな奴が同じ学校とか最悪。死ねばいいのに。日に日に悪化する陰口には、仲が良かった友達のものもあった。庇ったあの男子もびくびくと怯えるように視線を寄越してきて、正直、腹の底から憤りを覚えた。

 友達だと言ったのに。庇ってやったのに。何も知らないくせに。そんな不満が募り、次第に学校へ行くのが億劫となった。

 黒澤が学校に行かず自室に籠もる日々が続いたある日、親が外出している時に生徒指導の先生が訪ねてきた。その時は話す気もなく無視を続けていたが、来る日も来る日もしつこく訪ねられては、それまであまり干渉してこなかった親にすら話してみたらどうだと勧められる始末。黒澤は渋々会話することを決めた。

 しかし驚いた事に先生は予想と違い、黒澤に学校へ行く事を強要しなかった。それどころか毎日学校とは関係ない話ばかりしていた。この前スーパーで限定のチョコを買ったとか、人通りの少ない河川敷を通ってみたとか、交差点は人が多すぎるとか、そんなくだらない話題しか出さなかった。

 「一回だけ、何で俺に構うのかって訊いた事がある。毎日飽きもせず俺ん家に押しかけて、一方的に話しかけてきて、何が楽しいんだって。疲れねえのかなって思ったんだ」

 黒澤の言葉に、先生は哀しそうな微笑を浮かべただけだという。

 「その日はちょっと気まずくなっちゃったけど、先生は次の日も来て話をして、また同じ時間に帰って行った。……なんか、恥ずかしいけど、俺、先生が来てくれるのが嬉しくてさ。気付いたら家で先生と雑談する時間が心地良くなってた」

 理由はどうであれ、ただ嬉しかった。友達には信じてもらえず、親には関係ないと切り捨てられそうになっていた自分に、飽きもせず手を差し伸べてくれたのは先生一人だったから。

 「俺は感謝してるんだ。先生が居てくれたから、嫌だった学校にも行こうって思えるようになったし。……でも」

 不意に黒澤が押し黙る。言うか否か躊躇っているというより、言わなくても依澄なら分かっているはずだという空気を感じた。依澄が目を伏せる。黒澤はやっと学校に行こうと気持ちが落ち着いたのに、その後、どうなったのか察したのだ。

 「……自分が死んでるって分かってた。そりゃ最初は混乱もしたし、死神が現れた時は何で俺なんだって思って死んでねえって言い張ったよ」

 だけど本当は知っていた。ただ認めたくなかった。

 認めてしまえば、もう二度と先生と話せない事も自覚してしまう。

 否定を続ければ、また先生と話せるのではないか——そう、信じたかったから。

 どうすれば良かったのだろうと何度繰り返し自問していても、答えは見つからない。

 「なあ、俺、どうするべきだった……?」

 集中していないと聞き取れないようなか細い声で問われ、依澄は訊ねたいこともすっかり忘れたまま、答えに詰まった。


   ✴︎✴︎✴︎


 依澄と黒澤が沈黙の場に居る頃、神代高校を去った死神は夕焼けを黒コートに染み込ませながら、活気を失った河川敷へ訪れていた。普段は自然の音に紛れて遠くからの喧騒が空気を震わせるのだが、今回は違う。

 鮮やかな若草色の芝生の上に、一人の男子高生が携帯電話を片手に座り込み、口笛を吹いて空気を揺らしていた。彼の栗色の髪は夕陽に照らされて微かに華やいで見え、灰色のブレザーを脱ぎ捨てているも、その色は一段と明るい。カッターシャツの襟を通した紺のネクタイは力なく垂れ下がっていた。

 ふと風が吹いて男子高生の髪が揺れる。すると芝生に広がる黒い影も同様に動き、それが間違いなく彼が生者だと物語っていた。

 「……用事は終わったんだ?」

 死神が身動きせず男子高生の傍に立っていると、携帯電話の画面をタップする指と口笛がピタリと止まった。ちらりと見上げながら向けられる彼の瞳には、ほとんど黒一色の死神の姿が明確に映る。

