第03話 ガオ、炎の旅立

 陽が西に傾き、屋敷からは魚の焼ける匂いが香りだした。坂の遥か向こうにある教会からは鐘の音。それらが全て午後五時半を示しているのをガオは理解していた。同時に自分の散歩がもうじき始まるのだという事も。

 まだ郊外の庭の大きな家にいた頃は、散歩の開始時間が五時半から三十秒とズレる事はまず無かった。だが、最近はその時刻ちょうどに出発する事が稀になりつつある。ガオはその事を喜ばしい事なのだと解釈していた。


 ―― ガオ、ハナが突発的な予定の変更を受け入れられる練習をしたいんだ。お前も協力してくれ。


 一年ほど前、朗人アキラが自分を抱きしめながらそう語り掛けた来た日から、散歩の出発時間に意図を持ったズレが生まれ始めた。

 ある日は十分遅れ、又ある日は五分早く、別のある日は時間丁度にと、不規則で意図を持ったズレ。それは朗人アキラ英子ハナコの為に行っているのは明らかだったが、時間がズレた日、英子は必ず泣いていた。


 ――― 遅れちゃう! 遅れちゃう!


 早足で散歩を行い、遅れを取り戻した場合でも英子ハナコはそう言いながら泣いていた。ガオにはその姿が何かに追い立てられているようにすら見えた。


 ――― 遅れても大丈夫だよ。俺もガオもそばにいるんだから


 英子が泣くと朗人は必ずそう優しく語り掛けていた。毎日毎日、雨の日でも雪の日でも、根気強くそう語り掛け続けていた。そして、それが六か月ほど続いたある日、散歩の始まりの時間が三十分以上ズレたのにも関わらず、唐突に英子ハナコが涙を流さなくなった。


 ――― なんか散歩の時間がズレても不安じゃなくなって来た。

 ケロリとそう笑う英子の横で朗人も嬉しそうに笑っていた。


 ――― ガオ、協力ありがとな。ハナが時間の変更をはじめて受け入れてくれたよ。

 自分を抱きかかえながらそう教えてくれた朗人からは涙の匂いがしていた。


 玄関からバタバタという音と共に主人たちの匂いが近づいて来た。昔を思い出していたガオは我に返り、玄関の方に首を向ける。


「ガオ、お散歩行くよぉ」

 いつも通り先に出て来たのは英子。その背中には薄い紫色のリュック。匂いで判断する限り、中身は兎のぬいぐるみやクレヨン、お守りやお気に入りのタオルと言った犬の散歩には必要としないものばかりなのだが、英子は毎日コレを背負って出てくる。それはある種のこだわりで、自分たち獣に例えるなら習性のようなモノだろうとガオは認識していた。そして習性であれば大切だとも。


「ハナ、今日もリード頼めるか? 」

「うん。いいよ。ガオがどっか行かないようにシッカリと持つね」

 影を護るように立っていた朗人からの呼びかけ。そしてそれに嬉しそうに応える英子。それは自分がみだりに吠えたり、走ったりしない事を知ってるからこそのやりとりで、それがガオには誇らしかった。


「今日はお散歩日和だね、アキ」

「明日からの連休は崩れるみたいだよ」

「そうなんだぁ」

 散歩と共に始まった二人の会話。緩やかに弧を描く下り坂が終わりを告げ、川伝いの道をいつものように歩いてゆく。


「川辺に住んでいた女の子は可愛い洋服を着て、山間やまあいに住んでいた男の子はカッコいい帽子を…… 」

 唐突に始まった英子のかたり。それはかなりの声の大きさの為、朗人が隣を、そしてガオが共に歩いていなければ誰も独り言だと気が付かないだろう。


「それぞれがオシャレをして、集まると――― 」


 ガオが見つめた朗人はその英子の独り言を気にした様子もなく、いや、むしろ邪魔をしないでいるように見えた。その証拠に今も道の右端に転がっている空き缶に英子が躓かぬよう、自分の位置を英子の左側から右側へと入れ替えている。

 

「なぜか道には空き缶がひとつ転がっており――― 」


 英子は視覚で捉えた物を直ぐに独り言で言語化するクセがある。そして、自身が言語化した声を聴覚で捉えると、そこから様々な事を連想し、それを物語として繋げてゆく。


「みんなは少し驚いてしまいました」


 そんな英子を多くの人間は奇異の目で見る。それがガオには不思議でならなかった。自分を含め、多くの生物は不安を感じると鳴き声を上げたり、吠えて威嚇をしたりという動作をとる。それは当たり前の事だ。なぜならば声をあげ、それを音として捉えるという行為は不安ストレスを和らげ、次の動作をスムーズに行うための防衛本能なのだ。現に英子は視覚に飛び込んでくるものに不安を感じ、その処理に困惑しそうになった時に独り言を発するケースが多い。


「あっ! あんな所に「ととと」の車が停まってるっ! 」

 唐突に独り言を終わらした英子が、川の向こうに停まっている車を指差す。車には『心身体健康食事』とマグネット式のプーレト。ガオをその指先の方向、植物の強い匂いを発生させている車を見つめた。


