2.
雨が降り出しそうだな、と正面に空を見上げながらぼんやり考えていた。
人通りの少ないこの住宅街にはいくつか利点がある。まずは基本的に静かなこと。俺は自分が都会のような場所に住むのに向いていない人間なのではないかと、春の人混みを見るたびに思うのだ。人と一緒になって騒ぐのも得意ではない。
次に、子どもも滅多に集まらないような公園があること。たとえば時間を潰すためだけに長い時間ベンチで座っていても、ほとんど人は来ない。一人が好きな俺にとっては、居心地の良い数少ない場所だ。
そして今、新たな利点を知った。それはなにかと言われると「人通りが少ないこと」という言葉に収まってしまうのだけれど、俺は公園の地面で仰向けになったまま改めてそれを痛感していた。こんな情けない姿を、何人もの通行人に見られるのはごめんだ。
大きな溜め息をはきだす。口の端がぴりぴりと痛んだ。口内には微かな血液の味が続いている。人に殴られたのは人生で二度目だった。
ことの始まりはほんの十五分ほど前だったと思う。
春休み、平日に学校がないことは俺にとっては憂鬱だった。学校が好きというわけではないけれど、何も考えなくても一日の時間が自動的に流れていくという点でいえば便利な場所だ。しかしそれが休みになると、家に居られない俺は昼前から日暮れまで家の外でどうやって時間を潰そうかと考えなければいけないのだ。だから長期休みは好きになれない。
この春休みは何人もの知り合いの家を日ごとにまわり、予定のない日は一人でどこかへ出かけるか、この公園で時間を潰した。今日は誰の家に行く予定も出来ず、カラオケで課題を終わらせてから残りをこの公園で潰すことにしていた。
慣れた住宅街を無駄に遠回りしながらゆっくりと歩いて、午後五時を過ぎたころに公園の入口についた。三十分ほどベンチでぼうっとするか、と考えたとき、公園に先客がいることに気がついて足を止める。
見るとベンチのところに男子が三人、制服を着ていたので高校生だとわかった。すぐに離れればよかったのだ。入口でほんの数秒立ち止まったのが運の尽きだった。
「あれー?」
三人のうちの一人が大きな声を出し、残りの二人もこちらを向く。
「げ」
と小さく声が漏れた。同時に、自分が三人の顔を知っていることに気がついていた。三人は、通っている高校の同級生だった。ベンチに座って足を組みながら声を上げたのが片岡。立っている二人も知っているけれど、名前まではわからない。校内でも一緒にいることの多い彼らのことを俺は「片岡たち」とだけ認識しているせいだった。
「ちょうどいいや。こっち来いよ」
でかい声にでかい態度。少し癪に障って、無視して帰ろうかという選択肢がよぎる。だけど、面倒事を先送りにしてさらに増えたりでもしたらと思うと、それはいい考えじゃなかった。
「……なに」
片岡の前まで行って口を開いた。両側に立つ二人がにやけているのが横目に見えて、不愉快だった。一方で、ベンチから俺を見上げる片岡は機嫌がいいようには見えなかった。
「お前、こんなところで何してんの?」
お前らこそ、と心の中で言った。俺はこの町に住んでいる。お前らこそ、なんでわざわざ春休みに制服なんか着て、こんな何もない町に。そこまで考えて、ああ、今は桜があるんだった、と思い出す。
「こいつ確か北中だぜ」
そうしている間に、右の男がそう言った。
「なるほどね」
片岡はそう返して頷きながら立ち上がる。
こうやって片岡と差し向かうのは初めてのことじゃなかった。
つい二週間前に、昼休みの廊下で俺は片岡に呼び止められていた。片岡とはクラスが違ったからほとんど喋ったことはない。何かと目立つ奴だから知ってはいたし、クラス合同授業の体育で何度か関わった憶えはあったけれど、わざわざ呼び止められる仲でないことは確かだった。あの時の片岡も、機嫌が悪かった。
ーー「お前が美月にちょっかいかけてるって話、聞いたんだけど」
俺も知っているくらいだ、吉野美月と片岡のカップルは、学年で知らない奴はいないほどだと思う。それでなくても吉野は片岡と同じくらいに目立つ女子だけれど、まともに喋ったことなんて片岡以上にないはずだ。
あの日は俺が「は? 話したこともないけど」と言うと、片岡は舌打ちをして「あんま調子乗んなよ」と言い残し去っていった。
いったいどこからそんな話が流れたのか、あの時はまったくわからなかった。あり得ない話すぎて、人違いか、それとも機嫌が悪いことの憂さ晴らしに適当な標的にされたのかと思った俺は、気に留めることもしなかった。
だけど、公園で再び片岡に呼び止められた時、とんでもなく面倒なことになりそうだと俺は確信していた。
ほとんど殴られるように胸倉を掴まれ、むせそうになるのと溜め息をはきそうになるのを一緒に飲み込む。
「美月に手出したらしいじゃん」
片岡の口調は意外と落ち着いていた。もっとうるさい奴だと思ったな、と呑気なことを考える。
俺が吉野の手を出すだって?
