第20話 ガオ、追走、そして人間を見ゆ

 追う相手は影も形も見えない。だが、ガオは捉えていた黄色い車が出すディーゼルガスと植物の強い臭いを。そして理解していた、そのふたつの臭いが重なる大気の流れの向こうに英子がいる事を。


「あっ! ワンちゃんだ」

「駄目よ、彩音。野良犬に近寄っちゃ! 噛まれでもしたら大変よ」

「あのワンちゃん、野良犬なの? 」

「汚れているし、おまけに首輪もしていないでしょ? 」

「ホントだぁ」

「全く、あんな大きな犬を捨てるなんて、飼い主は何を考えているのかしら」

 通り過ぎる道で交わされている親子の会話。

 雨上がりの河に飛び込み、尚且つ、走り回ったのだ。本来は鋼のようにせり立つ赤茶の毛並も今は鈍色にびいろへと染まり、しな垂れている。おまけに身体は傷だらけだ。見るものには異様な印象を与えているだろう。


 異物を見る様な人間の目。異質な存在を嫌悪する人間の反応。

 それは他の生物から見れば過剰な思考力を持ってしまった生物としての退あかしで、種の本能の隙間に入り込んだ余剰な感覚だ。


 そして、その生物としての余剰な感覚を持たぬガオの本能が警戒を告げた。

 逆立つ全身の毛。ガオは立ち止まりその圧力プレッシャーの元を見つめる。道路脇に停まる二台の車輛。一台は灰色で、もう一台は白と黒の二色。


「いたぞっ! あの犬だ」

「首輪なしの錆色さびいろの中型犬、身体のあちこちには傷。通報にあった通りだ」

「ありゃあ、北海道犬だぞ! 」

「カンの良い犬だ。こっちが捕まえに来たのを分かって立ち止まりやがった」

「警察の方は下手に近寄らず、我々保健局の者に任せて下さい。北海道犬は猟犬で、しかも好戦的な種です」

 車から降りてきた男たちは、何やら会話をしながら徐々に距離を狭めて来ていた。その手に大きな網や木の棒。


 ――― 自分を捕まえに来た。

 それは即座に理解した。そして同時に、後方から誰かが近づいている事も。

 ガオは自分のこれからの行動を人間に気取られぬよう、首を一切動かさない状態で更に辺りの状況を探った。

 前に三人、ひとりは手に大きな網のようなモノを持っている。残る二人はガオの進路を限定する為であろう、手に持った棒で行く手を塞ぐようなそぶりを見せている。風下である後ろからは投げあみを持った男がひとり。右側にあるガードレールと左側にある高いへいを利用し、逃げられる範囲を限定するかのように、ゆっくりとコチラに近づいて来ていた。


 ――― 後ろから忍び寄るこの男がリーダーだ。

 ガオはそう捉えた。


 犬の両目での視野は意外にも狭く約八十度程だ。これは百二十度の両目視野を持つ人間より四十度も狭い。

 この視野の狭さは獲物を追う為に進化した結果と言うのが定説で、更に一部の学説では、肉食動物のその視野の狭さと足の速さは比例しているとまで言われている。

 だが、面白い事に肉食動物は左右それぞれの目が単独で捉えることの出来る視野は異様に広く、それぞれ約七十度までの範囲を見渡せる。つまり、犬をはじめとする多くの肉食動物は両目視野と単眼視野を合わせると単純計算上二百二十度という広範囲を見渡せる事になる。そして、その行動や能力から判断する限り、そのチカラを状況により使い分けていのは間違いないだろう。

 獲物を見つけたり、外敵を探知する視野は哨戒船のレーダー広く、獲物を狙う為の視野はスナイパーのスコープのように極端に狭い。それが狩る者の目が持つ能力なのだ。


 ガオは、わざと喉を鳴らしながら力を込めた蹴り足で前へと強く踏み込む。それに反応した前方四人の男たちの動きが一瞬止まった。ガオは続けざま敢て牙を見せた。

 二回目の威嚇は効果が薄いのか、たたらを踏みながらも自分を網で捕まえようと飛びかかってくる男の姿が見てとれた。

 頭を掠める網とその風切音。ガオはそれらを身体をしならせ躱す。


 刹那、後方の視界で捉えたモノ。


 それは後ろの男が投げあみを上空に広げる姿。ガオは即座に反応し、身体をカードレールにピタリと寄せたうえ、大地に伏せた。

 

