第19話 朗人、怒りと言う名の拳
エレベーター階数を示す表示が「8」に変り、銀色をしたドアが重そうな音を立てて開く。アキの目に映ったのはエレベーターから続く長い廊下。そして、その中央にポツリと落ちているカラフルな布切れ。
それが小さめのフェイスタオルだと分かった瞬間、アキはエレベーターを飛び出し、全力で駆け出していた。
「ハナのタオルだ」
アキはそれを拾い上げると両端をつまみ絵柄を確認する。
「間違いない。ハナのお気に入りのタオルだ! 」
アニメキャラクターが円環に並ぶように描かれたハンカチ大のタオル。マイナーなアニメであった為、既に放送は終了してしまっているが、ハナはそのアニメをえらく気に入っていて、グッズもかなりの数を取り揃えていた。その中でもこのタオルは一番のお気に入りでどこへ行くにも必ず持ち歩いていた。
「そのタオルがどうかしたのか? 」
震えるアキを見て、尋ねずにはいられなかったのだろう。館山さんがそう声を掛けて来た。
「姉が‥‥‥ ハナがこの建物のどこかにいます。これは姉の持ち物で間違いありません」
「姉? ‥‥‥ それは、どういう意 『館山さん、さっきは凄かったんだよっ! 』
館山さんが大きな身体を屈め、アキに尋ねた時、背後から女性の声がした。
振り向くとそこには杖をついた老婆とその影に隠れるように立っている五歳くらいの女の子の姿。
「森町のお婆さん、何を見たんですか? 」
「見たも何もあたしゃ、一部始終をぜーんぶ、覗いてたんだよ。そりゃ凄かったんだから」
「何があったんです? 森町さん」
「そりゃあ、凄かったんだよぉ。ワォーンで、ブワーで、ドーンってさ」
館山さんと森町のお婆さんと呼ばれた女性は旧知なのか会話の距離が近い。だが、それが災いしてか会話が中々進んで行かない。
「お兄ちゃんによく似た女の子が、汚い髪の男の人とすごく綺麗な女の人に無理やりエレベーターに乗せられてた。ワンちゃんはそれを助けようとすっごく頑張ってた」
老婆の後ろに隠れていた女の子がおずおずと語りだす。
「それで、その女の子と犬は? 」
アキは視線を高さを女の子に合わし尋ねた。
「女の子はぐったりしちゃってエレベーターで下に降りてった。ワンちゃんは階段でそれを追いかけ‥‥‥
「ありがとう! 」
アキは女の子の言葉が終わるのを待たず、階段で下へと向かい駆け出した。
――― すれ違いだっ!
階段を駆け下りながらアキは心の中でそう呟いた。だが、そのタイムラグはガオの咆哮を聞いたタイミングから考えても一分以内。
「追いつける‥‥‥ 待ってろよ、ハナっ! 」
階段を三段飛ばしで下ってゆく、昨日やられた傷の影響で身体のキレが悪く、スピードが思ったように出せない。焦りからか膝や足首も柔らかく使えず動きにも無駄がある。
六階、五階と下り、四階まで下りきった所でアキは踊り場の手すりに左手をつき、階段を跨ぐようにその身体を飛び上がらせた。
「パルクールの階段下りだ」
相互にジグザグを描くビルの階段、正式名称、折り返し階段はその構造上、必ず中央に空間と手すりが存在する。その為、そこを
着地は二十センチも無い階段の
階段の中央部で舞い続けるようにも見えるその行為の四回目を終えた時、アキの両足は玄関フロントの大理石を捉えていた。目の前には玄関の透明な自動ドア。そして、その向こう側に見えるフラフラと立ち上がろうとしている金髪の男。だが、ハナの姿は見当たらない。
「ハナを何処へやった! 」
叫び声をあげながら、内側からだとあっさりと開く自動ドアを潜り抜け、アキは金髪の男・
「あの、片割れのガキかっ!? 」
梶の視線に鋭さが宿り、こちらに敵意を向けて来たのが分かった。だが、梶は既に何かダメージを負っているのか、少しふらついているように見える。
「ハナを返せ!」
「また昨日みたいに痛い目に会いたいみてぇだな」
脳裏に過ぎる、昨夜一方的にやられた情景。そして、恐怖。
「父さん、オレに力を貸してくれ!」
アキは幼き日、亡き父から教わったケンカの技を思い起こす。
――― 『朗人、まずは相手の目の前で、ワザとらしいくらいの大きな音を立てて、足を強く踏み込め! 』
アキが強く踏み込んだアスファルトが大きく音を立てた。目の前には梶の顔。その視線が足元で起きた踏み込み音に反応し、僅かに下に動いた。
―――『人ってのは、視界の外で大きな音が起きると一瞬だが、必ず反射でそれに何らかの反応を示してしまう。その隙を狙って相手の頭を左右の掌で挟み込むようにして、両耳を
動いた視線の外側からアキは両方の掌で梶の両耳を思いっきり叩いた。梶から呻き声があがる。
―――『両耳を強く叩かれると人は鼓膜への衝撃で身体が固くなり、一瞬だが動けなくなる。今度はその隙を利用しろ! 相手の耳を叩いた掌の位置は極力動かさず、髪を掴め! 髪の無い奴なら耳でいい。髪や耳を掴むって行為は、動きを抑制させる絶対的な
梶の乱れた金髪をアキは左右両の手で毟り取るほどの力を入れて握り込む。髪の脂なのか、ベタついた感触が指先に纏わり付きそれにイラつきを覚えた。
