第32話 無償の愛

「あれは沙羅じゃないか!……危ない!」「沙羅ちゃん立って!」

 沙羅の様子がおかしくて追いかけてきた弘志と真美が叫ぶ。


 二人の声が聞こえたのか沙羅は立ち上がった。足が思うように動かない。早くしないと轢かれる。車のヘッドライトが近づく。沙羅は焦ったが、体が硬直して立ちすくむ。


 キイッー ───沙羅に気がついた運転手がブレーキを慌てて踏むが間に合わない。あと数メートルの所でぶつからないようにハンドルを切った。


 恐怖で目を瞑った沙羅は歩道に突き飛ばされた。と同時にドンという衝突音がした。


 振り返ると、車道に人が倒れている。沙羅を突飛ばし、代わりに車に跳ねられたのか、事実を確認するのが怖かった。


「救急車を、早く救急車を呼んで下さい!」

 弘志は通行人に声をかけて、沙羅の元に走る。


「沙羅、大丈夫か、怪我はないか?今、救急車を呼んだから、ここにいなさい。お腹は痛くないか?」弘志は真美に沙羅の事を頼み、道路で倒れている人に駆け寄った。


 後続車も事故に気がついて止まる。その車のライトに照らされて、ブラウスにタイトスカート、裸足のままでその人は倒れている事が分かった。しかし、うつ伏せなのは確認出来たが、顔まではよく分からない。


「……サラは?大丈夫なの」「……久美子じゃないか、おい、久美子なんでお前、ここにいるんだ?」


 沙羅が出て行った後、久美子は、弘志の説得に応じて警察を呼ぶと言っていたのに。沙羅の様子が気になって追いかけてきたようだ。


「……沙羅は大丈夫なの?」久美子は同じことを何度も聞く。

「大丈夫だから。今、救急車が来るから、久美子、しっかりしろ」


 額からは血が流れている。すぐに起き上がれない状態だが意識ははっきりとしているのを確認出来た。これなら命に別状はなさそうだと安堵した。


 すぐに救急車が到着し、久美子を担架に乗せる。弘志は真美に病院が分かったら連絡するからと車の鍵を渡して救急車に同乗する事にした。


「あの子は妊娠しています。何かあったらいけませんから、先にあの子をお願いします。……あなた、これを沙羅に渡して」


 担架で運ばれる久美子は沙羅を指指してそう言い、弘志に母子手帳を渡した。


「……なんで久美子が持ってるんだ!」


「沙羅が落として、車に踏まれて……。夢中で取りに行ったの、それで」


 救急隊員は話をする久美子を制した。血圧をはかり、怪我の状態を診なくてはいけない。受け入れ先の病院を確認していると、沙羅が私も乗せて欲しいと乗り込んできた。


「……あなたも怪我しているはずです。もう一台手配していますから、お待ち下さい!」

「私は大丈夫です、お願いです。私の母親なんです、一緒に行かせて下さい」


 沙羅が気丈で無事な事を確認すると、救急車は出発した。サイレンの音が鳴り出す。沙羅は久美子のそばに座り、手を握った。


「お母さん、お母さん」「沙羅、大丈夫なの?お腹は痛くない?」


 久美子は優しく聞くと、沙羅はうんと泣きながらうなずく。


「お母さん、なんで?ごめんなさい。私のせいでごめんなさい」

「急に道路に飛び出したらダメじゃない。危ないわ。沙羅」


「……お母さん、血が出てる。頭を打ったの?大丈夫?」

「……大丈夫よ」久美子がそう言うと、少し離れるよう促され、応急処置が行われた。沙羅と弘志は心配そうに見守る。骨折はしていないようだ。頭を少し打ち付けているようで、病院で検査をしましょうという事になった。


「呼吸は苦しくないですか?」心拍数を計りながら隊員が聞く。久美子は平気ですと答えて沙羅の手を握り返した。


「……久しぶりね。沙羅、あなたが小学校の頃以来かしら?大人の手になって」

「当たり前だよ、私もう二十歳過ぎたんだよ!」沙羅は泣き笑いする。久美子の告白を聞いて動揺していたが、今は母親の状態が心配で、安心させたかった。


「……なんか眠いわ」久美子は言った。こんなけたたましいサイレンの中で久美子はゆっくり目を閉じる。沙羅は心の中で何度も、神に助けを祈り求めた。


 幸いな事に一番近い病院が久美子を受けいれ 、すぐにC T検査へと回してくれた。


 沙羅も外科で一通り診てもらい、膝の擦り傷の消毒と、捻挫に湿布を貼られる。久美子には弘志が付き添い、連絡を受けた真美が沙羅に付き添った。


「……沙羅ちゃん、大丈夫?足は痛くない?お腹は?……沙羅ちゃんごめんなさい、本当にごめんなさい」

「……いいんです。真美さん、私、何とも思っていませんから。それよりお母さんはどうなるんだろう。怪我は大した事なさそうだからいいけど。病院を出たらやっぱり……」

 

 今村さんと双樹の死は久美子の故意ではない。けれど遺体遺棄などの罪には問われるだろう。


「そうね、でも今は元気になって退院する事だけを願いましょう。お母さん、頭を強く打ったからしばらく入院らしいわ。検査して様子を見るそうよ」


「……はい。けど、生きていてくれて、良かった、ほんと、よかった」


 沙羅は安心したのか、真美に心を許したのか子供のように泣いた。真美は優しく沙羅の背中を撫ぜる。初めて会った時と同じ温かい手だ。


「沙羅ちゃんさえ良かったら、出産までの間うちに来ない?一人では不安でしょ?……沙羅ちゃんにあんな事をした罪滅ぼしなの」


 真美は沙羅の包帯を巻かれた足を見て、言った。


「私ね、久美子さんていう人を誤解していたのかもしれない。両親を不幸のどん底に陥れた盲信者、家庭をバラバラにした狂信者というレッテルを貼って、本当の久美子さんを知ろうとしなかったの。けど、久美子さんも教団の被害者なのよ。純粋に教えを信じて、あんな事までしたけど……。あなたを命がけで助けたわ」


 真美の声が病院の広いロビーに響く。


「被害者……ですか、そうかもしれませんね。けど、お母さんが被害者なら私とお兄ちゃんはどうなるの?小さい頃からムチで打たれた信者の子供たち、排斥されて忌避された子供たち、性的虐待で苦しんだ子供たち、死んじゃったお兄ちゃん、ねえ、真美さん、教えてよ!私たち二世は?私たちこそ被害者だよ!」


 沙羅は怒りと失望と涙でぐちゃぐちゃになりながら、真美を責める。第三者には分からない世界なんだよ!そんなに簡単に結論しないで!叫びにも似た声を出すと、真美は沙羅を落ち着かせて言った。

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