 「ああ。真かは分からぬが、お前からの情報は伝えた」

 夕凪依澄へ己が知り得る情報を伝えた時の事を頭に浮かべて、死神は言った。

 「情報って……堅っ苦しい言い方だなあ。俺はこっそり氷室先生から聞いた話を教えただけだからね? ま、あんたが言ってた女の子の役に立てるなら、俺としては得だけどさ。……マジで紹介してくんねー?」

 男子高生の軽はずみの発言に死神は顔をしかめる。

 「視えるお前には分かるだろう。相手は亡者だ。馬鹿げたことを言うな」

 「つっても俺は触れねえし。死神サンは視えるし触れられるけど、幽霊はほんとダメなんだよ。やっぱ実体がない魂だからかな。たまに見かける可愛い子とも触れ合いたいんだけどね、幽霊だから出来ねーの。だから視るだけ、それなら良いでしょ?」

 「知らぬ」

 期待を込めた視線を受けたが、死神は物怖じせずばっさりと切り捨てた。

 「ひっでーな。そんなに俺と会わせたくないの? 話すだけなのに」

 「信用出来ぬ。お前は愉快犯だからな。我はお前が亡者を払うという名目で金銭を稼いでいることを知っているぞ。我らにしてみれば仕事の邪魔でしかないのだ」

 「まあまあ、そんな怒んなって」

 悪びれもせず笑う彼は芝生に放っていたブレザーを手に取り、立ち上がった。

 「とりあえず今日はもう帰るよ。俺、家からここに来て死神サンの報告待ってただけだから。また何かあったらこれで引き受けるよ」

 そう言いながら、携帯電話を持つ手で器用に人差し指と親指を繋げ、小さな輪を作る。何処までいっても金なのか、と死神は呆れた。

 「冗談はよせ。……お前には、今回世話になった。それに関しては感謝する」

 その言葉に、彼は左耳にイヤホンを挿し込んだところで動きを止めた。

 「……あんた感情ないと思ってたけど、普通にあんじゃん。感謝されるとは思わなかったな。それと俺の名前は"お前"じゃないからね」

 沈みゆく太陽が川面に金色の影を落とす。死神の格好でさえ照らさんとする光を浴びて、砂利の道に伸びるのはたった一つの濃い影。

 「承知している。——織部おりべかおる

 死神は目の前の生者の名を口にする。呼ばれた彼が口角を上げると共に、風が二人の間を吹き抜けた。


   ✴︎✴︎✴︎


 「どうするべきか、私には分からないよ」

 依澄は沈黙の末に辿り着いた自分の結論を、俯き微動だにしない黒澤に向かって、ぼそりと呟いた。

 既に空は暗くなり、不穏なほどに赤かった色も紺碧の色へと変化を見せつつある。影が一層と濃くなった雲は形を変えてゆっくり進行を続ける。夕闇が迫りくると烏の姿も捉えづらくなっていた。

 「……分から、ない?」

 黒澤が囁くように聞き返した。

 「だって、黒澤さんは先生と会って救われたと思ったんでしょ。先生との時間が嬉しいのも、学校に行こうとしたのも——その途中で事故に遭ったのも。全部その時そうしたいと感じて行動した結果で、間違いだとは思わないよ」

 依澄はどう伝えようかと思考を巡らせ、言葉を選ぶ。

 「それとも後悔した? この場所で人を助けようとした事、間違ってたと思う? そうしないと、先生と話す時間もなかったかもしれないんだよ。それでも、良かった?」

 どうか、伝わって。

 「それはっ……い、嫌、だけどよ! んなこと言ったってもう先生と話せねえだろ⁉︎ あの時、間に入った自分が間違ってたって思いたくねえけど! そうするしか……っ」

 そう思わないと、こんな、死んでまで抱え込むことにはならなかっただろうから。

 「どうにかするべきだったんだよ!」

 年下を相手に無茶を言っていると自覚はあった。だが口から勢い任せに出た言葉は、黒澤の本心でもある。どうしたら良いのか答えが出ないから、と八つ当たりをしたいのではない。

