第09話 ガオ、下衆と対峙す
全身の毛が逆立っていた。
それが怒りから来るものなのか、興奮から来るものなのかは分からない。ただ、ガオは警戒感を更に高め、息を殺していた。
人の気配が強くなった。同時に聞こえて来る下手糞で耳障りな口笛。そして捉えた臭い。
――― あの男ではない。
臭いはそう語っていた。だが、ガオは記憶していた、この臭いは、立ち寄った場所でハナを攫った男と重なる様に存在していた「ふたつの臭い」である事を。そして確実に捉えていた、そのふたりから漂う僅かながらのハナの匂いを。
雨の中、機械の前で何やら操作を行う男女を睨み、ガオは静かに喉を鳴らす。
―――
狩るモノの血が告げていた。男が近くに来るのを待てと。ガオは身を更に屈め、獲物が車の
「『ヤマが全部済んだらだ!』って、梶の野郎、ホントに金出す気あんのかよ。コッチはヴァイオレット・スノーの響ちゃんをオトす為に、金が要るってのに…… それによぉ、そもそもガキ攫う為の運転手ヤルなんて聞いて無かったし!」
「青木ちゃん、マジ大丈夫なの? ヤダよ、あたし鑑別所なんて」
「ミカエは未成年だからイイじゃん。少女Aと鑑別所で済むんだから。俺なんて青木巧三郎26歳・自称フリーターってニュースに出たうえに刑務所になるんだぜ? 」
ガオの標的が赤い車へと近づいて来た。やはりふたりからはあの男と英子の匂いが漂ってくる。ガオは更に四肢に力を込め、いつでも飛び出せる姿勢をとった。
「だいたいあの女の子、ホントに梶センパイの知り合いの子なの? 」
「たぶん嘘っしょ。あの人、チョー嘘つきだし」
「なんか女の子の面倒も
赤い車の右側には男、反対側には女。ふたてに分かれてしまったが、ガオは迷うことなく男を標的と定めた。
「嘘つきのうえ、クズなんだよなぁ。俺も怒らせると怖いから従ってるけどよぉ…… でも、一番のナゾは、
「青木ちゃん、雨降ってんだから早くしてよねっ! 」
ガオは気配を殺しつつ、二人の背後に廻る。
――― すぐには飛びかかるな。まずは相手の動きを止めろ!
再び狩るモノの血がそう語り掛けてきた。ガオは背を向けている男に静かに近寄り、唸りをあげる。
「んっ⁉ 何だよ、この犬。うぜぇな、シッ、シッ! 」
ガオの姿に気がついた男が振り払おうと手と声で威嚇してきた。ガオはそれを無視して更に一歩、男に近寄り、普段は弧を描いている尾を立てると、唸りに怒りを込めた。
「な、な、なんだよ。この犬! 」
後ずさる男はポケットから何かを取り出しこちらに投げつけて来た。ソレが頬を掠めたがガオは怯まず、男との間を詰める。何かを思い出したのか、男が目を見開いた。
「コ、コイツ、よく見りゃ、あのガキの連れてた犬じゃねぇか…… 」
「まさか、私らを追いかけて来たのっ⁉
少し離れたところから聞えた女の声には怯えしか感じない。ガオは女を無視する事に決め、目の前の男に圧力を与えていく。
「ミカエ、なんとかしてくれよぉおおお」
男は女に助けを求めているようだったが、場所は車と車の間、当然、左右に逃げる事は出来ない。そして唯一の退路である後方も一歩後ろは緑色をしたフェンスだ。ガオは唸りに力を込め、更に男を
英子は何処にいる―――
「もう、あのガキはいねえんだよ。勘弁してくれよぉぉっ」
ガオは雨に濡れた身体を強張らせ、震えている男に強い視線をぶつけた。
英子を何処に
「梶セン…… 梶の野郎が、
言っている言葉の正しい意味は分からない。だが、震える男が西側の方角に視線を泳がし、ハナがココにはいない事を伝えようとしているは理解できた。