 自身とガードレールの上に降りかかる投げ網。


「やったか? 」

「ああ、犬は投げあみの中だ!」

「さすが、保健局野犬狩りの大ベテラン! 」

 手前にいた男たちの歓喜交じりの声。


「油断するな! この犬、ただの野良ノラじゃない! 」

 投げ網の男の怒気交じりの声。

「どういう意味だ!? 」

「この犬、投げ網をガードレールで相殺しやがった。賢さが野良のじゃねぇぞっ! 」


 投げ網は一番の大きな獲物を軸として絡め捕らえる捕獲具だ。地上に於ける大きさとは高さ。今、投げ網は人工物であるガードレールを一番大きな獲物としてしている。しかも、動かすことの出来ない突起物オブジェクトもたれ掛かった投げあみには沢山の隙間が生まれてしまっており、捕獲道具としての機能が半分死んでしまっている。


 ガオはガードレール垂れ下がった投げ網が作ったその僅かな隙間を潜る様に素早く前へと進み出る。

「まずい、逃げられるっ! 」

 網を投げた男がそう声をあげた時、既にガオの視界から網は完全に消え失せていた。そして、驚きの表情を浮かべるの男たち前を素早く駆け抜けると、そのまま勢いで、目の前にあった壁を斜めに駆け上がる。


「うぉっ! 」

「ウソだろ? 一気に登り切りやがった! 三メートル以上はあるぞ。この壁」

「あんな犬、麻酔銃でもなきゃ捕まえられないですよ‥‥‥ 岩田いわたさん、警察って麻酔銃持ってるんでしたっけ? 」

「無いですよ。たとえ持っていたとしても我々、警察が撃つとなると色々面倒でして。ね、駒形課長」

「岩田、何を呑気な事を言ってるんだっ! この壁の向こうは…… 」


 ガオはそんな男たちの会話をどこか遠くで聞きながら、登りきった壁の反対側へと飛び降り、明らかに人間の手が加わったと分かる樹木の中を前へと進んで行く。

 奥からは人間の匂い。

 そして、視界には大きな家屋とその縁側で佇む年老いたひとりの女性の姿。

 寝てるようにも見えるその老婆の前を素早く通り過ぎようとしたガオの耳がバタバタと人間が走る音を捉える。


 ガオは咄嗟につつじの影に身を潜め、様子を伺った。


あねさん、大変です!」

「その呼び方は、いつになったら止めてくれるのかしら? もう、ウチの人が亡くなって、もう三年も経つのよ」

「例えオヤジが亡くなろうと、自分にとってあねさんは姉さんです。そんな事より姉さん、警察サツの野郎が尋ねたい事があるとかで、保健所だがどこかだかの野郎と一緒に家の前に来てやがります」

 ガタイの良い中年男は老婆を慕っているのか、膝を着きこうべを垂れていた。


「あら、どうしたのかしら? もうウチは任侠の看板を下ろしたって言うのにねぇ」

「暇な警察サツのする事です。どうせ嫌がらせのたぐいでしょう。今日はオヤジの墓参りに行く予定もありますし、自分が追い返します」

「ダメよ。そんな事をしては。今、ウチは造園業を営む『箱崎造園』。ちゃんと警察の方にも協力しないといけないわ」

 老婆はにこやかにそう笑うと、大男に頷いて見せていた。


「良いんですかい。屋敷に入れても? 」

「ええ。やましいことは何もない訳だし、入って頂きましょう」

「分かりやした」

 老婆の言葉に頷いた大男は、素早く立ち上がると一礼をしたうえで、どこかへと走り去って行った。


「つつじやハナミズキも咲き出したし、アジサイの葉も大きくなりましたよ」

 再び静寂が訪れた庭を見つめ、誰かに語り掛けるようにそう独り言を洩らした老婆。

「あなたは静かなこの庭が好きだと言ってましたが、今日はがたくさん来ていて、そうもいかなくなるみたい」

 そのどこか遠くを見るような視線の先。それを追おうとしたガオの鼻腔に覚えのある臭いが届いた。


「姉さん、お通ししやした。サツの‥‥‥ いえ、警察の方たちです」

 つつじの影からガオが捉えたのは、先程自分を捉えようとした男たちの内の二人。ガオはさらに身を屈め、息を殺した。


「お騒がせして申し訳ありません。自分は松田署地域課の駒形こまがたと申します。こちらは自分の部下の岩田。ご自宅の前にいるのは保険局の人たちです」

「あら、随分、大仰おおぎょうね。何かあったの? 」

 制服を着た男たちは、言葉は丁寧だがその目つきは相手を完全に見下みくだしているようにガオには見えた。


「実は野良犬がこちらのお屋敷に入り込むのをたまたま見かけまして‥‥‥ 」

「見かける? 警察の方がたまたま? 」

「いえ、その‥‥‥ 」

 老婆の質問に警察の人間は窮していた。


警察さつのダンナ、何か絵ぇ描いてやしないでしょうね。あっしら、もうカタギなんですぜ」

 うしろで成り行きを見守っていた大男が静かに声をあげ、ふたりの警官に静かな怒りをぶつけた。


「こらこら、警察の方を脅すもんじゃないですよ。ごめんなさいね、ウチの子たちは皆少し気が荒くて‥‥‥ でも、見ての通りウチの庭にはワンちゃんなんて入り込んでいないわ」

 庭を見つめたまま穏やかな声で大男と警官たちに語り掛ける老婆。


「でも、広いお庭ですし、中を少しあらためさせて貰いたいのですが‥‥‥ 」

ガサ入れだぁ? 令状ジョウはある‥‥‥ 」

 警官の言葉に反応した大男を老婆は右手で制し、再び語りだした。

「この庭、キレイでしょ? 春には桜、夏には梔子くちなし、秋には秋桜、冬には山茶花さざんかや椿が花を咲かせるわ」

 

 老婆は言葉を続けた。


「この庭は毎朝欠かさず私とウチの若い子たちで手入れをしているの。だから何か変わった所があればすぐに気がつくわ」

「お屋敷に入ったのは、十分ほど前です。犬は薄汚れているうえ、野良で、しかも手負いでして‥‥‥ 」

「私はこの庭をこうして静かに眺めてるのが好きなの」

「ですが、あの犬は凶暴で‥‥‥」

「犬はいないわ」

「‥‥‥ 」

「分からない? あなた達が取り逃がした犬はここにはいないの」

 穏やかな言葉に籠る圧。警官はそれに押されたのか、大きく息をついた。


「‥‥‥ お騒がせ致しました。もし、犬を見かけましたら警察までお知らせください」

「いいえ、こちらこそ。お茶も出さずにごめんなさいね。直哉なおや、この方たちを私の代わりに門までお送りして」

 老婆の言葉に呼応するように大男が静か動き出すと、警官たちはその後を追うように姿を消してしまった。



「ダメね。いまだにあの制服を見ると、あの人が嫌がらせを受けていた頃を思い出して、頭に血がのぼっちゃうわ」

 自嘲的にそう笑う老婆は、庭を見続けていた。


 三度訪れた静寂。


「つつじの後ろに隠れているワンちゃん、もう出てきても大丈夫よ」

 その言葉の正確な意味は分からない。だが、それが自分に出てくるように促す言葉である事は、ガオにも不思議と理解ができた。

 伏せていた身体を上げ、ゆっくりと前へと進み出たガオは老婆と視線を合わせた。


「あの警察官、見る目が育っていないのね。この子のどこが薄汚れていて凶暴な野良犬なのかしら? すごく男前のワンちゃんじゃない」

 老婆はそう呟きながら、ガオを優しく見つめた。

「顔や身体に沢山の傷をつくって、たくさん旅をしたのね。何か目的のある旅を‥‥‥ まるでウチの人みたい」

 何かを懐かしむ様にそう語る老婆は笑っていた。


「行きなさい。あなたの旅には何か目的があるのでしょ? このまま裏手に廻れば、生垣になっているから、あなたなら通り抜けることが出来るし、人通りの少ない通りにも出やすいわ」

 ガオは老婆に向かい頭を一度大きく振るうと、その細い指先が示した方角へと走り出した。


「達者でね、旅の侠客きょうきゃくさん‥‥‥ さて、私もあの人のお墓参りの準備をしなくちゃ」

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