 ただ自分は——。



 「黒澤さんまで否定しちゃうのは駄目だよ」



 はっと息を呑んだ音が依澄の耳に届く。こちらへ振り返った黒澤は愕然としていた。

 「どういう意味だ……?」

 「黒澤さんがどうにかするべきだと思うのは自由だけど、先生の気持ちはどうなるの? って意味」

 自分自身が何を思うのかは自由だ。そこに制限はなく、ましてや障害もない……が。

 「毎日のように会いに来てたんだよ。教師っていう仕事は大変なはずなのに、わざわざ学校に来なくなった黒澤さんの元に通っていた。その先生を、貴方が否定するの?」

 黒澤の話を聞いてからずっと思っていた。

 先生が教師という忙しい身でありながら黒澤の元へ訪れ、言葉を交わした日々の中には、きっと世間体を気にしたものも悪意もなかったのだろうと。

 「……」

 目を瞠り絶句する黒澤の拳は強く握られている。

 どうにかしなければと思っていた。何かに取り憑かれたように。深い海に溺れて必死にもがき、息をする方法を探すように。けれど——違ったのか? そう思うことこそ間違いで、的外れだったのか。

 「なんで……気付かなかったんだ……」

 呆然として呟く黒澤の瞳から一筋の涙が溢れた。

 「もっと早く気付いてたら……死んでも直ぐに約束を果たせたかもしれないのに……俺は、逃げた……っ」

 嗚咽交じりの吐露に、依澄はふと昼間の出来事を思い出した。チャイムが鳴って教室のドアが開く前、黒澤は焦ったようにあの場を去った。屋上に戻ると言っていたが、ただ、彼女と顔を合わせるのが怖くなっただけだったのか。

 「……果たせるよ」

 黒澤は泣き濡れた顔を上げて依澄を見遣った。

 「私には何の約束をしたか分からないけど、果たせると思うよ。逃げるのを止めて会いに行けばいいんだ。……会って話すんでしょ」

 陽が落ちた空の彼方で幾許の星が瞬いている。靄のように薄い雲の後ろには三日月が隠されていた。

 夜。それは、人ならざる者の時間。だったら少しくらい良いだろう。

 「でも、相手は俺が視えねえだろ……」

 黒澤は涙の跡を腕で拭い、少し赤くなった目で最もな疑問をぶつける。先程より気持ちが落ち着いたようだ。

 「うん。だから助っ人を呼ぶ」

 何かあれば呼べと言っていた死神が脳裏に浮かぶ。

 「ただその前に、一つだけ訊きたい事があって」

 「……何だ?」

 依澄は途中で頭から離れた疑問を呼び戻し、黒澤へ届ける。

 「貴方が先生とした約束って?」

 脈絡のない質問に目を見開いた黒澤は、次の瞬間、そんな事かと噴き出した。

 「言ってなかったか。俺が学校に行く事だよ。先生は俺に行けって強要しなかったけど、来たくなったら来い、約束だって言ってくれたんだ。だから俺は約束通り、行きたくなってから学校に行って、その時は真っ先に先生に伝えるって決めてた」

 まだ伝えれてねえけど。そんな言葉を、黒澤は呑み込んだ。伝えると決めたのだから、弱気な事は口にしない方が良い。

 「……そっか。じゃあ、早く先生に会って伝えないとね」

 単純な約束だ。しかし事情を知る者として、依澄はとても大切な約束だと思えた。


   5


 「成程。我は少しの間、黒澤蓮をその"先生"とやらに視えるようにすれば良いのだな?」

 黒澤が交わした約束の内容が知れたところで、依澄は死神の名を呼んだ。すぐに来るとは最初から思っていなかったため、死神を待つ間、依澄は黒澤と会話して暇を潰した。

 その会話で分かった事と言えば、黒澤が初対面で刺々しい態度をとった理由の一つが実は年下との接し方が分からなかったからだとか、依澄に全てを話そうと決めたのは、もちろん悩みの答えを知りたかった事も含め、黒澤を恐れず一つ一つの話に耳を傾けてくれたからだとか、そんな事だ。他にも黒澤と約束した先生の名前が氷室である事や黒澤が不良だというのはあくまで噂だと教えてもらった。

