第35話 決断

 病院からタクシーで二十分の所に指定された喫茶店があった。沙羅の事を真美に任せて出てきたものの、弘志は自分の性急な行動に不安を感じる。


 子供の父親とはいえ、沙羅の真意を無視して会ってもいいのか迷う。今更何を言っているんだ、沙羅に会いに来たたくみだ。代わりに父親として話を聞こうと自分を奮い立たせた。深呼吸して店の扉に手をかける。店に入ると、


「来栖さんですよね?こんにちは」突然声をかけられて、弘志は驚く。

小笠原拓海おがさわらたくみといいます。お時間とって下さりありがとうございます。奥の席でいいですか?」


 声をかけてきたのは、電話でたくみと名乗った若者だった。電話での話し方とは全く違う。弘志は焦りながらも、拓海の案内された席に座った。


「初対面なのにどうして分かりましたか?」

「沙羅に似ていますから。すぐに沙羅のお父さんと分かりました」

「……そうですか。何と言っていいのか。で、沙羅のアパートに行った理由は何ですか?その件で会いたいと……」

「えっ、奥さんから聞いていないんですか?」

「……、……」弘志は返事に困った。聞いていないどころか、久美子と拓海が面識があったのもさっき知ったばかりだ。久美子が亡くなった事も知らないようだ。今、知らせるべきか、いやこれっきりかもしれない。弘志は考えあぐねおしぼりで手を拭く。拓海も同じ動作をし、水を一口飲んで言った。


「俺、あっ、僕決めたんです。決めたから沙羅に会いに行きました」


 主語も述語もない拓海の言葉に弘志は首を傾げる。寝不足も手伝って少し声を荒げ、何を決めたのか一から分かるように説明して欲しいと言う。拓海はオーダーを済ませてから弘志の目を真剣に見て言った。


「……沙羅さんとの結婚です。……沙羅さんと結婚させて下さい!」

「……、えっ」

「一ヶ月くらい前かな、沙羅の母親と名乗る人に会いました。どこで知ったのか沙羅のお母さん、僕の通う大学まで来たんです。沙羅にはもう会わないと言われてましたから、驚きました」

「久美子がですか、その時なんか言ったんですか?」


 一ヶ月前といえば、弘志が沙羅の妊娠を久美子に告げた頃だ。まさか久美子はその事を言う為に拓海を探したのか?いや、久美子が沙羅の彼氏の名前を知っているはずが‥…ない。いや待てよ、弘志が色々憶測していると、拓海が話す。


「……沙羅に子供が出来た事を告げられました。事実を知った僕がどうするのか知りたかったのでしょう。沙羅はシングルマザーになる事を決意していると聞かされました。正直迷った。まだ僕は大学生だから……」


「君は沙羅の事を疑わなかったんですか?」

「……沙羅だから。沙羅は迷惑かけないように仕事を辞めて、突然僕の前からいなくなりました。沙羅が考えそうな事です。僕、将来医者になるんです。僕の将来の事を考えて沙羅は、いなくなったと、思うんです」


「……そうですか、しかし、沙羅にだって将来はある。君は何か、医者になる自分の将来の方が価値があるとでも思っているのか!子供に対する責任はあるのか!」


 弘志は憤った。と同時に子供に対する責任感の事を問えないと、次の言葉をのむ。拓海は顔をしかめて、久美子にも同じことを言われたと、力なく言った。


「……だから、沙羅との事真剣に考えました。僕は沙羅の事をまだ好きです。沙羅も同じ気持ちだとお母さんが教えてくれました」

 

 久美子はなぜ沙羅の気持ちを知っているのか、疑問はすぐ解けた。沙羅が双樹にメールをしていたのだ。本当は別れたくない事、結婚したい事、父親のない子にしたくない胸の内を全て双樹にさらけ出していた。


 久美子は沙羅の思いを汲み取って拓海に会ったのだと思いたい。


「お母さんは沙羅の気持ちを伝えてくれて、頭を下げました。沙羅との結婚を懇願してきました。僕もしたいと思った。けど、障害が一つあったんです。沙羅は付き合いはじめの頃教えてくれました。自分は儚仏真理教の信者だった事と母親はまだ信者だと……」


 拓海はその障害がなんであるかを言葉を選びながら話してくれた。弘志の想像通り母親がカルトと呼ばれる新興宗教に属している事だった。拓海は医師免許を取ったらゆくゆくは家の医院を継ぐと決まっている。輸血拒否で有名な信者を身内には出来ないと親は承諾してくれなかったという。


「……君も、君の御両親の気持ち分かります。そう考えて当然でしょう。けど、拓海君は結婚してもいいと決断してくれたんだね、何故?」


「……はい、沙羅のお母さんから教団を辞めると連絡を貰ったんです!」


「……久美子」弘志は息をのみ、久美子ともう一度呟く。久美子が断絶届けを書いた理由は沙羅の結婚、沙羅の幸せのためだった。弘志はおしぼりを目頭に当てた。嗚咽が漏れる。拓海は困惑してコーヒーが冷めないうちに頂きますと言った。


「……ありがとう、拓海君。大きな決断をしてくれて。ただ沙羅の気持ちは父親でも分からない。それより、君に話しておきたい事があるんだ」


 弘志は全てを包み隠さず話した。沙羅にプロポーズした後で事実を知ったらこの青年はもっと苦しむ事になる。沙羅の兄双樹の事、久美子の死、沙羅が切迫早産の危機で入院している事全てを話した。


「……また状況が変わったんだよ。拓海君、君の将来に関わる大きな決断だ。もう一度考える直す必要があると思うんだ。……今日は、ありがとう」


 弘志は伝票を手にして先に席を立つ。振り返ると、拓海は残された席で俯いたままだった。

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