第02話 朗人と英子、そしてガオ

 

 一番古い記憶は寒さ。そして飢えだった。次の記憶は温もり。その小さな掌の暖かさを生涯忘れる事は無いだろう――― 



 六限目の授業の用意をしていると朗人アキラは自身の首元が熱を帯び始めている事に気が付く。毎日鍛錬を欠かさない頑健な自分が風邪などいていない分かっていた。そして、耳元に籠るこの厭な熱が何を意味するかも。

 連鎖するようにポケットに突っ込んでおいたスマホが震えだす。目を落としたディスプレイには『森山寿々もりやますず』の文字。一瞬、頭の別の部分が熱を帯びたが、朗人は息をひとつだけ吸いその熱を頭の外へと逃がすと、画面をタップする。


「すぐ行く」


 相手の言葉を待たず、それだけを電話口に告げると朗人は出しかけのジャージをそのままにし、早足に四つ先にある教室、2-Aへと向かった。


「やっちまったみたいだな。英子ハナ


 1-A前の廊下は始業少し前にも関わらず、男子生徒の姿が多く見受けられた。朗人は彼らの視線を無視して、1-Aの教室のドアを開ける。

「アキちゃん、ゴメン。私じゃダメみたい」

「こっちこそ、悪ィな」

 申し訳なさそうな視線を送ってくる森山寿々に朗人は詫びを告げると、教室中央列の一番前で肩を震わしながら座っている少女の隣に座る。


「そこ…… 寿々ちゃんの席」

「知ってるよ」

 姉の第一声に朗人は静かにそう返す。机の上にはしわくちゃになった五線紙。


「久々にやっちまったみたいだな」

「うん」

 素直に頷く姉に対し、朗人はハンカチを差し出す。

「取り合えず、涙は拭いた方がいいよ」

「自分の持ってる」

 スカートのポケットから出してハンカチで涙を拭う姉・英子はなこを朗人はあらためて見つめる。

 顎のラインがしっかりしている為、まん丸の印象を受ける顔は、大きさそのものは非常に小さい。そして今は涙で濡れているためクッキリとしている目は、本来は垂れ目の気味の奥二重でしっとり気味。尖り気味の鼻とリップを縫っている訳でもないのに薄紅色をした唇はともに小さいが存在感だけは強く、肌はキメが非常に細かいのに、色黒でそれが殆ど分からない。

 長所が短所を打ち消し、しがしを見えづらくしている顔立ち。


 ———そして、自分と同じ顔


「何があったの?」

 軽く息をついたうえで朗人は尋ねた。のと始業が近いからだろう、教室には廊下にいた生徒がぼちぼちと戻り始め授業の準備を始めている。出している教科書は数学。


「六限目の音楽の授業が数学に変更になったの」

 。原因はソレかと朗人はため息代わりに英子に笑顔を向ける。


「ハナは数学大得意じゃん」

 昨日の夜遅くまで、何度も楽譜スコアを眺めていた努力家の英子ハナコの姿を思い出しつつ、朗人は体調不良で早引きしたと思われる音楽教諭・袋井に心の中で悪態を打つ。

「今日はこの歌をで歌いたかったの」

 癇癪で皺くちゃにしてしまったのであろう楽譜をじっと見つめる英子の瞳にまた涙が溜まっていく。

「いい歌だもんな。それ」

 首をコクリと縦に振ったのは当然、同意の印なのだが、今の英子に必要な言葉はその向こう側にある。


「昨日一生懸命練習したんだよ」

「知ってるよ。隣にいたじゃん」

 肯定。それは気持ちを整えるための第一段階。


「楽譜にもたくさん覚書して今日に備えてたの」

「そういや、昨日一生懸命書いてたもんな。くやしいよな」

 思いの認識。なぜ感情がそこに至ったかを言葉に出すことで気持ちの整理を促す。


「音楽が別の日になったのが悔しくて、大きな声で叫んでたり、プリントをぐしゃぐしゃにしたりしちゃった」

「そりゃ、みんな驚いたろ? 」

「うん」

 行動と結果を知る。気持ちを整える際に難しい過程のひとつ。


「次の音楽は、いつだっけ?」

 黒板の左上に模造紙で書かれている時間割に目をやりつつ、朗人は尋ねる。

「連休明けの木曜日の四限目」

 要求達成の確認。近い将来、目的が果たされる事を認識し、感情の落とし所を探る。


「楽しみは再来週へ持ち越しだな、ハナ」

「うん」

「残念だったな。あれだけ練習したのに」

「うん」

 再度の肯定。それは反省を促す前に必ず行わねばならない工程。


「もう大丈夫。ありがとうアキ。だいぶ気持ちが落ち着いた」

 涙を拭いたハンカチを握りしめ英子は大きく頷いていた。

 ふたりの会話に飛んでくる無関心と嘲り、そして憐憫の視線。慣れているとは言え、その全てが腹立たしい。だが、ここで怒りを露わにすれば負けだ。朗人は誰にも聞こぬよう、奥歯をひとつ鳴らし言葉を続けた。