 「そう。姿と声がはっきりしなくても、何となく分かるような感じで。……出来る?」

 夜の屋上に集まる三人は作戦会議をするように輪を作る。事情は依澄から死神へ伝えた。黒澤はまだ少し死神相手に気が抜けないのか、警戒気味だ。

 「出来なくはないが……人間や他の者に見つからぬよう、せいぜい二十秒が限度だ。それでも問題ないか」

 「いや、ちょっときついな。俺が誰か理解するまでに、短くても十秒はかかると思うぜ」と黒澤。

 「視えない人からしたら幽霊は怖いだろうし、残り十秒あっても黒澤さんの言葉は届かないかも」と依澄。

 それぞれが思案して首を捻る。すると、数分も経たぬ内に死神がある提案をした。

 「——どうだ?」

 堂々と言う死神に、本当に上手くいくのかと不安を抱いた依澄と黒澤だったが、その後も思考を巡らせてみて名案が浮かばなかったため、釈然としない様子のまま二人は死神の案を呑んだ。


   ✴︎✴︎✴︎


 氷室が勤務を終えたのは夜の七時半を回ってからだった。職員室にまだ教員が少数残る中、氷室は一言断りを入れて神代高校をあとにした。

 校門を出ると電灯や家々の明かりだけが頼りだ。星空が雲で見えなくなった暗い空の下で氷室は帰路に着きながら、隠れてしまった月が顔を出せば少しは明るくなるんじゃないかと何の気なしに考えた。

 周りにはほとんど人が居ない。夜という事もあるが、それ以上にこの辺りで事件が多いからだろう。その事件とは、万引きやひったくりから始め、殺しなどに至るものまである。しかも一番多発しているのは交通事故だ。だからこの地域の人は夜の出歩きが極端に少なくなる。それは大人も子供も関係ない。

 「……交通事故……」

 氷室の脳裏に、ある青年の姿が現れる。神代高校の制服を着た、限りなく赤に近い茶髪の彼。去年の秋、学校である騒動の渦中にいた人物だ。騒動が起きる前も、その後も、彼は周りに迷惑をかけないようにあらゆる点に置いて気を遣っていた。彼が騒動をきっかけに学校へ足を運ばなくなったのは、周りからの批判が親に届かないようにするためもあると、以前言っていたほどに。どちらかと言えば空回ることの方が多かったが、それほど不器用で思いやりの心を持つ繊細な生徒だった。口は少々悪かったが。

 「…………」

 そんな彼が五日前、大きなトラックに轢かれ、命を落とした。

 もう、彼は居ない。この世の何処にも。

 その事実が氷室の心に重くのしかかり、教え子を喪った哀しみから未だに抜け出せずにいる。以前よりやつれ気味だと自覚できるくらい、深く衝撃を受けたのだから。

 氷室は重い足取りで自宅までの道の信号を一つ渡る。その時、前方に栗色の髪を揺らして歩く見知った後ろ姿に気付いた。黒いパーカーを羽織り、そのポケットに片手を突っ込んでいるのが後ろからでも分かった。もう片方の手にはコンビニの袋が握られている。

 「……織部?」

 呼び止めるつもりではなく、ただ確認のように口にしただけだったが、前を歩く足を止めてその人物は振り返った。

 「あれ? 氷室センセーじゃん。偶然だね」

 軽快な口調のまま、笑みを浮かべる。

 「織部はこんな時間にコンビニか? 最近は事故が多いから、気をつけなよ」

 「こんな時間っつっても、まだ八時前だよ? セーフセーフ。あ、もちろん気をつけるから安心して、センセー。……事故は嫌って気持ち、分かるし」

 「……分かるなら早く帰って勉強でもしなさい」

 「それは無理な相談だなー、俺が大人しく帰るわけないじゃん」

 織部は神代高校の生徒であり、氷室の教え子の一人でもある。常日頃から茶化すような態度ばかりでお調子者と評価されているが、授業は真面目に受けるタイプのため、氷室はたまに接し方が分からなくなる。それに彼もまた、氷室と同じように大切な人を亡くしている。氷室の場合は教え子だが、織部は……。

 「氷室センセー」

 二つ目の信号が遠くに見え始めた。確か織部の家はこっち方面だったか、と氷室は歩きつつ、四月に確認した生徒の住所を記した書類を思い出す。

 「聞きたい事があるんだ」

 珍しく真剣な表情と声色で言うものだから、氷室は何事かと身構える。

 「何かな」

 話を促すと、織部は突拍子もない事を言い放った。

 「センセーは幽霊って信じる?」

 一瞬、思考が停止する。

 センセーは幽霊って信じる?