――― 西
瞳を少しだけ動かし、ガオが西を見つめた時、風上から忘れえぬ人間の匂いが漂ってきた。
――― 朗人だ。
ごく微量、そして距離はまだかなりあるが、明らかにこちらに近づいて来ている。
ガオが主人の気配に気を取られた次の瞬間、怯えていた女の空気が変わった。その殺意にも似たモノに危険を感じたガオは身体を強張らせた。
刹那、ガオの全身に貫くような痛み、いや、痺れが走った。呼吸は浅くなり、目の前が眩む。四肢には力が入らず、身体はふらついていた。そして右の腰のあたりが燃えるように熱い。
「青木ちゃん、今のうち逃げよっ!」
「なに今の! ミカエ、何やったの⁉ 」
「対痴漢用のスタンガン! 使うの三度目だけど、火花が出たの初めて見た! 」
「そんで、コイツはフラフラなのか 」
ふらつき、遠くなり始めた意識の中、ガオに耳に届いた二人の会話。自分に危険が迫っているのは理解していた。
「早く逃げよ! 」
「ちっと待ってろよっ! この犬、シメんからっ! 」
悪意と狂気を纏った男の声。そして、ガオの背中に猛烈な痛みが走る。
「死ねや! コラっ! さんざん脅かしやがって! 」
二激目。男の足がガオの首筋を蹴り上げた。弾け飛んだ身体は薄く雨の膜を張るアスファルトの上を転げ回り、体毛に
「青木ちゃん、早く逃げよ! その犬、普通じゃないよ」
「あぁん⁉ たかが犬っコロじゃねえか」
「あのスタンガン。梶センパイに買わされたんだけど、違法改造したヤツだから、スゴイパワーがあるのっ! 」
「あの野郎も少しはマトモなモノ扱うじゃねーか」
不思議な事にガオを窮地に陥れた女の声は震えていた。男の方は更なる一撃を加える為だろう、ゆっくりとガオに近づいて来ていた。
「私が言いたい事はそういう事じゃないよ! 青木ちゃん、よく聴いて! あたし一度、エンコ-親父をホテルでブッチする時にコレ使った事あるんだけど、そん時、九十キロはあるキモデブ親父が泡吹いて倒れたの。これ、そのくらいすごいスタンガンなの! 」
「だから何だよっ! 」
「ここまで言ってまだ分からないのっ⁉ 人間ですら気絶させちゃう電撃なのに、それなのにあの犬、まだ立ち上がろうとしてる。あまり効いてないのか、犬にはスタンガンが利かないのかは分からないけど、とにかくヤバイよあの犬! 」
女の悲鳴にも似た声に男の振り上げた足が止まる。ガオには男が再び恐怖しているのが分かった。
「………… 」
「まだフラついている今のうちに逃げよっ! 」
「……チッ、追いかけて来たら、今度は殺すからな! 」
自分に怯えた視線を向けながら、後ずさる様に赤い車に乗り込む二人。ガオはその車が進むのを確認してから、朗人が来ている方角へとボロボロになった身体を引きずるように歩み出した。
英子は西へ行った――― それを伝える為に。
ふらつき、視覚も嗅覚もまどろむ中、細い路地をひとつ抜ける。途中、砕けた瓶で前脚や頬を切ってしまったが、痛みはまるで感じなかった。
見えてきた色とりどりの灯り。そして、人の喧騒。
――― 大きな通りが近い。そして、朗人はもうそこまで来ている。
ガオは尚も前へと進んで行く。
――― 朗人、英子……
視界が黒に染まってゆく。それが意識が沈む事を意味するのだ理解した時、ガオは己の非力さを悔やみ、そして、吠えた。だが、その咆哮は誰に届く事もなく、ガオの意識と共に夜の街と雨の中に溶けるように消えていった。
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