4.

 

 傘を持って戻ってくると、少年はベンチに腰かけてノートを開いていた。俺に気がついて顔を上げ、ぱたりとそれを閉じる。


「それ、なんの勉強?」


 隣に座りながら尋ねると、彼は閉じたノートに目を落としてから再びこちらに顔を上げる。


「本の」


「本?」

「……小説」


「国語か」


 俺の言葉に少年は「んー」と小さく唸る。数秒なにか迷ったようにそうして、やがて首を横に振った。


「小説の、勉強」


 あまり理解できずにいる俺のことを察したのか、少年は続ける。


「好きな小説の、一番好きなところを写すノート」


「へぇ」


 小説を自主的に読んだことのない俺には、あまりに非日常の言葉だった。少年は以前と同じようにノートを胸の前に抱きしめている。


「小説が好きなのか」


 俺の質問に、少年は即座に頷いた。怯えていたり、驚いていたり、迷っていたり、ずっと眉を寄せている少年だった。けれど今、頷いた横顔はどこか誇らしげで、俺は思わずその表情に目を留める。


 自分がなにかを好きだと、胸を張れたのはいつのことだっただろうかと思った。


 少年はちらりと俺を見て、再び口を開く。

 何か言ったのか声が漏れるけれど、聞き取れずに俺は「ん?」と言った。少年は真っ直ぐに地面を見つめたまま息を吸う。


 「……ぼくも、こういうのを書けるように、なりたい」


 その声は終わりにつれて小さくなって、言い終わったころには再び眉を寄せていた。


「小説家になりたいってことか?」


 ほんの微かに、彼は頷く。


「すげー。カッコいいじゃん」


 それから、俺の言葉にぱっと顔を上げこちらを見る。

 彼は黙ったまま俺の目をしばらく見つめた。やがて地面へ視線を戻し、


「たぶん、なれないけど」

 と呟く。


「なんで」

「……先生も、お母さんもお父さんも、そう言ってた。小説家になるなんて無理だって」


「……」


 俺はふと、手元の折りたたみ傘に目をやった。

 将来の夢。そんなものが自分にもあったと思い出していたのは、ちょうど、ついさっきのことだった。この傘を家に取りに行って帰ってくるあいだ、どうして急にそんなことを思い出していたのかは、自分でもわからなかった。ただ、彼に出会うことで自分が小学生だったころのことが蘇ったのかもしれない。


 俺は今までの人生で、将来の夢というものを一つだけ思い描いていたことがあった。もうずいぶんと昔のことのように思えるけれど、ほんの数年前の話だ。

 あの頃の俺の日課は、塾から帰って晩ご飯を食べたあとにお気に入りのビデオテープをテレビで観ることで、朝は同じことのために早起きをした。毎日毎日繰り返しテレビに映っていたのは、今でも思い出せるくらいに覚えてしまった物語。数や種類こそたくさんあったけれど、物語の結末はいつも同じ。街を脅かす悪役を、ヒーローが倒すハッピーエンド。俺は、ヒーローになりたかったのだ。


 同じような同級生はいた。一緒になって名場面の真似をしたこともあった。だけどだんだんと周りはそれに興味を示さなくなっていって、俺も徐々にそれに続いた。いろいろなきっかけがあったけれど、テレビで見ている物語は創り物で、憧れたヒーローが役者という職業だと理解した頃、それは明確に俺の将来の夢ではなくなった。 


 それでも憧れは心の中に残っていた。たとえあれが創り物だとしても、「ヒーロー」は現実にも存在する。悪いことを良しとしない、弱いものを助けられる、それはほとんど「正義」と呼ばれる人間だ。そしてヒーローは、自分の正義を信じられる。


「諦めるのか?」


 彼はなにも言わなかった。少なくとも、頷きはしなかった。

 

 こんな時に、ヒーローならなんて言うのか。考えてもわからなかった。当たり前だ。俺は、ヒーローじゃない。

 ヒーローは、落とし物を拾ったくらいでそれをアピールしたりしないし、誰かに軽蔑していると言ったりしないし、考えもなしに子どもに感情的に怒ったりしない。だから俺はヒーローにはなれない。悪いことを正す力なんて持っていないし、逃げたい時には目を瞑る。


 正しくないことにどれだけ嫌気がさしても、正しいことだけを貫き通すことなんて無理なことだと諦めている自分もいる。テレビの中の憧れはいつだって輝いていた。だんだんとそれが眩しくなって、最後には見られなくなった。ヒーローのビデオテープはこの町へ越してきてすぐに全部捨ててしまった。


 残ったのは、中途半端な憧れだけだ。憧れというのは、自分のなれないものをそう呼ぶのかもしれない。はじめから、俺にとってヒーローは将来の夢ではなくて、憧れだったのだ。俺はヒーローにはなれないし、その真似事すらままならない。

 俺は自分の正義を信じられるわけじゃない。自分が正義だと信じたいだけだった。


「なりたいものは、先生とか親とかに決めてもらうもんじゃないだろ」

「……」


「なれるかどうかなんて、先生も親も、俺も、お前も、わかんねぇぞ。でも、なりたいかなりたくないかを決めるのは、お前だろ」


 そう口にしてしまってから、夢を諦めて目標すらない自分がなにを偉そうなことを言っているのだろうと思った。

 

 強い春風が吹いて、目を細める。

 それが止むのと同時に少年がぱっと立ち上がって、俺は目を開けた。彼は俺の目の前に移動して、ノートを抱きしめたまま真っ直ぐにこちらを見る。眉間の皺は消えていて、目には力強さが宿っていた。


「……ぼくは、小説家になりたい」


 声は小さかったけれど、迷いはないように思えた。


「おー、頑張れ」


 言いながら、俺は少年に傘を返す。「ありがとうございます」と少年が言う。


「俺も、傘貸してくれて助かったよ」


 俺から受け取った折りたたみ傘をショルダーバッグにしまっていた少年は顔を上げ、えへへ、と笑う。それから「じゃあ」と言った彼に俺は手を振って、公園を出ていく後ろ姿を見送った。


 一人残った俺は、ベンチに座ったまま両手を頭上に伸ばす。まだ日が高い。風が強く、空は雲ひとつない快晴だ。視界の端にひらりと、小さな花びらが舞っていく。細い桜の木に目をやると、花はほとんど散って葉も付け始めていた。

 明日から新学期だ。二年になれば、生徒指導部にアルバイトの許可が取れることになっている。アルバイトをして、金を貯めて、高校を卒業したらこの町を出よう。それだけが今の俺が考えられるせいぜいの将来だ。


 桜の枝が揺れる。そうなると、この桜も来年で見納めになるのか、と思った。が、やっぱり毎年ここに桜を見に来ようと思い直して、深呼吸をした。



夢見草の町 完

 

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夢見草の町 文月 螢 @ruta_404

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