 幽霊って信じる。

 幽霊。

 織部の言葉がぐるぐると頭の中を廻った。

 「……その存在を否定する気はないが……」

 氷室は咄嗟にそう口走る。生徒の言葉を端から否定するわけにはいかない。

 「あ、そう? なら良かった。信じないって真っ向から拒絶されるよりかは楽だね」

 ニイ、と唇を歪めてから、織部は立ち止まった。氷室もそのまま前へ進むわけにはいかず、足を止める。近くで電灯がチカチカと点滅を繰り返す。

 織部は途切れ途切れの灯りの下で、目を細めて言った。

 「もし俺が幽霊になった黒澤クンと話せるって言ったら、センセーはどうする?」


   ✴︎✴︎✴︎


 「どうしようもないだろう」

 死神は自身の提案に対して納得のいかない顔をしている依澄と黒澤を見た。

 「でも……死神さんが言ったように私たち幽霊が視える人なんて、本当に居るの……?」

 依澄は不安を滲ませた声を隠すことなく、問いかける。そして同時に、彼の口から出た提案を頭に思い起こしていた。

 死神が提案した内容はこうだ。顔見知りの生者が居る。その者は死神や幽霊といったものの類が視える希有な人間で、事情を話せば協力してもらえるはずだから、最初はその者に話をつけてもらおう。その後ならば黒澤の言葉も届くだろう、と。

 無茶だと思った。

 依澄は今まで視える人間と出会った事がないし、本当に居たとしても協力してもらえるなんて都合の良い考えだ。そんな作戦で上手くいくはずがない。

 しかし、依澄と黒澤が口を揃えて反論しても死神は大丈夫だと言うばかり。

 「これしか思いつかぬのだ。それとも他に良い案があるのか?」

 そう聞かれれば口を噤むしか他ならない。依澄は黒澤と一緒に不安な面持ちで渋々その提案を呑んだ。



 反対側の歩道の光景をただ眺めていた依澄は、死神の提案に納得せざるを得なかった。

 黒いパーカーを着た栗色の髪の青年。彼が死神の言う『視える者』なのだ。離れた場所に居るため青年と氷室の会話は上手く聞き取れないが、きっと順を追って説明している事だろう。

 依澄と黒澤が神代高校の屋上から此処まで移動している間に、死神は持ち前の力で青年に話をつけに行っていたのだ。素早く、正確に話を通すために。その結果、想像よりもずっと早く事が運べそうだ。何よりも、青年の行動力に感心した。

 黒澤は依澄の横でぼんやりとした目を氷室達に向けていた。何を考えているのか、聞かなくても察する。暫くそっとしておこう。

 「死神さん。あの人はどんな人なの?」

 幽霊や死神が視える人間。生まれつきの体質なのか、そうでないのかも分からないが、もしかしたら自分の未練について相談出来るかもしれない。

 「女好きで、浮ついた振る舞いばかりする人間だ。何かと金銭を求める発言が多い上に、亡者を払うなど戯けた名目で荒稼ぎをしている。……我の仕事を邪魔したことも幾度とあった……!」

