第18話 ガオ、野生という名の牙

 階段の踊り場から踊り場へ―――

 ガオは階段の壁にその身を擦り上げる程の速度で階段を降り続けていた。コンクリートの床を全力で何度も蹴り続けていた為か、爪にキリキリとした痛みが走る。昨日ケガを負った脇腹がまた熱を持ち始め、その重さが呼吸を荒くしていた。

 それでも尚、走り続けるガオの鼻腔に届いた新たな匂い。


 ――― 朗人だ


 朗人も英子を救う為、ここまで辿り着いたのだ。それが分かったガオの血が、そして身体が熱量を纏う。

 外から何やら騒がしい声が聞こえてきた。あの男の声だ。ガオは視線を上げる。そこに見えたもの、それは閉じ忘れた二階踊り場の窓。それを目視したガオは、三階階段から駈け下りて来た勢いをそのままに、その窓へと飛びこんだ。


 二階から地上へ。ガオの飛翔。

 毛並みから風を切る感触が伝わってくる。経験の無い高さから降下する事の興奮で尾と耳が逆立ち、身体が猛けている事を教えてくれていた。眼下には男によって黄色い車に押し込められる英子の姿。怒りによりガオの全身の毛が総毛立つ。

 ガオは地面に降りる寸前の中空で身体を弛緩させた。何度か跳躍・飛翔して学んだ事だが、着地の際には身体を固くし踏ん張るのではなく、滑らせる、あるいは転がる様にして勢いを殺す方が次の動作に移りやすい。既にその事は身体が理解していた。そして、それらはガオの身体が猟犬としての本来の能力を開花させようとしている兆しでもあった。

 

 六メートル程の高さから地上への着地。

 歩道の上で自身の身体を横に滑るように回転させ勢いを殺してゆく。今までよりは遥かにダメージの無い着地だ。そして、空から飛び降りた勢いが無くなる寸前、ガオは身体を起こし、目の前で驚きの表情を浮かべる男に向かい飛び掛かった。ひとつひとつの動きを点で行うのはなく、線で繋ぎ動きに隙を作らない。これも猟犬としての本来の能力だ。狙いは男が腰に下げている革製の小さな鞄。


 中型犬の噛む力は犬種にもよるが、百二十キログラムから百五十キログラムと言われている。これは成人男性のおよそ四倍。エネルギー換算上で言えば、犬は小さな相撲取りなら咥えたまま持ち上げる事すら可能な咬合力こうごうりょくを持っている。犬が本気で牙を突き立てたら、人間程度ではまず逃れる事は出来ない。


 ――― この男の向こうに英子がいる!


 鞄の奥深くに牙を喰い込ませたガオは首と足に力にあらん限りの力を込め、男を自身の方に引き寄せた。


「うおっっ‼‼‼ 」

 間抜けな声をあげた男は足を掛けていた車から転げ落ちて、アスファルトに腰を打ち付けていた。ガオが黄色い車に乗り込もうと四肢に力を入れた瞬間、そのスライドドアは容赦なく閉じられた。


「あなたがここで犠牲になるのはで決まっていた事よ。さぁ、本社へ向かいましょう。駿河さん、車を出して」

「はい、美愛さま」

「美愛! 待ってくれっ!」

 車からの会話に男は情けない声をあげながら救いを求め手を伸ばしている。その手を無視するかのように掛かるエンジン。黄色い車はディーゼルの臭いをまき散らしながら走り去ってしまった。


「‥‥‥ ウソだろ? 」

 呆然とした表情でそう洩らす男にガオは強い怒りを覚えたが、今は優先すべきが何かは良く分かっていた。


「ふざけやがって、置いてけぼりかよぉ。しかもこんなヤバそうな犬、どうすんだよ」

 ガオはぶつぶつと独り言をつぶやく男に背を向け、黄色い車を追う為、四肢に力を込めた。そして、その直後に感じた背後の殺気。


「てめえのせいだぁあああ」

 右手に自分やハナを昏倒させた機械を握り飛びかかってくる男。ガオは男の手に握られた機械目掛け飛び掛かるとソレに牙を突き立てた。歯や舌にビリビリとした苦みが走ったが、ガオはそれを無視して機械を一気に噛み砕き、大地に吐き捨てる。


「ヒッィィィ」

 両手で顔を覆う男は後ろ歩きで逃げだそうとしていた。ガオはすべての生物の弱点でもある喉を見据える。男の喉を。

 同じ生物という事なのだろう。ガオの殺意を感じ取った男は顔色を無くしていた。ガオはノーモーションで男に向かって飛び掛かった。狙いは喉元。正確に言えば喉元ではだけている男のシャツ。ガオは犬歯にシャツだけを引っ掛け、軽く顎を引く。細かく裂けて行く男のシャツ。


 ガオは強く喉を鳴らした。


 その行為はガオから男への『英子の身に何かあれば、地の果てまでも追いかけ、その喉を噛み切る』との警告であり、また、もうじきここに辿り着くであろう朗人へのメッセージでもあった。


「‥‥‥ ツツ」

 喉元横に牙を突き立てられた男は悲鳴すらあげらず、息を呑んだままの状態で腰砕けとなってとなっていた。ガオはその男を見下みくだすように一度だけ視線を落とす。


「ひぃぃい」

 男はまだ余力が残っているのか、ガオの隙ばかりを窺っている。おそらくは逃げ出すタイミングを計っているのだろう。

 匂いから朗人がすぐそこまで来ている事は分かっていた。だとすれば、この男へのケリをつけるのは自分ではない。そう感じたガオは、黄色い車と女、そして英子の匂いを辿り北西へ向かい走りだした。

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