3.

 

 小学生のころ、俺は母親に言われて塾に通っていた。学校の帰りに直接塾へ行き、家に帰るのはいつも日暮れの終わり頃だった。


 そんなある日、どうしてだったかいつもより早く帰ることがあった。まだ日が高い帰り道、俺は自宅アパートの前で母親とばったり会った。母親は、知らない男と一緒にいた。


「お母さん!」


 俺は声を上げて母親に近づいた。俺は母親を見ていて、母親も俺を見ているはずだった。けれど、母親は俺からぱっと視線を逸らすと、一緒にいた男の腕を引っ張るようにして背を向ける。遠ざかっていく母親の背中を見ながら、俺は自分の存在が無くなってしまったような感覚を覚えた。


 母親が家に帰ってきたのは、翌日の朝だった。父親はいつも通り出張中で、夜のあいだ家で一人だった俺はひどい不安に襲われていて、ドアの開く音を聞いた途端に玄関へ走った。

 母は、駆け寄った俺の頬を平手打ちした。


「なんで昨日塾行かなかったの!?」


 行かなかったわけじゃないと説明する余裕なんてなく、泣き喚く俺に母親はなにも言わなかった。


 あの時の男が母親の浮気相手だったことは後になって知った。俺が中学に上がる前に母と父は離婚し、俺は母親とこの町に越した。父親は元々出張ばかりでほとんど家に帰らない人だったから寂しさはあまりなかったけれど、それよりも新しい父親ができるということには抵抗があった。


 そんな俺に、母親はとある決め事をした。それは、昼前から日暮れまで家から出ていること。

 俺に浮気現場を見られていたからか、母親はどこか吹っ切れたように言った。あの男は子どもが嫌いだからあまり会ってほしくない、と。夜のあいだに仕事を始めた母は、昼間は男と家にいる。要はその時間に俺が家にいると邪魔なのだ。

 俺は新しい父親なんていらなかったし、男は俺を好かないらしいし、母親は恋に夢中。誰の損にもならないその決め事に俺は従うことにした。



 春休みの最終日、いつも通りに家を出た。カラオケに行って時間を潰そうと思っていたけれど、混んでいるせいで長居ができず予想以上に時間を持て余す。町を適当に散歩しようと思っても、駅の北側は桜祭りの最終日で人が溢れているだろうし、結局見慣れた住宅街をふらふら歩くことにした。やがて、気がつけばいつもの公園のそばを通りかかる。


 公園からは、珍しく子どものはしゃぐ声がした。気にせずベンチで休んでもよかったけれど、なんとなく騒ぐ声を聞いている気分にはなれそうになくて、そのまま通り過ぎようと思った。


「返してよ!」


 しかし、そんな声が聞こえて足を止める。思わず公園に目を向けると、声の主はやはりあの少年だった。普段は友達とはしゃいだりもするんだな、と思ったけれど、どうやらそういうわけではなさそうだ。


 公園には少年の他に、同じ年齢くらいの子どもが三人。三人は笑いながらなにかをパス回ししていて、少年はそれを追いかけるようにして再び「返して」と叫ぶ。心臓のあたりにじわじわと不快感が広がった。


 俺は公園の中へと進み、四人に近づく。はじめに見知った少年と目が合って、一人、また一人と俺を見上げた。最後までこっちに背を向けてけらけらと笑っている少年が俺の目の前で右手を上に掲げたので、俺は彼が手に持っていたものを取り上げる。見覚えのあるノートだった。


「え?」


 ノートを手放した少年がようやく振り返って俺に気がつく。驚きながらも、にやにやと笑っていた。


「なんだよ! 返せよ!」


 手を伸ばしてノートを掴もうとするので、俺は届かない高さまでさらにノートを掲げる。


「これ、あいつのだろ」


 肩から提げたショルダーバッグを握りしめる少年に一瞬目をやる。


「関係ねーじゃん!」

「そうだぞ! 邪魔すんなよ!」


「嫌がってんの、わかんねぇのか」


「はあ?」


 そう言い返す少年に、視線を返す。


「……やめろっつってんだよ」


 俺はいつの間にか、本気で腹が立っていた。目の前の少年から次第に笑顔が消える。


「ちぇっ、なんなんだよ。……もう行こうぜ」


 そう言った一人が走り出し、二人がそれに続いて彼らは公園から出て行った。


 複雑な表情をしている少年と目が合って、しまった、と思った。俺は少年の前にしゃがんで、ノートを差し出す。


「……悪い。余計なことしたな」


 少年は首を横に振り、ノートを受け取る。

 しばらくの沈黙。何だかいたたまれない気持ちになって立ち上がろうとした時、少年が息を吸うのがわかった。「あ」というほんの小さな声がして、しゃがみ込んだまま意識を向ける。


「ありがとう」


 小さいけれど、はっきりとした声。俺は今度こそ立ち上がった。


「こないだ借りた傘、持ってくるから。十五分。ここで待ってろ、な?」


 少年は驚きながら、ただただ頷いた。


 

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