 碌な人じゃないな、と依澄は眉根を寄せる。最後はあの死神ですら苛立ちを含む声を出していたのだ。それが如何に死神にとって彼が厄介な存在なのかを物語っている。

 依澄は先ほどの期待を抱いて考えた事を頭の外へ追いやった。

 「それはご愁傷様な事で。っていうか珍しいね。死神さんが苛立ってるとこ初めて見た」

 「茶化すな。我にも感情はある。別段、珍しい事ではなかろう」

 いつも無感情な表情と声色のくせに何を言うか。

 ジトッとした目で死神を見つめる。すると死神は「そろそろ行くぞ」と話をすり替えた。依澄はそれに返事をしてから黒澤に向き直る。

 「黒澤さん、心の準備はどう?」

 依澄は死神との会話にも入ってこなかった黒澤の様子を伺った。

 「だ、大丈夫だ」

 そう言う黒澤の声は頼りなく、心なしか緊張しているようにも見える。

 そりゃそうか、と腑に落ちた。

 約束した人と会いたい、話がしたいと、ずっと焦がれるように想い続けていたのだ。約束を守ったと言えるよう、あの屋上で。

 それが今、報われるのだ。


   ✴︎✴︎✴︎


 氷室は織部の話を半信半疑で聞いていた。

 幽霊になった黒澤と話せる。そう言った織部の口から、次々と信じ難い言葉が発されたのだ。

 小さい頃から織部には幽霊とか、そういった類のものが視える。これまで何度も命を落とした人の姿を見た。周りには視えず、両親でさえ「視える」と言った自分の言葉を信じてくれなかったが、嫌でも目に映る亡くなった人達は確かに"存在"している。織部にとってそれらはもう日常の一部だ。

 だから織部は視えた。五日前に交通事故で亡くなった黒澤の姿を。黒澤は氷室に会いたいと——話したいと、言っている。

 「それ、を……信じろって……言うのか?」

 戸惑い、疑問、怒り、期待。色々な感情が入り混じった状態で、氷室は呟いた。

 幽霊の存在を否定する気はなかった。だが、こんな雲を掴むような話が信じられるだろうか。黒澤は幽霊になって、織部にはそれが視えて、しかも、黒澤は氷室と話したいと言っている、だと? 人を揶揄っているのか。だとしたら腹立たしい事だが、そうでないなら……。

 「信じてもらわないと困るな。俺はそのためにわざわざこんな時間に出歩いてるんだしさ。あり得ないって思うのも分かるけど、そんなありきたりな言葉で黒澤クンの気持ちを切り捨てないでね。……俺を信じなくても良い。でも黒澤クンの事は認めて、信じてやったら? センセーなら出来るでしょ。あんただけが、味方だったから」

 こちらを真っ直ぐと見据える瞳に、普段はペラペラと無駄に饒舌な口から吐かれる、熱の籠った言葉の数々。

 ——ああ、この子は本当の事を言っている。氷室の直感がそう主張した。

 「……黒澤クンの望みは、氷室センセーと会って言葉を交わすこと。だからちゃんと話して、黒澤クンの言葉を受け取ってあげなよ」

 織部が告げた時、ひやりと冷たい風が頬を撫でた。何だか懐かしい匂いがする。

 一つ、瞬きをした。目の前には笑っている織部が居る。しかしその視線は氷室の後ろに注がれていて——

 「——氷室先生」

 背後からの呼び声に勢い良く振り返る。自身の黒い髪がふわっと宙を舞い、無抵抗に元に戻っていった。

 「……黒澤……?」

 本当に現実なのかと目を疑う。信じられない。だが、信じたかった。

 死んだはずの人間が目の前に居る事への恐怖は抱かない。それどころかまた姿を見れて嬉しかった。そして何より、今だけしか話せないと感じた。

 黒澤が泣くまいと笑顔を保つ。

 「なあ、氷室先生。約束覚えてるか?」

 「……うん、覚えてるよ」

 一週間も経っていないのに懐かしく感じる声に、涙が零れるのを堪えて。織部の言うように、しっかりと受け取らなければ。

 「学校に行こうとしない俺に『来たくなったら来い、約束だ』って言っただろ。俺、事故に遭ったけど行こうとしたよ。先生との約束を守るために、行きたくなったから外に出た!」

 「うん」

 約束を守ろうとしてくれていた。だから黒澤は制服の姿で事故に遭ったのか。今更ながら気付いた事実と同時に、視界が滲んでくる。

 「嬉しかったんだ! 周りが信じられなくなってた俺に寄り添ってくれた事、それが氷室先生だった事、先生が居る学校に行きたいって思えた事! 全部嬉しくて、生きてる時に約束守ったぞって言いたかった‼︎」

