雨ふる夕暮れ

凩玲依

序章 月明かり

 五月二十日。

 満月が暗い夜道を照らす。交差点には人通りが少なく、逆に多くの自動車が四方に行き交っていた。しかしそれと相反して、月明かりだけで明るさを保ち、人っ子一人居ない河川敷がその街にはあった。

 「そろそろ時間だと、何度言えば分かるのだ」

 重々しい声と共に静かに暗闇から姿を現した者は、依澄いずみの前に立つ。その者は黒いコートに身を包み、手には白くて小綺麗な手袋が付けられている。フードで目元を隠していて顔全体は見えないものの、彼が冷たい表情をしているのは一目で分かった。

 「さあ、何度だろうね。私も分からない」

 夜空に目を向けたまま、依澄は彼に言葉を返す。

 「気付いていないとは言わせぬぞ。お前のその身体、もう壊れかけているじゃないか」

 依澄は夜空から視線を外し、自分の身体を目に映した。

 何かおかしいところがあるだろうかと首を捻り、そして気付く。彼女の身体の一部が半透明ではなくなっている事に。

 しかし依澄はおちゃらけた様子でそれには触れず、分かりきった事を口にした。

 「透けてるよ、いつも通り」

 「そこではない」

 彼が呆れたという風に頭を抑えた。

 「お前が半透明という事は初めから分かっている。我が言いたいのは、その足だ」

 物の見事に指摘され、再度依澄は自身の姿を目に映す。

 「時間が迫って来てるって知らせてくれたのかな」

 そう言って笑う彼女の足は、色を失っていた。足首から上はまだ消えていないが、この身体がなくなるのも時間の問題だ。

 「お前はいつまで此処に居るつもりだ。時間がないと理解しているなら、さっさと未練を絶ち切り、去るべきだ。我も暇ではない。ギリギリまで居るというのなら、力づくでも連れていくぞ」

 フードの下から覗くその瞳は、とても冷たく生気が感じられない。だが依澄はそんな彼に返事もせず、また笑みを浮かべて話を逸らす。

 「ああ、そうそう。知ってる? 街で有名なあの大きな木あるでしょ。あれがもうじき来る台風で倒れたら危ないからって撤去される事になったんだよ。酷いよね、木にだって命はあるのに」

 「話を聞いていたか。我は今お前の話を——」

 言いかけて、彼が口をつぐむ。

 「どうしたの。急に黙っちゃって」

 彼の様子に依澄は驚き、そっと伺うように近寄った。

 足が消えかけても歩いている感覚は以前と変わらないらしい。だが端から見ればそれは宙をすーっと浮いて移動しているようにしか見えない。

 依澄はそれに対してもやや驚きを見せつつ、フードで隠れた彼の顔を覗き込もうとした。

 「心配は無用だ」

 と、彼がそれを手で制し、さらに言葉を続ける。

 「言っただろう。我は暇ではないと。……仕事が出来た、また来る」

 仕事と聞いて依澄はああ、と納得の声を漏らした。

 「また死者が出たんだ? 大変だね、貴方たち死神も」

 軽く言ってのける依澄に死神と称された彼は顔を険しくする。そして淡々と、ただし空気に圧をかけるように、彼女の名を呼んだ。

 「夕凪依澄。お前だって我に——死神に迷惑をかける死者だろう」

 それだけ言い残して、彼の姿は闇夜に溶けていった。

 河川敷に一人取り残された依澄を嘲笑うかのように、満月がより一層光を放つ。

 「…………違いない」

 そう呟いた刹那、一陣の風が吹き抜けた。大きな緑が生い茂る土手もざわざわと騒ぎ出す。しかしそれでなびく黒髪も中学の制服も、彼女にとっては既に過去の体感である。

 そう。依澄は生きていない。

 半透明な身体に、消えかけている足。そんな人の目にも映らない彼女は、幽霊と呼ばれる者の類であり、自分自身それを理解しているのだった。

 そして先ほど居た彼は言うまでもなく、『死神』である。

 死神は死者の魂をあの世と云われる場所に案内する。けれど時折居るのだ。未練が強過ぎて、魂がこの世に留まる者が。それらを死神は『亡者』と称すが、依澄にとって幽霊も亡者も同じ意味である。

 しかし——依澄は自分が何の未練を持っているのか分からないのであった。

 未練を絶ち切り去るべきだと言われたが、その『未練』が分からなければ自分でもどうしようもない。だから依澄はいつもその話題がのぼった時、どう反応して良いか分からず話を逸らしてしまう。

 生前は基本的に笑顔でいれば何とかなっていた。だから死んだ後も笑顔でいようと、そう思った。けれど死神にはそれが通じなくて、依澄はいよいよ本当の事を話すべきかと悩んでいた。

 だが彼とこうして話す事が出来るのは、幽霊であるからだ。本当の事を言えば、きっと強制的にでもあの世へ連れていかれる。そうするともう彼と軽口を叩く事も出来ないのだ。

 それは嫌だと、依澄は顔をしかめた。

 これは決して恋愛感情ではない。ただ、独り彷徨っていたとき声をかけたのが彼だったという事や、自分を認識出来るのは死神である彼だけだという事が大きいからだ。

 要するに依澄は独りになりたくないのだと思う。自分でも子供っぽい理由だと失笑してしまうが、事実そう思うのだから致し方ない。強制的にあの世へ逝くのは気が引けるし、そこに何が待っているか分からない状況では、自分の未練を自覚する必要があった。

 そうなのだ。

 「未練さえ、分かれば……」

 不意に焦燥感に駆られて、依澄から表情が抜け落ちる。

 時間はあまり残されていない。そして時を遡る事など出来やしない。だとすれば、そろそろ行動するべきか。

 依澄は再び夜空へと目を向けた。

 月が雲に隠れ、その場には影が落とされる。そんな闇に包まれるように依澄は、音も無く静かに動き出した。

 無論、彼女を目撃した生者は一人も居ない。

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