笑ってしまいそうになった。
「何の話?」
「とぼけんじゃねぇよ」
そっちこそふざけてるのか。そう言おうとしたけれど、片岡は真面目な顔をしていた。
俺が吉野美月と話すことになったのは春休み二日前の放課後、片岡に廊下で呼び止められた数日後のことだった。
長期休み前の半日授業の日、俺は決まって夕方までの時間潰しのため学校に残ることにしている。せっかくの半日授業だ。わざわざ居残る奴なんて他にはいない。俺は教室で一人春休みの課題を広げながらも、午後の日差しに眠気を誘われていた。誰かが教室に入ってきたのはその時だ。
目が覚め、入ってきた女子が隣の席に座ったと思ったときに、それが吉野であることに気がついた。
初対面に近いはずの彼女は、俺になにか話をした。やけに馴れ馴れしいと思うばかりで内容はあまり憶えていない。それほどにどうでもいい話題にしびれを切らした俺は、「何か用?」と訊いた。すると彼女は、俺の気がつかないうちにすでに本題を一度話していたのか、聞いてなかったのという風にそれを口にした。
私と付き合わない、という彼女の言葉を思い出して胸が悪くなる。
俺は彼女から目を逸らしたまま、「片岡と付き合ってるだろ」と言った。そもそもそれ以前の話だったが、面倒事の予感がして早く片付けて一人になりたかったのだ。手短に突き放そうとする俺をよそに、彼女はけろりと「それは関係ない」と言う。「あいつと違うタイプだし」とか、「一人じゃ飽きちゃうし」だとか、わけのわからないことを言っていたけれど、俺は腹の底でぐつぐつと沸き上がる不快感でそんなことを真面目に聞いている気分ではなかった。だいたい、一人の時間を邪魔されて、俺は機嫌が悪かったのだ。
「俺、浮気する女って、マジで軽蔑してるから」
無意識に口からそう漏れていた。うるさかった彼女が黙ったので目を向けると、吉野は顔を真っ赤にしていた。気に障ったのは明らかで、無視をして帰ったほうがよっぽどマシだったと後悔しても手遅れだった。
「おい聞いてんのかよ」
片岡の声で我に返る。
「美月に何した」
そんなこと、俺は知らない。あの女が片岡にどんな話をでっち上げたのか、俺には見当もつかない。ありもしない話に真剣になっている片岡にも、だんだん腹が立ってくる。
くだらない。
恋だの愛だの、本当にくだらない。
「……お前、なんであんな女と付き合ってんの?」
片岡が俺の質問に答えるわけもなく、代わりに拳を食らうことになったのだった。
ぼうっと空を見ながら、今さらになって大事なことに気がつく。
「……俺、否定したっけ?」
こっちにとっては当然のことすぎるせいで、片岡の疑いにはっきりと否定の言葉を返していなかったかもしれない。大きな溜め息をはく。
すると、空からぽつり、ぽつりと水滴が落ちてきて頬に当たった。とうとう雨が降ってきたらしい。そろそろ家に帰ってもいい時間だろう、と思うものの、なんとなく立ち上がる気力が湧いてこない。その間にも、雨は徐々に強くなり始めた。
細く、音もない、春の雨だ。風だけがやけに強くて、雨粒に紛れて小さな花びらが舞うのも見えた。こんな雨でもここの桜はすべて散ってしまうのだろうと思う。勝手に感傷的な気分になって目を瞑る。
春雨が急に音を出したのはその時だ。
目を開けると、視界はうっすらと黄色に染まっている。数秒、それが傘で、聞こえているのはその傘に雨粒がぶつかる音だと理解するのと同時に、
「だ、大丈夫、ですか」
という声が耳に入った。
傘から左へ視界を移すと、数日前にこの公園で出会った少年がいた。少年は恐る恐るといった様子で、持っている黄色い傘を俺の顔の方へ差し出すように立っている。
「おぉ、また会ったな」
地面から小学生を見上げる日が来るなんて。
何とも言えない気分になりながら体を起こして、少年の前にしゃがみ込む。
「大丈夫ですか……」
再びそう言った少年に、俺は頷く。
「天気予報見てなくてさ」
笑ってみるけれど、少年は眉間に皺を寄せている。俺は視線だけでざっと公園を見回した。片岡たちはとっくにどこかへ行ったみたいで、いつものように公園には人気がない。少年は今日も一人のようだ。
「何してんの? こんなとこで」
出来るだけ優しく言ったつもりだったけれど、少年の表情は変わらず、胸の前ではこの前と同じ重そうな白いショルダーバッグの紐をぎゅっと握りしめている。それでも少年は「塾の、帰り道だから」と小さな声で答えた。
「塾行ってんのか、偉いな」
「……」
少年は微かに首を横に振る。
「小学生?」
「……」
次に、小さく頷く。
最近の小学生は大人しいな。それともこの子が無口なだけなのか、そもそも俺が怪しいか?
そんなことを考えていると、小さな口が再び開く。
「あ、の……傘、使いますか?」
「傘? お前が困るだろ」
首を横に振った少年は、大きなショルダーバッグから折り畳み傘を取り出して俺に半ば強引に押しつける。
「貸してくれんの?」
頷いた少年はそれ以上俺の返事を聞かず、「じゃあ」とだけ言い背を向けて、早歩きで去っていった。
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