―――『髪を掴んだら、次は相手の鼻っ柱目掛けて、自分の額を思いっきり打ちつけろっ! 人間の骨で最も硬いのは頭で一番脆いのは鼻だ。鼻を打たれた人間は必ずある行動をとる』
掴んだ髪を引っ張るようにしてアキは自分の全体重を乗せた頭突きを梶の顔面中央に叩き込んだ。当たった瞬間、頭蓋を突き抜ける鈍い衝撃と額にぐにゃりとした感触が伝わってきた。目の前が眩むと同時に、梶から大きな悲鳴があがった。
―――『人は顔に強い衝撃を受けると、必ずそこを手で押さえ、前屈みになる。当然、視界は、ほぼゼロだ。最後は相手が顔を押さえにいった手首を掴み、重心が前に寄っているのを利用して、担ぐように投げ飛ばせ! 』
アキは鼻から流れる血を押さえている梶の手首を掴むと腰を回転させ、力任せに前へと投げ飛ばした。
「っっがっ!」
素人の背負い投げであった為であろう、歪な形で殿部と太腿をアスファルトに打ち付けた梶は苦しそうに呻いている。
「ハナはどこだ! 」
「し、知らねえよ」
明らかなウソ。怒りが湧きあがったアキは左手で梶の襟首を掴むと自身に引き寄せ、右手の拳を握り込んだ。
「ちくしょう‥‥‥ あの犬に腰をやられてなければ、てめえなんぞに‥‥‥ 」
負け惜しみをぶやく梶の着ているシャツの襟近辺が刃物で裂いたように切り刻まれている事に気がつく。加えてその傍には昨日電撃を喰らったスタンガンが粉々になって砕け転がっていた。
「ガオだ…… 」
切り裂かれたシャツも砕けたスタンガンもガオの行為によるものである事は直ぐに分かった。そして、そのガオは既に何処かに連れ去られたであろうハナを追い始めているのも断言が出来る。
「伊多クン、大丈夫か? 」
声を掛けられ、振り向くとそこには館山さんの姿。その後ろにはケンカ騒ぎを聞きつけた多くの野次馬。アキは掴んでいた梶の襟首から手を放すと、ひとつ息をついた。
「自分は問題ありません。だけど、直ぐに追いかけねばなりません」
アキの言葉に館山さんは、少しの間、沈黙をするとゆっくりと口を開く。
「キミが追いかけているのは、ひょっとするとさっき言っていた“お姉さん”の事かい? 」
「…… はい」
厄介ごとに首を突っ込み続けてきたという事は修羅場を潜り抜けて来たと同義だ。断片的な情報でアキが置かれている状況を推測できてもおかしくはないだろう。
「姉は…… ハナはこの男に連れ去られていました。自分はそれを追ってここまで来ました。ですが…… 今度はどこに行ったかは分かりません」
首筋の感覚はケンカの興奮からか、酷く曖昧なモノになっており、ハナとの距離はおろか、状態も感じ取ることが出来ない。
「キミのお姉さん、ハナさんは『心と身体と健康と食事』の車に乗せられて、運ばれたんだと思う」
館山さんのその言葉にアキは辺りを見回す。確かに少し前まで停まっていた『心と身体と健康と食事』の黄色い車の姿が見当たらない。
「『心と身体と健康と食事』はあまりいい噂を聞かない集団だ。ボクの店にも何度か取引を申し込んで来たから調べた事もあるんだが、法人格を持っていないのに規模をドンドン拡張しているうえ、事業体の割には資金があり過ぎる。そのうえ、自己啓発セミナーを開いたり、お年寄り相手に認可されていないサプリや産地不明の野菜を高額で販売したりしている。はっきり言って胡散臭い連中だ」
最近よく見聞きするようになった『心と身体と健康と食事』。WebTuberを起用した動画サイトでのCMやポジティブとスピリチュアルを混ぜ合わせた独特の神秘論『ポジチュアル』は、アキたち学生の間でも「ととと」の語感の良い名称と共に何かと話題に上がる。そして、何故か祖父が毛嫌いしている団体でもあった。
まるで目的の見えないその行為。アキの背筋に冷たい汗が流れる。
「ボクの記憶だとあいつらの本拠地は松田町の
淡々とそう告げる館山さんの視線はアキを見据えている。
言葉は続いた。
「急いでいるんだろ? ココはボクに任せて早く行くんだ」
館山さんが親指で指す後ろには、ぐったりと首を下げガードレールに凭れる梶とたくさんの野次馬。アキはその言葉と周りの状況に館山さんを完全に巻き込んでしまった事を思い知る。
「でも、きっと警察も来ます。だったら自分が…… 」
「言っただろ? 厄介ごとに首を突っ込むのはボクの趣味だって。自慢じゃないが、警察の対応にはキミより遥かに慣れてる。問題は無いさ」
アキが続けようとした言葉を遮るようにそう話した館山さんはドレッドヘアーをかき上げ、ウィンクをして見せた。
「ありがとうございます」
「任せておいてくれ」
遠くからパトカーのサイレンの音。誰かが通報したのだろう。館山さんの表情に厳しさが宿る。
「早く行けっ! 」
そう背を向けたドレッドヘアーの大男に向かいアキはもう一度深く頭を下げると、停めておいた自転車に向かい全力で駆けだした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます