追走

第16話 ガオ、英子の叫びを追う

 人の気配が無い道を選びガオは西へ向かい走り続けていた。

 既にあの男の臭いは雨に流され失われている。だが、英子がこの先にいる事にガオは確信を待っていた。細く狭い路地を駆け抜けると、水の匂いが強くなる。耳に届くザーザーという音と併せて判断する限り、進む西側には大きな川があるのだろう。急激に喉の渇きを覚えたガオは足を速めた。

 松並木を越え、人間が歩きそうもない泥濘ぬかるみに足を踏みこむ。昨日までの雨の影響で川は茶色く濁り轟音を立て流れていた。土手を滑るように降り、河原に着いたガオは流れが比較的緩やかな場所を選び川の水をひと舐めする。泥の臭いが鼻を突くが、渇きは潤う。ガオはさらに水を二度三度と舐めた。


 喉の潤いがガオに飢えを呼ぶ。昨日の昼以降、何も喉を通していない事は分かっていた。英子と朗人が出したもの以外を口にする気が起きない自分が何かを食するためには自身で手に入れる以外に道は無い。

 ガオは川を見つめる。雨で水量が増えた為か、平常時は河原と思われるこの場所にも水の流れが幾つもあり、それが浅い瀬を作っていた。揺れる濁った水面には不自然な揺れ。


 ―――…… いる


 水面を揺らすもの。正体は魚影だ。ガオは誰から教わったわけでもなかったが、ソレが獲物である事を知っていた。

 風下から足を忍ばせ、水面に影を作らぬよう姿勢を低くし魚影に近づいて行く。息を殺し、獲物だけに視線を注ぐ。


 強い風が一陣吹き抜け、水面みなもを削る。ガオはその瞬間を見逃さなった。


 風で川が泡立つように揺れると、水深が刹那の時だけ浅くなり、それが獲物である鮎の背をあらわとした。ガオはその背に向かい飛び掛かると牙を突き立てる。口と鼻腔、そして目から容赦なく侵入してくる油の臭いを含んだ水。その牙と舌には確かな生命の感触。

 ガオは獲物を咥えたまま川岸まで走った。そして、葦に囲まれた土の上にそれを吐き出す。小刻みに震えるその獲物からは、まだ僅かに生命の匂いがしたが、ガオはその腹に向かい容赦なく牙を突き立て、咀嚼をはじめた。鼻腔を泥の匂いが突くと同時に、舌の上ではらわたが転がる。味などは無いに等しいが、それでも身体には活力が漲る。

 獲物を全て食べ干したガオは、一度、大地に視線を落とすと川を越える為、再び橋が見える南側へと駆け出した。



 ***************


 橋が三百メートル程まで迫った時、ガオの鼻腔をあの煙草の臭いが刺激した。それはごく僅かなモノ――― 移り香だ。


 ガオは走り続けたまま、視線を橋に集中する。歩いている人間はひとり。橋を渡りきる寸前の萌黄色の服を着た女。手には何やら袋を抱えている。走る速度を速めたガオの鼻腔に新たな匂いが二つ届く。ひとつは豆の焼ける臭い。そしてもうひとつ匂い。それは英子のものだ。

 ガオは焦った。英子の匂いはあの煙草の臭い同様、あの女から。つまりは移り香だ。それは捉えた。だがマズいのはそれと重なる様に豆の焼ける臭いがする事だった。人間が作った臭いであれば、自分たち犬はそれを追う事が出来る。だが、それら全てを上書きしてしまう程の力を持った臭いが豆類、特にカカオ豆が焼ける臭いなのだ。


 ――― あの女を見失ってはならない。


 そう判断したガオは、走る速度を最大限まで上げると勢いをつけたまま、川に飛び込んだ。

 顔に掛かる水飛沫。飛び込んだ拍子に口の中に沢山の水が入り、渇きを潤した時とは真逆の感触が喉を伝う。昨晩作った傷口が川の流れに削られ、ビリビリとした痛みを走らせる。初めて知る川の流れの速さに驚きはあったが、このまま流れを利用し斜めに川を横断するのが一番の早道である事は本能が知っていた。

 前脚、そして後ろ脚の爪を立て、水をえぐるるように搔いてゆく。泥濘ぬかるみ、あるいは油の中で藻掻もがくようなその行為をガオは愚直に何度も繰り返していく。

 渡ろうと考えていた橋が頭上に差し掛かると、木切れやゴミ、そして魚が自分の腹の下をすり抜けてる感触があった。ガオその感触に顔を顰めながらも、更に水を搔く四肢に力を込める。


 ――― 急がなければ


 対岸が近づき始め豆が焼ける臭いがより強くなると、左後脚から砂を蹴る感触が伝わって来た。足が付く事を確信したガオは両前脚を力いっぱい前方へとせり出す。ついで後両脚を前へ。全身に感じた外気と風の気配。

 水面から完全に上がる事に成功したガオは、そのままの勢いで川沿いの側道へと駆け上がる。濡れ鼠の自分の姿に驚いたのか、すれ違った人間から小さな悲鳴が聞こえた。ガオはそれを無視し、女が歩いていた橋へ続く道へと出た。


 視線の先、二百メートル程前方に捉えた女の姿。先程、道を行く女性に悲鳴をあげられた事を考え、あの女にあまり近づき過ぎてはいけないと感じたガオは距離を保ちつつ、あとを追う。


 女が豆の焼ける臭いを放つ建物の角を曲がった。

 ガオは何故か腕組みをして遠くを眺めている髭面の大男の前を通り過ぎ、早足になり過ぎないように、更に後を追って行く。

 女が高さのある建物に入るのが見えた。人間がマンションと呼ぶものだ。建物の前にはエンジンが掛かったままの大きな車や強い臭いを放つ野菜を積んだ黄色の車が停まっている。


 入口で立ち止まった女が機械を操作すると、透明なドアが開くのが目に留まる。自身の侵入が難しい事を察したガオは建物を見上げ、そして、あるモノを捉えた。ガオの視界に入ったモノ。それは非常階段。

 女が使用した入口の真裏になる場所にあるが、階段を使えばあの女を追える事を理解したガオは急ぎ裏側へと走った。


 裏手に廻ったガオの脚が止まる。

 裏口。そこで見えたのは階段の前に建つ、背の高い鉄の扉。


 ガオは一旦、扉との距離を取った。そして、息を整え終わると力いっぱい大地を蹴り、鉄の扉の横に立つ隣の建物のコンクリートの壁を目掛け駆け出した。


 頭まで響く大地を蹴る振動と頬に感じる風を切る感覚、そして目前に迫る灰色の壁。それを限界まで引き付けるとガオは後ろ足で大地を蹴り上げ空へと舞い上がる。即座に身体を捻り、四肢に力を入れコンクリートの壁を脚で捉えると、それを思いっきり蹴り上げた。空中をジグザグに削る様に飛ぶ動作。三角飛びだ。

 誰に教わるでもなく、本能に従いを行ったガオの脚が大地を捉えた時、前に立ちはだかっていた大きな鉄の扉はガオの背後にあり、今度はコンクリートの階段が目の前に現れた。

 

 ガオは、非常階段を駆け上がりはじめた。

 

 次第に強くなるあの女の臭い。そして、それに混じり捉えた臭いと匂い。それは、英子を連れ去った男、そして主・英子のものだ。ガオは階段を登る脚を限界まで早める。

 カツカツと階段を蹴る自身の爪の音。昨日の怪我のせいもあってか、呼吸が上手く練れず、喉がカラカラと音を立てているのを自覚する。次第に痛みを増す怪我を負った脇腹と臀部。それでも英子の匂いがガオを走らせた。

 

 例のカカオの匂いに紛れて正確に捉えきれてはいないが、ガオはもっとも臭いを強く感じた踊り場で立ち止まると、階段のへりに脚を掛けてあたりをうかがう。

 そこから見えたもの。

 それは、ガオが追っていた臭いのぬしである男女。そして、そのふたりに連れられ、エレベーターに乗せられる英子の姿。

 見つめた地上、見える人間の小ささ。


 空に向かって、咆哮一閃。


 ガオはコンクリートのへりを蹴り上げた。

 距離は3メートル程と短いが地上17メートルはある非常階段から通路への飛翔。腹の下をすり抜けてゆく風に不思議と興奮を覚える。視界に捉えている英子と男の動きが、やけにゆっくりと見えた。


 刹那


 四肢がコンクリートの廊下を摑む感触。飛翔に成功した事を察したガオは勢い余った身体を停める為、建物の壁に敢えて身体を打ちつける。昨晩、作った脚の傷口が開き、そこから流れ出した血と痛みをガオはどこか遠くに感じかながら、即座に立ち上がった。


「ガオっ! 」


 英子が自分を呼ぶ声。ガオもそれに応えるようにもう一度、大きく吠えるとエレベーターに向かい走り出す。


「あのクソ犬じゃねえか! 」

 男の叫び。

 エレベーターまで五m。英子が落としたお気に入りのタオルの横をガオは凄まじい勢いで駆け抜けた。


 四m。驚きの顔を浮かべる男が英子を押さえつけながら、怒り狂ったかのようにエレベーターの中で何度もボタンを押している。ガオは蹴る脚にあらん限りの力を込める。


「ガオ、この人たち悪い人! 危ないから来ちゃダメぇぇ」


 残り三m。英子が自分の名を叫び、制止するような手振りをしている。閉まりだすエレベーターの扉。隣にいる女が男に向かい何かを告げていた。

 あと二m。男がポケットから見覚えのある機械を取り出し、英子に押し当てる姿が見えた。ガオの目に怒りの色が宿る。

 五十㎝。騒ぎに気が付いたのかエレベーター側に住んでいる住民がドアの隙間からこちらを覗っている気配がした。

 0。無情にも閉まる扉。ぐったりする英子と男が舌を出した笑っている姿が視界に入る。勢い余り、扉に打ち付けた身体が再び悲鳴を上げたが、痛みを無視して立ち上がったガオはエレベータ―横にある階段を駆け下りはじめた。

 

 英子の叫びを追って―――

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