 「うん……っ」

 涙で朧げな視界の中、懸命に伝えようと声を張る教え子の姿が見えた。泣かないようにと保っていた黒澤の笑顔は崩れ、その瞳からは幾粒の雫が溢れ出す。

 「私も嬉しいよ。君とまた会って話が出来るなんて、思ってもみなかったから……! 約束を守ってくれてありがとう……!」

 鼻の奥がつんとする。震えそうな声を堪えて、涙声になりながらも、氷室は黒澤の前で泣くまいと我慢する。

 ——その時だ。黒澤の身体が手足の先から徐々に色を失い始めた。

 はっとした。氷室自身が視えなくなっていく事に気付く。

 「あ……悪い、先生。もう時間が来たみたいだ」

 泣き笑いを浮かべる黒澤の顔は憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとしていた。

 「いいよ……謝らないで。ここでお別れだね」

 最後まで踏ん張って零れなかった涙が限界だと叫んでいる。けれど、黒澤には笑顔で別れを告げたかった。

 「さようなら」

 その一言に氷室は想いを込めた。

 「ありがとう、先生」

 最後の最後で、黒澤が最も伝えたかった言葉を届けた。その一言には氷室と同じくらいの想いが詰まっている。氷室はそれを受け取り、黒澤が救われたあの日ように、暖かく優しい色の笑みを浮かべるのだろう。

 黒澤はそれが分かれば十分だと、氷室の目から消えゆく自分の姿を見た。

 彼女の目にはもう二度と、自分の姿は映らない。けれどそれで良いと思う。今を生きる者と今は亡き者の距離は、本来こうであるべきなのだ。

 黒澤がそう考えた刹那、氷室の目から自分の姿が完全に消えた。


   6


 黒澤が視えなくなって、氷室は静かに涙を流した。目の前に黒澤は居る。しかし彼女にはもうその存在を確認する事が出来なくなっていた。

 依澄は少し離れた場所でこれまでの出来事を静観していた。黒澤が気持ちを届けている時に邪魔にならないようという細やかな配慮だ。

 「これで良かったのか」

 死神は黒澤が時間内に全てを伝えられたのかどうか気になるようだ。黒澤も氷室も泣いているため、この作戦が成功したのか知りたそうな表情を見せた。

 「うん。二人とも泣いてるけど、あれは悲しいだけの涙じゃないから。……これで良かったんだよ」

 「……そうか。夕凪依澄が言うならそうなのであろうな。今回の件は助かった。感謝する」

 さらりと言った死神に、信用し過ぎてやいないかと苦笑する。ただ、死神からそんな言葉が聞けるのは素直に嬉しい。

 「——先生、あんたと出会えて良かった。もう話せねえけど、こうやって先生に泣いてもらえんなら、死んだのも悪くねえって思う自分がいるんだ」

 ふと黒澤が氷室の髪を撫でるように手をかざした。その手は透けていて直接触れることはなかったが、氷室はそれを感じ取ったのか、黒澤の手に自身の手を重ねた。

 「……っ」

 黒澤の涙はもう止まっていた。対して氷室は涙を流し続けている。

 「全部……全部、あんたのおかげだ」

 黒澤がそう言った時、氷室は笑った。

 優しく暖かい教師の顔。その中に、無邪気な少女の微笑みを見た気がした。



 その後、氷室は織部に帰宅を促し、その場を去った。

 生徒の前で泣いた事に羞恥心を感じたのか否か、少し顔を赤らめていたが、織部は揶揄わなかった。ただ一言、黒澤クンも喜ぶと呟いていた。

 「死神。俺を連れていってくれ。もうこの世に未練はねえ」

  黒澤は赤くなった目のまま、決意に満ちた表情を死神に向けた。

 「夕凪も。色々と助かった、ありがとな。まあお前も未練が思い出せないからって気落ちすんなよ。その内思い出すだろ」

 「あっ、それ言っちゃ駄目……!」

 慌てて黒澤の口を塞ぐが、時すでに遅し。死神は鋭い眼光で依澄を射抜いた。

 「未練が思い出せないだと?」

 「ああぁ……」

 思わぬところからバレてしまった。黒澤さんめ、と恨めしい視線を投げかける。そうしてようやく「未練を思い出せない」というのが禁句だと気付いたようだ。悪い、と手を合わせて黒澤は謝罪した。