「…… ハナ、今日は帰りカラオケに寄って、この歌を俺と合唱しようゼ! 」

 思わず出た言葉。それは周りに対する抗議と朗人の精一杯の見栄だった。


「ホントっ⁉ おじいちゃんに怒られない? それにのお散歩もあるよ」

「大丈夫だよ。じいさんにはナイショにしとけばいい。の散歩もカラオケを30分だけにすれば問題ないだろ? 放課後、三時半に校門で待ち合わせなっ! 」

 目を輝かせる英子にウインクして返す朗人。


「いいアイデアだね、アキ! 」

「だろ? 」

「じゃあ、数学頑張る」

「数学頑張るより先に何か忘れてるぜ」

 大きく頷き俄然やる気を見せている英子に朗人は大切な事を促す。

「謝らないといけないね」

 回顧と反省。行った事に対しどう事後処理をすれば良いかを感情ではなく、理屈で知る。


「その通り! 」

ゴメンね」

 後ろを向き大きな声と共に頭を下げる英子。その姿には中学二年生という年頃の女の子とは思えない程の無邪気さがある。


「ハナちゃん、気にしなくていいよ。私たち友達なんだから」

 だが、呼び掛けたからの返って来たのは、又従姉妹またいとこである森山寿々もりやますずの言葉のみ。

「悪いな、

 朗人はそう大きな声で告げると、唇を噛みしめながら1-Aの教室を後にし、大急ぎで着替えると、体育の授業を受けるべくグラウンドへと向かった。



 ************************************


「おいっ! 遅れると部長にどやされるぞ!」

「やべっ! もうこんな時間じゃん」


「ゲーセン寄って帰ろうぜ! 」

「いいねえ。俺も本屋によって、Mi-aミーアの写真集買いたいんだけど、付き合ってくれる? 」

「WebTuberのMi-aミーア? あんなアバターもどきの何処が良いんだ? 

 だいたい、アソゾンでポチれば済む話だろ? 」

「アバターもどきとは酷いなぁ。それにな真のファンはアソゾン版と書店限定版の両方を買うんだよ」


 SHRの終わった教室は部活へ向かう者、自宅へ帰る者など、それぞれが授業終了後の独特のテンションの為、かなりの賑わいを見せていた。


伊多いだ、ちょっといいか? 」

 帰りの支度をしている朗人を不意に呼び止める声。

「何だよ、愛甲あいこう。俺用事があるんだけどな。急ぎでなければ明日にしてくれると助かるんだけど」

 英子ハナと行動するうえで大きな時間のズレは出来るだけ避けるのが基本。それ故、待ち合わせをしているタイミングで話しかけられるのはありがたい事ではなかった。


「すぐ終わる。お前、サッカーに興味はないか? 」

「無いよ」

「取りつく島もないな」

 朗人の間髪置かぬ即答に愛甲が苦笑いを漏らす。


日南大付属中ウチのサッカー部、二年が五人しかいないんだよ。三年生たちが引退したら、部員が十人になっちまうんだ」

 人気のありそうなサッカー部が部員不足とは、いかにも『お坊ちゃんボンボン学園』と揶揄される日南大付属中にありそうな事だった。


「気の毒だとは思うけどさ、俺、サッカーなんか授業以外ではしたことないんだよ。それにウチくらいのマンモス校なら経験者は結構いるんじゃないか? 」

 鞄の中に教科書を詰め終わった朗人は腕時計で時間を確認しつつそう返す。


「いるとは思う。だけどオレは伊多朗人いだあきら、お前をスカウトしたいんだ。今日体育の授業で見た限り、お前の身体能力は図抜けてる。ハッキリ言って学年No.1だ。そのガタイだってトレーニングしてなきゃ作れるモンじゃないのは誰にだって理解わかる。お前を帰宅部にしておくのはもったいないんだよ」

 制服の下で隆起する細すぎず付け過ぎずの僧帽筋や大腿筋。確かにそれらは日々の鍛錬によるモノだった。


「すまないけど、俺には憧れみたいのがあってさ。その為に鍛えているだけなんだ。だから部活はサッカーに限らず、するつもりはないんだ」

 朗人はそう答えながら鞄を肩に掛ける。愛甲は諦めたのか大きく息をついていた。


「あーあ、当てが外れちまった。でも、やりたい事があるんなら仕方ないな。お前、頑固そうだし、これ以上誘っても無駄っぽいな」

「悪ィな。頑固で」

 少し嫌味交じりだが、カラっとした笑顔を向けてくる愛甲あいこうに朗人は苦笑いで返す。


「で、お前の憧れって何なんだ? 」

「オレンジ色の隊服を着る事だよ」

 朗人は即答する。

「オレンジ?」

「ああ。小四の時からの決めているんだ」

 意味が分からないという表情をしている愛甲に向かい朗人は大きく頷くと、こう続けた。


「ありがとな愛甲。部活がんばれよ! 誘ってくれて嬉しかったゼ」

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