「あれは訪問販売の車だよ。ばあちゃんがこの前、夕飯に出してくれたサラダに臭いの強い変った野菜があっただろ? アレみたいのを売ってるお店だ」

「あー! おばあちゃんが「『ととと』の人たちが来て可哀そうだから買った」って言ったら、おじいちゃんがすっごく怒った時に並んでいたくっさいお野菜? 」

 朗人が笑いながら頷いた時、ガオの耳に小さな音が響く。少し遅れて英子が耳たぶをさすり出した。


「アキ、スマホが鳴るよ」

「毎度ながらハナは何で着信前に分かるんだ? 」

 朗人がポケットから取り出すと同時に鳴るスマホ。

「へへぇー すごいでしょ!」

 ガオから見れば、あの不快な音に気付けないアキや他の人間の方が不思議だ。スマホの着信寸前の耳障りな高周波。だが、その音に気付ける人間はガオの知る限り英子のみ。


 ガオからすれば、音も匂いも色んなモノが混じり合って存在している。例えば今の高周波を拾う際も川で水が流れる音、遠くから聞える人の話し声や風が木々の間を抜けていく音など沢山の音の中から高周波を拾い出した。人間はそれを無意識に選別できるようだがガオたち犬は違う。認識できるものは全て拾い、そこから必要なものを選び出す。拾う前に選別できる人間と拾ってから選別する動物。

 そのどちらが優れているかなどガオには興味が無かったが、英子が自分たちと同じ感覚を持っているは辛いのではないかと感じていた。



「アキ、怒ってるの? 」

 不意に聞こえた声。

 今度はスマホを見つめる朗人に話しかける英子。その緊張をした声にガオは歩く歩幅を狭めた。


「あのジジイ、また勝手なマネしやがって! 」

「やっぱり、怒ってる。ダメだよ『ジジイ』何て言ったら」

 同日のほぼ同時刻に生まれたこの二人は、どちらかが強い感情を抱いた時や身体の痛みを感じた時になど、もう一方が体感でそれを感じ取ってしまう奇妙な能力がある。それは動物であるガオからみても、不思議な意思疎通の力だった。


「おじいちゃんが、どうかしたの?」

「『塾の合宿に申し込んだから、明日から行け』ってメールが届いた」

「いいじゃん。行こうよ」

 その言葉に朗人の表情が曇った。少なくともガオにはそう見えた。


「高校なんてどこへ行っても同じなんだから、合宿なんて必要ないよ」

「そうかなぁ? まぁ、確かに学年で必ず十番以内に入るアキにはいらないかもねぇ」

「数学の成績ならハナの方が上だろ? それに俺は父さんと同じ特別救急隊に入るんだから、高校は形だけでいいんだ」

 語られたガオのもう一人の主人だった人物。そして、英子と朗人の父だった男。大きな身体に大きな手、そして、それと同じくらいの大きな笑顔を持っていた男。彼からはいつも煤と炎の匂いがしていた。


「お父さんと同じかぁ。アキにピッタリだよね。私は伯母さんのお花屋さんで働きたいなぁ」

 英子が4月末の空を見上げながらそう語った時、ガオは己の全身の毛が逆立つのを感じた。本能が告げる警告。悪意ある人の視線と気配がこちらを覗っている。ガオはその方角を睨み、小さな唸りをあげた。


「ハナ、俺はこれからジジイに電話してくるから、少しの間ガオとここで待っててくれるか? 」

「いいよ」

 英子は朗人のその言葉と行動を疑わない。それは朗人への絶対的な信頼でもあるが、今はそれが災いになろうとしていた。加えて朗人は怒りからか、自分の警告に気が付いてくれない。


 駆け足で角へと姿を消した朗人。そして、入れ替わるようにひとりの男が姿を現した。


「お嬢ちゃん、交番にはどう行けばいいの? 」

 そう声を掛けて来たのは細身で背が高く、金髪を後ろで束ねた若い男。


「えーっと…… 交番はこのまま真っ直ぐ行って、ふたつ目の信号を右に行って、スーパーが見えたら左に行って、そのままグーっと坂を…… 」

「うーん、分からないなぁ。出来たらこの地図で教えてくれないかなぁ」

 男は手に地図を持ち、笑みを浮かべながらこちらに近づいて来ている。


 ガオは威嚇の唸りをあげた。ピタリと停まる男の歩み。ガオは尚も威嚇し続けた。


「ガオ、駄目だよ。この人困ってるんだから」

 その身体に悪意というモノを持たぬ英子はガオの警告を理解するのは難しい。

「おじちゃん、ガオは人を噛んだり、吠えたりしない犬だから平気だよ」

「実はボク、犬が苦手なんだ。だからそのワンちゃんをそこの電柱に紐で固定してから、おじさんの側に来て道を教えてくれないかい? 」

 ポケットからタバコを取り出し火をつけた男はやたらに強い匂いを燻らしながら、頭を掻いていた。


「わかりました…… ガオ、少しの間良い子にしていてね」

 自分を繋ぐリードが電柱に固定されるのを見てガオは大きく吠える。男の瞳は鈍い光を放っていた。


 次の瞬間、ガオが見たモノ。それは凄まじい速さで走って来た赤い車とタバコを吐き捨てた男がハナの口を押さえつける姿。ガオは再び大きく吠えた。

 その刹那、ガオの耳に届いた高周波。それが本能的に朗人からの着信を告げるもの察したガオは三度みたび大きく吠える。さらには身を自由にすべく、全身に力を込めた。鳴りだす英子のスマホ。


 英子を押し込んだ車は太陽の沈む方向へと走り出した。ガオは更に力を込め、そして身体をじらせる。そして、それを六回ほど繰り返した時、自身の首回りを締めていた力が一気に緩むのを感じた。首輪抜けに成功したのだ。


 ガオは刹那の時だけ首輪を見つめる。


 人間に飼われていた犬が首輪を失うという意味は理解していた。そして自身の耳が大きく裂け、そこから血が流れ始めているという事も。だが、ガオはそれらを一切無視して車の走り去った方角、炎のように赤い夕日へと向かい全力で駆け出した。

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