 「その話は後で、詳しく、聞かせてもらうぞ。まずは黒澤蓮を連れて行かねばならぬからな。明日、いつもの河川敷に居ろ。いいな?」

 「はーい……」

 怒られるんだろうなあ、と遠い目をしていると、黒澤がこそっと耳打ちした。

 「夕凪の言ってた、"約束はしてないけど、仕事で会いに来てくれる"ってやつ、もしかして死神の事か?」

 思わずばっと振り向くと、図星か、と口の端を上げる黒澤。文句を言ってやろうかと考えたが、依澄は口を結んだ。黒澤とも、もうお別れだ。

 「私のことは良いんだよ。それより黒澤さん。……バイバイ」

 黒澤は虚を突かれたように目を丸くし、くしゃっと依澄の頭を撫でた。

 「ああ、ここでさよならだ。お前もさっさと未練果たして、こっち来いよ。俺たち幽霊には期限ってのがあんだから」

 「うん。……分かってる」

 そうか、と笑うと黒澤は一歩引いた位置にいる織部に礼を言って、死神と共に姿を消した。

 死神から頼まれた案件はこれでおしまい。依澄はまた未練探しをしなければならない。しかし黒澤の未練に関わる中で、一つ判った事がある。

 自分の死因についてだ。

 黒澤が自分の身に起こったことを語ってくれた時、やけに赤すぎる夕空を眺めていて気付いたのだ。自分はこの空を知っていると。

 そして思い出した。

 自分が赤い空の下で風の抵抗を一身に受け、地面に落ちていく瞬間を。

 そこまで思い出せば十分だった。高い場所からの転落死。それが依澄の死因だ。



 「依澄ちゃん……?」

 風に乗って耳に届いたその声は、長らく口を閉ざしていた織部から発されたものだった。

 「どうして名前を……」

 まだ名乗っていないはずだ。それ以前に一言も話していない。

 思わず怪訝な視線を向けると、織部は少しだけ傷ついたような顔をした。

 「そっか……俺の事、覚えてるわけないか。俺は君に酷い事をしたんだから、思い出したくもねえよな……」

 「何を言って……?」

 織部は俯いて、唇を噛み締めた。

 「依澄ちゃん。織部郁って名前に聞き覚えないなら、今、ここで覚えて。そんで思い出してよ。俺の事。それが君のためになる」

 わけが分からない。初対面の人に自分の名前を知られている上に、"思い出して"と言われ、そしてそれが依澄のためになる? 理解に苦しむ。

 「君の記憶に俺が居ないなら、未練以外にも忘れてるもんがあるっつーことだろ。例えば……死ぬ直前の記憶、とか」

 ドキッとした。確かに彼の言う通り、直前の記憶は一切思い出せない。今、やっと死の瞬間を思い出しただけだ。それ以外は何も手がかりがない。

 「どうして分かるの? 私は何も言ってないのに」

 「そりゃ分かるよ。一週間だけだったけど夕方までずっと話してたんだから」

 「一週間?」

 まるで依澄と織部は前から知り合いだったかのような言い草だ。

 「とにかく、恨んでいいから、呪ってもいいから、聞いて」

 こちらの問いなど耳に入っていないような、そんな一方的な会話をさせられる。一体何者なのかと訊ねたかったが、織部はきっと聞く耳を持たないだろう。それほどまでに言葉を伝えようと必死なのだ。依澄は渋々口を閉ざして、織部がどう出るか探るように見つめた。

 しかしそんな依澄の考えは、次の瞬間、大きな音を立てて砕け散る事となる。



 「俺が、君を殺したんだ」



 ——それはまるで、輝くようなガラス玉が瞬きの間に割れたような、そんな感覚だった。


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