第26話 夏椿

「双樹、今日ね、沙羅来られなくなったみたいなの。残念ね」


 久美子は庭の夏椿の樹に水をかけながら言った。毎日同じ時間に水をかけてお祈りをする。儚仏ぼうぶつ真理教の信者は必ずこの儀式をして神に感謝をする。


「天におられます唯一まことの神よ!今日も日々の糧を与えて下さり感謝致します。そして天にすでに住まわれる偉大な教祖黒瀬様、あなたのご意志が一日も早くなされます事お待ちしております。すでに亡くなった者の復活を、神よ、あなたは必ず果たされます。私たちはあなたに全き信仰を示し、あなたの救いを伝えます。どうかそれまで、私の信仰が果てませんように、見守って下さい」


 久美子は守り樹に手を添えて、目を閉じた。神の精霊が宿る夏椿からも清められると教えられているからだ。そして若枝をそっと折る。


「双樹、あなたにいいものを見せてあげる。本当は沙羅も一緒に三人で見たかったんだけど……」


 久美子はサンダルを脱いで、和室に入り、若枝を水の入った花瓶に挿す。そして水晶玉が置いてある台の下から箱を取り出し開けた。箱の中味を一つずつ丁寧に畳の上に並べていく。


「双樹、覚えてる?これはあなたが初めて描いた絵よ」


 四つ折りにした紙を広げ、久美子は微笑んだ。少し黄ばんだ画用紙には、弘志と久美子らしい顔が描かれている。


「お母さんを美人に描いてくれてありがとう。これは三歳だった時の絵ね。双樹、お母さん、これも嬉しかったわ。沙羅と一生懸命に作ってくれたのよね」


 久美子は小さな札を一枚一枚並べた。そこには『かたもみけん』と書いてある。隣には沙羅からの手紙がある。


「双樹。聞いていてね。『おかあさんへ、いつもありがとう。いつもつどいにつれていってくれてたのしいです。さらもごほうしがんばるね。おかあさん、つかれたらこれつかってね。おにいちゃんとつくったよ。さらより』どう?沙羅らしいでしょ。お母さんすごく嬉しかったな」


 久美子は『かたもみけん』を握って、「まだ使えるかしら?」と悲しく笑った。


「双樹、写真もたくさんあるでしょう。そうこれは、あなたが洗礼を受けて信者になった時の記念の写真よ。こっちは沙羅ね。二人とも緊張してるわ。お母さんにとったらこの日は人生最高の日で眠れなかったのよ!双樹と沙羅は、お母さんの宝物よ。ずっと一緒、これからもずっとね」久美子の目に涙がにじむ。


 玄関のチャイムが鳴った。


「……もしかしたら沙羅かもしれない。気が変わったのよ、きっと。双樹待っていてね」


 久美子は若枝に優しく触れ、涙を拭いて玄関に向かった。

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