夢見草の町
文月 螢
1.
満開になるのは、三月の末になるだろうと言われていた。
小さな公園のベンチに背を預け、両足を伸ばしながら空のほうを見上げると、桜の枝の先が視界に入って、今朝見かけたニュースを思い出した。地方のニュース番組には、見慣れた町が映っていた。
一年前に卒業した中学校のそばを流れる県内で最も大きな河に沿った堤防では、毎年大量の桜が咲き誇る。そのため、春になるとみんな一斉に思い出したかのようにあの場所は突然観光スポットになるのだった。
桜は見ごろ間近だ。
それでもこの辺りは、河と駅を挟んでいるおかげで普段の閑散さを保っている。ただでさえここは、古い木造家屋の多い住宅街の中に紛れた小さな公園だ。あるのは錆だらけのブランコと滑り台、長い間なにも植えられていない花壇、ベンチが二つ、それから細い桜の木が一本だけ。
視線の先で、それは終わりかけの夕焼けに照らされながら春の風に揺れている。幹は細いし、花も蕾も多くはなかった。それはまだ樹齢が短いだけなのか、もうこれ以上は育たないのか、俺にはわからない。ただ、この町では「桜」とも呼ばれないのではないかと思った。
実際、去年までの三年間であの河以外の桜を見た記憶が俺にはない。町にはあちらこちらに桜の木があるはずだけれど、あんな風に咲かれてしまうと、記憶は上書きされて他のものはまるで最初からなかったかのように消えてしまう。
あまりに強烈なものというのは、そう思うと残酷だ。
頭上の桜は、名の知れた桜並木のことをどう思うだろう。人々に称賛され愛される一方で、まるでないものとされる自分のことをどう思うのだろう。
少し考えて、馬鹿馬鹿しくなって溜め息をはいた。長かった夕暮れもやっともうすぐ夜に変わる。俺は両手を伸ばして一息ついてから、立ち上がろうとした。
その時、公園の入口に人影が見えた。
視線を向けると、少年がひとり公園に入ってきた。小学生くらいだろうか、小さな体に似合わない大きな白色のショルダーバッグを斜めにかけた少年は、ちらりと俺の方を見る。視線が合うと、彼は慌てて目を逸らした。それから小走りで少年が向かったのは、俺が座るのと横並びに置かれたもう一つのベンチだった。
そのベンチには、大学ノートが一冊置かれている。それは、今日ここへ来たときに俺が置いたものだった。というのも、ノートは地面に落ちていて、公園には誰もいなかったので、落とし物ならばそのうち取りに来る人がいるかもしれないと思ったのだ。砂にまみれるよりは、いくら塗装が剥げていてもベンチの上のほうがマシだろうと思った。
落とし物の持ち主は、この少年だったらしい。
ベンチの前で立ち止まった少年は、ノートを拾い上げる。
「それ」
俺が声を出すと、彼は大袈裟すぎるくらいに体をびくつかせてこちらを向いた。驚かせるつもりはなかったので、なんだかこっちも少し驚いてしまう。
「お前のだったのか。落ちてたんだよ、地面に」
少年は顎を引き、ノートを胸の前に両手でぎゅっと抱きしめながら俺をじっと見た。睨んでいるようにも見えたし、怯えているようにも見えた。やがて、
「……拾ってくれて、あ、ありがとうございます」
と言う。子どもらしい高い声だった。俺は頷くことで答える。少年はノートを大切そうにバッグへ入れる。左肩に当たったショルダーバッグの紐で少年の着ている長袖のTシャツの肩の部分はかなりよれて皺になっていた。見るだけでもバッグが重いことがわかる。
「一人で帰るのか? もう暗くなるから気をつけろよ」
俺の声に少年は再び驚いて顔を上げ、何度かぶんぶんと頷くと走って公園を出て行った。ワンテンポ遅れて、俺も帰路についた。
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