第33話 無償の愛 2

「沙羅ちゃん、落ち着いて。あなたの心の痛みは確かに私には分からない。分からないけど、これだけは信じて欲しいの。あなたは久美子さんに愛されているって事!」


 真美はゆっくりと言葉を続ける。


「……沙羅ちゃんが車に轢かれそうだった時、私も、弘志さんも足がすくんだの。……でも久美子さんだけは、あなたのお母さんだけは違った。自分の命を顧みず、娘を助けたのよ。あなたのお母さんは無償の愛を示したの。沙羅ちゃん、あなたは久美子さんに深く愛されているの。双樹君もよ、これだけは信じて、ね」


 真美も泣いている。自分の子供を抱く事すら出来なかった真美が、母子の愛を説いている。無償の愛を受けた事実と真美の言葉に救われた気がした。



───夜中12時 ロビーで待つ三人のもとに久美子が集中治療室に入ったと、看護師から連絡があった。担当医が一番心配していた事が起きたという。


「……状態は落ち着いていたんですが、突然吐き出して、意識も混濁しています。もしかしたら今夜が……。他に会わせてあげたい人がいたら至急呼んで下さい!」

「……私たち三人だけです。……今、行きます」


 弘志は気丈に答えたが、足が震えた。沙羅は真美にもたれかかりながら、案内された部屋に入った。


「お母さん、分かる?」「……サラ」

「久美子、俺だ、分かるか!」「アナタ」


「……お母さん、ああ、神様、お母さんを助けて下さい!お母さんを救って!神様お願いです!」

 沙羅が久美子の手をにぎり力付けた。沙羅から聞く神様という言葉に久美子は少し微笑んだように見える。


「……カミサマ、サラ、ソウジュ、オトウサン、オカアサン、ラクエンで」


 途切れ途切れに聞こえる久美子の言葉に、沙羅は双樹と同じ気持ちになる。久美子の信仰を今、否定する権利など誰にもない。久美子の信仰に寄り添い希望を与えたいと思った。


「……お母さん、お兄ちゃんが待ってるよ。おじいちゃんも、おばあちゃんも楽園で待ってるから。神様がお母さんの願いを必ず叶えてくれるから。私も必ず……楽園に……行くから」


「……かみさま……サラ」久美子は沙羅の言葉を聞くと安心したように呟き、息を引き取った。



 慌ただしく動く医者と看護師に促されて廊下に出る。沙羅は思い切り泣いた。真美が沙羅を抱きしめる。弘志はなんて事だと、大きな声で言った。


「神様なんていないじゃないか!たった一つの願いも叶えてくれないなんて、神なんて何の役にも立たないじゃないか!バカヤロウ」


「……弘志さん、沙羅ちゃんを怖がらせないで。沙羅ちゃん大丈夫よ」


 真美が気遣ってイスに座らせようとしたとき、下腹部に鈍い痛みを感じ、その場にうずくまる。お腹が痛いよ、お母さん、お腹が痛いよ、赤ちゃん。


 異変を感じた看護師がストレッチャーを準備して、沙羅を運ぶ。幸い総合病院だ。当直医も産婦人科医で、沙羅の切迫早産の危機にも素早く対処した。


 安静のため、沙羅は一週間入院することになった。足と、赤ちゃんと、沙羅の心痛のための入院である。


「……沙羅、一人で心細いかもしれないが、すまない。お父さんと真美も一週間休みを取った。久美子の葬儀の手配や、家の片付け、それと家に行って……色々と用事を済ませてくる。沙羅は自分の体と子供の無事だけを考えろ」


 泣いている暇はない。弘志にはやるべき事がたくさんあった。翌日、久美子の家に行って警察に電話した。言った通り今村と双樹の遺体が出た。双樹は腐葉土の中で白骨化していた。慟哭する弘志を真美は支えた。


「私、沙羅ちゃんの着替えを取りに行ってから病院に行くわ」

 真美は弘志の背中に向かってそっと言う。今は弘志を一人にしてあげたかった。家族の元に返してあげたかった。

 

 丸二日間、弘志は久美子の家で過ごす。茫然自失の中、散らかった和室を片付けた。画用紙に描かれた自分と久美子の似顔絵。沙羅の手紙、子供たちの写真、久美子と三人で仲良く撮った写真。弘志は心が折れそうだった。


 タンスの引き出しを開けると家族写真があった。まだ赤ちゃんだった沙羅が泣き止まなくて、写真館の店主が思いきり笑わせてくれたな。弘志はその場にくず折れる。戻りたい。あの頃に。分かたれる前の家族に戻りたい。


 沙羅と双樹のへその緒が入った箱と一緒に沙羅名義の預金通帳が出てきた。毎月2万円の振り込みが記載されている。久美子は沙羅のために貯金していた。隣の引き出しからは、編みかけの子供の靴下があり、孫の誕生を待ちわびていたのだと思った。


「……久美子、久美子、やっぱりお前は沙羅と双樹の母親だ!」

 弘志はそれでも母親か!となじった事を悔いた。


 通帳の下から、「断絶届」と書いた封筒を見つけた。久美子と沙羅の二通分だ。復帰を促す一方で、久美子は教団を辞める事も考えていた事が分かり、弘志は心の底から安心した。沙羅のは本人が署名するだけになっている。


 もうこれがあれば、あの教団を恐れる事はない。警察沙汰になった久美子を排斥処分にする前に、葬儀はこちらで執り行うと、竹富から電話があった。まだ籍がある久美子の葬儀祈祷料を催促されていたところだった。弘志は憤りながら、どこまでも金に汚い組織だと罵った。

 竹富は籍を抜くなら、久美子直筆の「断絶届」が必要だと言った。銀色バッジを誇りにしていた久美子が生前書いているはずはないとたかをくくっていたのだ。


「……沙羅に署名してもらって、二人の断絶届けを叩きつけてやる!」


 弘志は病院に急いだ。




 



 

 


 

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