第34話 無償の愛 3

 弘志が病室に着くと、沙羅の家に着替えを取りに行った真美と深刻そうに話しているのが聞こえた。


「沙羅ちゃん、後悔しないの?意地をはってはだめよ。会うだけでもあったら」

「……でも、一度決めた事だから。あっ、お父さん」

 沙羅は弘志に気がつくと、真美に向かってシッと人差し指を口に当てた。

「……沙羅、体調はどうだ?……母さんのタンスからこんなものを見つけたんだ。俺らには下らない書類でも、お前たちには辞める為の大事な物じゃないのか?」


 弘志は、久美子の断絶届けと、封筒から一枚の用紙を出して、沙羅に見せた。

「どうして!お母さん、断絶届けを持っているの?」


 沙羅は困惑した。久美子は辞める事をいつ決心し、いつ署名したのだろうか。


 日付を確認すると、久美子が亡くなった日だった。沙羅が来るのを待っていたあの日の日付だ。久美子は沙羅から復帰する気はないと言われ、迷ったに違いない。娘が辞めるなら、一生関わる事が出来なくなる。沙羅を取るか、教団に一人残る道を選ぶか、相当迷ったはずだ。


「……久美子は辞める事も考えていてくれたんだ。良かったよ。嬉しいよ。お母さんは自分の信仰より沙羅と生まれてくる子供を選んだんだな」


「……お父さん、それは違うと思う。お母さんは信仰を捨てたんじゃなく、教団を捨てたんだよ!儚仏真理教の腐敗を知って、マインドコントロールが解けたんだと信じたい。お兄ちゃんのおかげだよ。良かった」沙羅は涙が止まらない。


 沙羅は署名をして、弘志に託した。こんな手続きをする事は馬鹿げていると思ったが、そうしなければ前に進めない。


――これでやっと自由になれる。教団さえ辞められたら、信者からの目も怖くない。戻って来なさいという幹部や長の電話に怯える必要もない。

 お母さんはとても苦しかったよね。教団よりも私を選んでくれたんだよね。嬉しいよ!お母さん、とても嬉しい……けど、会いたいよ。なんで死んじゃったの?私のせいなの?私を助けるために死んじゃったの?……ごめんなさい。ごめんなさい。お母さん、ごめんなさい。


 沙羅が取り乱している。弘志はブザーを鳴らした。妊婦に精神安定剤を用いるのはあまりすすめないと医者は言ったが、副作用の少ないものを与えてくれた。少しすると沙羅は眠った。


「……かわいそうに。沙羅ちゃん、辛いでしょうね。自分を責めてしまうのも分かるわ」

 真美は沙羅の額の汗を拭きながら言った。安定期に入ったとはいえ、精神的ショックが大きすぎる。兄と母親の死を同時に受け入れようと必死なのだ。今はゆっくり眠らせてあげたい。二十歳になったばかりの沙羅は、まだあどけない顔をしている。


「……沙羅ちゃんはあなたに似てるのね。切れ長の目で、鼻筋が通っていて美人な子ね。双樹君は久美子さん似かしら?」


「……、うっ、ごめん、無理だ、別れていてもやっぱり家族だったんだ」


 久美子と双樹、二人を同時に失って、弘志は男泣きする。


「……俺が悪かったんだ。あの時、もっと真剣に久美子を辞めさせていればこんな事にはならなかった。仕事の忙しさを理由に久美子の寂しさを無視したから、あんな怪しい宗教にはまったんだ。俺のせいだ。全て……」


「……それなら私も同じ、嵌まっていく両親を止められなかった。反対すればするほど頑なになるのが、マインドコントロールの恐ろしさなの」


 真美は、新興宗教の被害を受けている家族会に相談した事があるという。信者になろうとすると必ず家族に反対されると教えられているそうだ。

 

 家族を愛する故の反対が、かえって教団を信用し、帰依するという。これこそ真理だと確信させるようマインドコントロールしている。


「……私たち十分やったわ。私も久美子さんのマインドコントロールが解けたと信じたい。久美子さんは沙羅ちゃんを助けようとしたのよ。最期は母親の愛が、マインドコントロールを解いたのよ。そうよ、きっとそうだわ」


 真美は涙を拭きながら答え……弘志に伝えたい事があると話始めた。


 真美がアパートで沙羅の服を準備していた時、訪問客があったという。彼はと名乗り沙羅に会わせて欲しいと言った。


「……すごく迷ったのよ。誰か分からないもの。あなたが来たことを伝えておくとだけ言ったわ。さっき、沙羅ちゃんに言ったら、やっぱり子供の父親だったわ」

「……沙羅は何て言ったんだ?」

「一度決めたことだから会わないって」

「……そうか、沙羅に任せよう。そのっては沙羅が妊娠した事を知ってるのか?」「私には分からないわ」


 沙羅に聞こえないように、弘志と真美は小さめの声で話した。一応彼の連絡先は聞いてあると、真美はメモを渡した。


 弘志は沙羅の寝顔を見て、赤ちゃんの時から変わっていないなとフンと微笑む。双樹と久美子の死を健気に受け止める娘が愛しいと思う。これから、沙羅に何をしてやれるだろう。弘志は迷った。沙羅は何を望むだろう。

 

 弘志は沙羅が眠っている間にしか行動できないと思って、病院の公衆電話からたくみに連絡した。アパートを訪ねてきた事に期待して。


「……もしもし、私、来栖くるす弘志と申します。沙羅は私の娘ですが、何か用でしょうか?」

「……今度はお母さんじゃないんですね」

「えっ、沙羅の母親を知っているんですか?」

「……連絡もらってましたから。沙羅さんは?」


 たくみと名乗るその青年は今時の若者らしく、言葉少なくて弘志を苛立たせた。


「……今から会えますか?」弘志は単刀直入に聞く。


 一時間後にたくみ指定の喫茶店で待ち合わせることに決まった。

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