第05話 ガオ、主の影を追う

 もう、どのくらい走り続けているだろう。途中行きかう人間に何度も驚きの声をあげられた。それでもガオは走り続けていた。

 既に赤い車はその影すら見えない。だが、ガオは捉えていた、英子の影を。あの車から漏れてくる匂い、あの男が吸っていた煙草の臭いを。


 沈みつつある太陽が雨の気配が強くしている。


 もうじき強い雨が降る。それは動物の本能で分かっていた。そして、雨がこの臭いを消してしまう事も。だからこそ、ガオは走り続けた。

 人間の埃と油、そして車の発するガスの臭いが入り混じるこの大気の中での臭いの見極め。男が吐き出す煙草の煙、正確に言えば煙の中に含まれる男の唾液や油などの臭いをガオは正確に解析、そして記憶している。それは犬のみが持ち得る特殊な能力だ。


 ――― 臭い。つまりは嗅覚。

 単純に臭いを感じ取る力だけで言えば、陸上生物で最強は熊だ。熊は自身から一キロ平方メートルの範囲の匂いをかぎ取ることが出来ると言われており、これは人間の二百五十倍、対犬で換算しても七倍から八倍の能力だ。

 だが、それでも犬の嗅覚が優れていると言われる由縁は、ひとつの臭いに混在する油・埃・水分・化学薬品などの様々な臭い、いわゆる混合臭を分析して捉え、しかもその臭い全てを長期に渡り記憶できるところにある。言うなれば『臭いに対する考察力と記憶力』これこそが犬は嗅覚が鋭いと言われる最大の所以ゆえんなのだ。


 ガオは匂いを辿り、大きな交差点を曲がる。散歩途中なのだろう若い女性が連れた小型犬が高い声で吠えて来た。自分の主人に近寄るなとの威嚇。ガオはその若い女性の悲鳴と犬の威嚇を無視して更に前へと進む。


 流れてゆく一陣の風。


 男の臭いが強くなり、それに反応するようにガオは走る限界まで速度を速めた。


 ――― 近い

 それは確信していた。


 蹴ると痛みすら感じる硬いアスファルトがカリカリと音を立てている。そんな中ガオの鼻先を濡らすものが一雫ひとしずく

 雨。

 それがポツポツと道路に黒い染みを作り、アスファルトを黒一色に染め始める。ガオの目指す方向に青と白のコントラストを持つ建物が見えて来た。やけに明るいその建物からは、食べ物や様々な人の臭い。それにはあの男の臭いと、微かながら英子の匂いも漂って来ていた。


 ガオは立ち止まると店の辺りを見回した。停まっている車は一台。それは、あの赤い車ではなく、今日散歩の途中で英子が関心を示した車と同じに臭いのする小型の黄色い車だ。


「雨降ってるじゃん。マジ最悪! わたし傘持ってない」

「中でビニール傘、七百円で売ってたよ」

「えー! 高いよぉ。今月、金欠なのにぃ」

「濡れるよりはマシっしょ」

 雨に濡れぬ為だろう。英子や朗人より少し年上と思われる女性が、その建物の入り口付近で談笑をしている。


「あっ! 黄色の『ととと』発見! 今日これで二台目! あと一台見つければ、金持ちでイケメンの彼氏が欲しいって願いが叶うかも! 」

「なにそれぇ」

「知らないの? 『心身体健康食事』のステッカーが付いた車を一日三台見ると何でも願いが叶うってウワサ」

「それって、もしかして? 」

「みたいよ。ネットに出てた」

「マジで⁉ 」

「マジだよ。でも、あの集団なんか胡散臭いない? 」

「イケメンで金持ちの彼氏が出来るんなら、何でもいいじゃん」

 会話な内容は良く分からないが、はしゃぐ女の子たちは雨の中でも楽し気だ。


「犬じゃん」

「うわぁ。マジだ」

「流行りの秋田犬あきたいぬ? 」

「柴犬じゃね?」

「どちらかって言うと、野良犬か捨て犬でしょ。首輪して無いし」

「それ、どっちも犬の種類じゃねーし」

 背で交わされる会話などガオには興味はない。それより気になるのは建物の中や周りに英子はおろか、あの男や赤い車が見当たらない事だ。

 ガオは大声で会話を続ける女性たちの少し横にある円筒状の置物に走り寄る。そこにはあの男の臭いが僅かに残っていた。そして、それに重なる様に記憶にないふたりの人間の臭い。英子や今後ろで会話をしている女性たち程ではないが若い男女だ。ガオはそのふたつの臭いを脳裏に記憶した。


「なに、あの犬、タバコに興味があんの? 変わってネ?」

「でも、犬もタバコ吸わなかったっけ? 確かマタタビとかいうヤツ」

「それ猫だしぃ」

「そーだっけ?」

「猫にマタタビって言うじゃん」

 ここに男が立ち寄った。当然、英子も。そう確信したガオは左右を見回す。道は自分が走ってきた道を除けば二本。どちらを通ったのか、それを雨が臭いを流してしまう前に見つけなければならない。


「なにあの犬、ずっと国道一号いちこくガン見してる」

「あっ、今度は旧道ガン見しだした」

「雨の中、傘も差さずにガン見してるなんて、チョット、ストーカーぽくてキモくない? 」

「キモいキモいっ! でも犬、傘差せなくね? 」

「あっ、そうか!」

「ぎゃははっは」

 雨はその強さを増しはじめた。ガオは僅かに残る男の匂いを頼りに細い道を選び、再び走り出す。


「うわぁ、雨スゴっ! 」

「ウチら、普段の行い悪いとか?」

「別にあたしフツーに良い子だし」

「あっ、犬も逃げた! 」

「ウチらがやかましくて、ウザがられたとか? 」

「ウザいのあの野良犬の方だし」


 始まりかけの夜と雨が周りを黒に染め、追うべき匂いを更に薄くししつつある。

 ガオは雨がうっすらと溜まる道を蹴り、旧道を西へと進んだ。

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