第31話 久美子の告白 3

「やめて、双樹、お願い」久美子の声が遠くに、近くに聞こえる。


 双樹は鋭い痛みの場所に目をやる。果物ナイフが腹部に刺さっていた。

「母さん、なんで!」双樹はナイフを握る母の手を払い退け、その場に倒れた。


「双樹、あなたがしようとしている事は、人間の目には正義でも、神の名を、黒瀬教祖様の名を汚す事なのよ!脱退したあなたが何を言っても信じてもらえないわ。教団と教祖を訴えて何になるの!救われないわよ。双樹、分かるでしょ……ならばお母さんが双樹を殺して、復活する側にしてあげる」


 久美子はただ自分の覚悟を示そうと脅すつもりで軽く刺した。りんごを剥く果物ナイフだ。命までは奪えないだろうと刺したが、思いのほか刃物は奥まで入った。白いシャツに血が滲み始める。


「お母さん、痛いよ。今までされたムチより痛い。心も痛くてたまらないよ。

母さん、もう無理だ。限界だよ。……僕は母さんを救えないんだね。助け出したかっただけなのに」

 

「……双樹、改心して、ね、お母さんと一緒にこの教団で生きて!脅すだけだったの、双樹、キャ、血が止まらないじゃない、今、救急車を呼ぶから」


 久美子が救急車を呼ぼうとした時、双樹は自分でもっと深く……ナイフを腹部の奥に刺し込んだ。ドロドロと流れていく血液。このままでは失血死してしまう。久美子はパニックになり、タオルで傷口を押さえる。


「おかあさん、このまま死なせて。病院に運ばれたら、輸血問題がある。……もう信仰の戦いをしたくないんだ。お母さんを困らせたくない」


 双樹はずっと闘ってきた。友達の誕生日も祝う事をしなかった。国旗掲揚をせず、校歌も歌わず、体育の授業では武道を拒否した。好奇の目で見られ、仲間外れにされ、先生からはため息をつかれてきた学生時代。信仰があったからじゃない。仲間の信者の目があった。久美子の監視が怖かった。もうそんな下らない闘いはごめんだ。


「双樹、いや、死なせない!生きていてくれたらそれでいいの、双樹!」


「洗脳がとけなければ良かったかもな。……おかあさん、先に楽園で待ってる」


 泣き叫ぶ久美子に双樹は最期の言葉を残して……息を引きとった。その言葉が、双樹の信仰によるものではなく、母親を喜ばせるため、母を思っての双樹の優しさだった。死際でも母から希望を奪わなかった。


 双樹の最期は沙羅双樹のように凛々しかったと……久美子は言った。


「なんて事だ!久美子!」弘志は久美子を叩きながら双樹はどこに葬ったかを聞く。恐れていた通り、夏椿の樹の根元だと答え、今村は日の当たらない方、双樹は日の当たる場所だと淡々と答える。


「いやー、お兄ちゃん、お兄ちゃん!」


 沙羅は久美子の告白を聞いて、気がふれたように庭に飛び出し、樹の根元の土を手で掘り起こす。

 

「お兄ちゃん、お兄ちゃん。いやー」


 この悪夢は、沙羅と喫茶店であった翌日の出来事だった。その後は全て久美子が双樹になりすましメールをしていた。


 久美子は孝介にも、訴える事はしないとメールした。背教者に関わると君も排斥されて、親との縁が切れ路頭を彷徨うと脅し文句も入れた。


 会社には、双樹は体を壊し入院すると、健気な母親を演じて退職手続きを済ませた。教団関係者は、背教者双樹の死を知る由もなかった。ただ丸山の口から双樹の名前が出た時は、動揺したと久美子は言う。


 久美子は双樹の死の隠蔽工作をした事実を淡々と話した。


───悪魔に魂を売り、自分の信仰を守った最悪の母親、鬼だ!だから約束の日にお兄ちゃんは来なかったんだ。断絶届の書き方を教えてくれるって言ったのに。辞めたら守ってくれるって言ったのに。お兄ちゃんはもうこの世にいなかったんだ。もう会えない。お兄ちゃん、なんで死んじゃったの。


「……沙羅、大丈夫よ。双樹はここにいるの。この若枝に双樹の霊が宿っているわ。双樹が復活するまで、夏椿が守ってくれている。だからあなたもお兄ちゃんに会いたかったら、復帰して、ね、沙羅、お願い」


 泣き叫ぶ沙羅を励ますように、久美子は笑みを向ける。弘志も真美も何かに取り憑かれたような久美子の表情に怯えた。


「……狂ってる、お母さん狂ってるよ!もうやだ、やだよ」


 そんなの信仰でも何でもない。久美子は教団の教えにマインドコントロールされている。信じきって話す顔に生気がない。盲信だ。狂信者となっている。


 沙羅は久美子を一瞥すると。庭から玄関に回り、鞄と靴を取ってフラフラと歩き出した。一刻も早く久美子から離れたかった。


 タクシーを拾おうと大通りまで歩く。足が痛くて転び、鞄を落とした。母子手帳が車道に飛ばされる。何台かの車が手帳を巻き込んで行く。


 沙羅は焦って、車道の車を確認せず飛び出した。足が痛む。転んでお腹を庇う。沙羅にとって一番大切な物はお腹の中の赤ちゃんだ。無理をしたらいけない。戻らなきゃ、キャ、危ない。


───沙羅の目の前に車が近づいてきていた。



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